降臨節第4主日聖餐式(2005/12/18)
 
旧約聖書:サムエル記下7:4,8-16
使徒書:ローマの信徒への手紙16:25-27
福音書:ルカによる福音書1:26-38
 
あえて受け入れる
 
 降臨節第4主日をそのまま迎えることは、実は非常に珍しいことです。ふつう、降誕日はウィークデイになりますので、その前の主日に降誕日総員礼拝をする。そうすると、降臨節第4主日であるその主日は降誕日になってしまい、降臨節第4主日は飛んでしまうわけです。今年は、ドンピシャリ、25日の降誕日が日曜日であるため、降臨節の主日を4回守ることが出来るのです。
 では、降臨節第4主日のテーマは何でしょうか。本日のみ言葉からは、それは「神様の約束」であるように思われます。旧約聖書のサムエル記下7章では、ダビデとその子孫に対する永続的な繁栄の約束です。ナタン預言と呼ばれます。ダビデの前にイスラエルの指導者としたサウル王の心が神から離れ、有能な部下であったダビデを妬み、憎悪するようになったため、神はサウルを罰するように決心され、代わってダビデを王としてお立てになることを約束されるのです。こうして、ダビデ、ソロモンと続くイスラエル統一王国が始まります。イエス・キリストもまた(正確にはこの世での父親ヨセフですが)、このダビデの家系であるとされています。降誕節に歌われる聖歌19番は、「エサイの根より、生い出でたる」という歌詞から始まりますが、「エサイ」というのは「エッサイ」、つまりダビデの父親の名前であるわけです。イスラエルが滅ぼされ、ダビデ王朝が根こそぎにされたところに残っている根株から、新しい芽が生えて、イスラエルと人類を救う救世主となる、ということが歌われているわけです。
 さて、本日の福音書ですが、クリスマスの場面としてあまりにも有名なマリアの受胎告知のお話が出てまいります。ここでのテーマも、「約束」です。そして同時に、もう一つのテーマ、「従順」、それも単なる従順というのではなく、受け入れがたい事柄をあえて受け入れるということがここでは重要になってまいります。天使ガブリエルがおとめマリアのところに現れて、「あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産む」。そして、その子がイスラエルの牧者、つまり救い主となると告げるのです。マリアはさぞかし驚いたことでしょう。彼女は身分の高くない庶民で、お父さんはヨアヒムというそうですがすでに亡くなっている。お母さんのアンナもかなりの高齢になっている。マリア自身はまだ14,5歳であったと思われます。いわば母子家庭といって良いでしょう。そのマリアが救世主を身ごもる。しかも、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」とガブリエルは言うのです。マリアは戸惑ったことでしょう。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」と言います。それは、率直な戸惑いの気持ちを表しておりますし、拒否の言葉のようにも聞こえます。無理もありません。まだ、結婚前の若い女性です。しかも、当時のイスラエルでは、婚約中に婚約相手以外の子どもを宿すというのは大変なことでした。律法によれば、姦通罪として石打の刑に処せられる重罪であったわけです。そのことはマリアも重々承知していたはずです。そんなに簡単に受けいられることではありませんでした。しかし、マリアは最後には「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」と言って、受胎告知を受け入れ、イエスの母としての運命、光栄ある運命、「ダビデの王座をくださる」と約束されたように、限りない栄光を約束された運命ですが、ひょっとしたら悲しみに満ちているかもしれない運命を受け入れるのです。やがて神殿で幼子イエスに出会った老預言者シメオンは「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」とマリアに語っています。それは、悲しく辛いマリアの運命を予告しているかのようです。
 1960年代、70年代に流行ったビートルズの曲にLet it beという曲があります。私と同年代の方の中にはよくご存じの方もおられると思います。この曲の歌詞は実は、マリアの受胎告知からとられたものだということをご存じでしょうか。英語の聖書には「み心のままに、この身になりますように。」というのは、Let it be to me とあるのです。その歌詞を訳したものをご紹介しましょう。
 
「私が苦しみに出会うとき/母マリアが現れて/知恵に満ちた言葉をかけてくれる/Let it be
暗闇の中に包まれてしまうとき/彼女は私の前に立ち/知恵に満ちた言葉をかけてくれる/Let it be
すべてはみ心のままに/知恵ある言葉をつぶやいてごらん/Let it be」
 
これは、メンバー同士の確執が原因で、解散を余儀なくされるビートルズの運命を前にして「もう一度一緒にやっていくことは出来ないのか」という思いを込めて歌われたものだそうですが、同時に、受け入れがたいことをあえて受け入れようとする気持ちがそこには表れているように思えてなりません。
 マリアも受け入れがたい受胎告知を、あえて受け入れようとします。マリアの「み心のままに(Let it be)」という言葉は、従順と謙虚さのお手本のように言われています。しかし、それはただ素直に唯々諾々と従ったというのではなく、苦渋に満ちた選択だったに違いありません。不安もあったでしょう。婚約者のヨセフになんと説明すればよいのでしょう。現にヨセフはマリアが子を宿しているということを聞くと、はじめは婚約解消すら考えたのです。しかし、マリアが最終的に「Let it be」と言ったとき、同時にそこには限りない安らぎが訪れます。人間的な苦しみを引き受けつつ、勇敢に神さまの意志を受け入れようとする。そうした人間の姿に、神さまは罪の赦しと永遠の命という大いなる約束を下さるからです。
 この心の葛藤を、実はイエス様その方にも私たちは見ることができます。それは、あの有名なゲッセマネの祈りです。十字架につけられるというご自分の運命が迫っていることを知ったイエス様は、3人の弟子を連れてエルサレム城外のゲッセマネの園へ赴かれます。そこでイエス様は、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」と祈られるのです。「この杯」というのは、もちろん十字架刑のことです。貧しい人、苦しんでいる人、抑圧され差別されている人の立場に立ち、共に歩むことによって、ユダヤの支配層の憎しみを受け、当時の極刑であった十字架刑を受けざるを得ない、人々の苦しみと罪を一身に背負って磔になる、その運命の前に、イエス様も苦しまれるわけです。しかし、この「しかし」というところが重要です。それは「それにもかかわらず」とも訳せる言葉で、受け入れがたいことをあえて受け入れようとする決断を示しています。この祈りの最中にイエス様は血の汗を流したとも言われていますが、神の子イエス様もまた苦しみの中で、「Let it be」と仰ったわけです。
 さて、マリアはこうしてイエス様の母となることを引き受けられたわけですが、その決断は、神さまに対する限りない信頼に支えられています。苦しみ悩む人を決して見捨てず、すべての人を救ってくださる神さまに対する信頼です。しばらくして、親戚とされるエリザベトの許を訪れたマリアが歌った「マリアの賛歌」にその気持ちがはっきりと表されています。
 
「わたしの魂は主をあがめ、/わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。/身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう。」そして、このように続けます。「主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、 権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます。その僕イスラエルを受け入れて、/憐れみをお忘れになりません、わたしたちの先祖におっしゃったとおり、/アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」
 
 皆様よくご存じの「おとめマリアの頌」です。この神は、権力者の神ではなく、身分の低い者、飢えた人、苦しみ悩む者の神です。その神に対する絶対の信頼があったからこそ、マリアは受け入れがたい受胎告知をあえて受け入れたのではないでしょうか。
 私たちもまた人生の中で、受け入れがたい現実を突きつけられることがあります。肉親の死もその一つでしょう。愛する家族を失う。それは耐え難いことです。「神さま、どうして?」という疑問を投げつけたくなることもあります。しかし、結局、私たちはその現実を、あえて受け入れようとするのです。それは、復活と永遠の命についてのイエス・キリストの約束を信じているからです。私の父は私が高校2年生の時、母親が47歳の時に飛行機事故で突如天に召されました。そのときの母親の気持ちは、今この年になってみて、痛いほどよく分かります。しかし、母はその悲しい現実を落ち着いて受け止め、信仰の道を以前にも増して熱心に歩むことになります。
 今年8月の終戦記念日にNHKで放送された「伝道者になった真珠湾攻撃隊長〜淵田美津雄・心の軌跡〜」のビデオを最近貸していただいて、見る機会がありました。淵田さんは、海軍航空隊に属し、真珠湾攻撃の時には攻撃隊長を努め、戦後戦犯として起訴されました。米軍に対する恨みは強く、米軍の捕虜に対する待遇のあら探しをして、彼なりの闘いを戦後も続けていたのですが、そんな淵田さんを変え、キリスト教の伝道者に変えた出来事がありました。それは、次のような話を聞いたときでした。ある米国人少女が日本兵を収容した収容所で日本兵の援助をしていたという話なのです。しかも、彼女の両親は伝道師で、フィリピンに在住中、占領・進駐してきた日本兵にスパイ容疑で殺害されたといいます。ところが両親の死を知った少女は、日本兵を援助することが亡くなった両親の意志を継ぐものと確信し、日本兵の援助を生涯の仕事としたというのです。これを聞いた淵田さんは、電撃に撃たれたように自分の醜さと、神の愛を悟ります。そしてやがてキリスト教の伝道者として全米各地を訪問して説教し、和解と平和の大切さを説いて回るのです。この少女は、まさに受け売れがたい出来事を受け入れたのだと思います。それは、単に「赦す」とか「忘れる」「水に流す」といった消極的な姿勢ではなく、まさに、両親の死を自分の生き方の問題として受け入れ、その運命に従う、という驚くべき決断でした。そして、その底には、神がこの世に働いていてくださる、神さまのなさることには意味がある、神さまは自分を用いようとされているのだという絶対の信頼があったのではないでしょうか。
 神さまは、ダビデに対して永遠の繁栄を約束して下さいましたが、それから1000年後み子イエス・キリストを世に送って下さることによって、すべての人、とくに苦しみ悩む人々、困難のうちにある人々に対する愛と救い、永遠の命を約束して下さいました。私たちはこの神さまの約束に対して絶対の信頼を抱き、受け入れがたい現実に直面したときにも、絶望せず、あえてそれを引き受け、勇気をもって歩んでいきたいものです。