2005年12月11日 降臨節第3主日
 
旧約聖書 イザヤ書65:17-25
使徒書 テサロニケの信徒への手紙T 5:12-28
福音書 ヨハネによる福音書 3:23-30
 
「あなたはどなたですか」
 
 「あなたはどなたですか。」そんな質問を、私たちはいつするでしょうか。思いもかけないことを言われたり、質問をされたりすると、「あんた、誰?」と言いたくなることもあるでしょう。しかし、もっと根本的には、自分にとって異質な、理解しがたい存在に対して発せられる質問のように思えます。本日の福音書では、祭司やレビ人(イスラエルの特定の部族ですが、先祖代々神殿の仕事を担い、祭司たちを助ける人々)が、洗礼者ヨハネに対して「あなたはどなたですか」という質問を発しています。それは、洗礼者ヨハネが預言者として、神の裁きの言葉と悔い改めの呼びかけを携えてきたからです。当時のユダヤ社会に安住し、アブラハムの子孫であると安心して、形だけの信仰に陥っていた人々、とくにファリサイ派やサドカイ派、ヘロデ派といった支配的な人々にとって、洗礼者ヨハネの言葉は別世界からの言葉のように響いたのでしょう。
 私は最近、イエス・キリストの誕生と生涯を描いた映画をいくつか見ました。聖書にはでてこないのですが、その中で洗礼者ヨハネがイエス様に対して同じ言葉、「あなたはどなたですか」という言葉を投げかけるのです。(聖書では「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と、ヨハネの使いが尋ねることになっています。)それは、ヨハネが律法の徹底という、ある意味で当時の人々の信仰の徹底、その延長線上のずっと先を指し示していたのに対して、イエス様の言葉と業は、いやイエスという方の存在そのものが、人間の常識を越えた神の恵みとして訪れたからです。ヨハネ福音書では、洗礼者ヨハネははじめからその答えを知っており、「世の罪を取り除く神の小羊だ」、つまり生贄として屠られることによってすべての人々の罪の赦しを実現してくださる方だ、と語っていますが、私には映画『キング・オブ・キングス』の中で、牢獄につながれたヨハネが、窓辺を訪れたイエスに必死に尋ねているその様子が非常に印象的でした。彼は斜めになった壁をよじ登り、手を伸ばしてイエス様の手をつかもうとしますが、指と指が触れただけで、再び牢獄の中に落ちていくのです。
 異質なもの、理解できないものに出会ったとき、私たちは2種類の異なった反応をする可能性があります。一つは拒絶反応です。拒否感や嫌悪感が先立ち、相手を受け付けなくなります。もう一つは、拒否感を乗り越え、何とかして相手を理解しようとする態度です。そして、何とかして相手を理解しようとするひたむきな気持ちが、「あなたはどなたですか」という言葉になって表れるのではないでしょうか。
 先日から、最初の電車の中で、以前読んでおりました遠藤周作の『深い河』を読み直しています。以前には気付かなかったことに、いろいろと気付かされています。数名の登場人物がそれぞれ人生のある段階で経験したことが描かれ、やがてそれぞれの人物がそれぞれの思いを胸に抱いてインドのガンジス川を目指してツアーに参加いたします。それぞれの人物像が興味深く描かれていますが、その中に美津子という女性がいます。美津子は学生の時に真面目一辺倒の大津という男子学生(カトリックの信徒)とからかい半分につきあい、すぐに冷たく捨てるわけですが、この大津が後に神父となり、やがて貧しい人々、とくにアウトカースト、つまりアンタッチャブルとか被差別賎民とか呼ばれる人々に仕えるためにインドに渡ります。大津はちょうどマザー・テレサのように、徹頭徹尾インドの貧しい人々に奉仕します。差別され、路上に放置された人々の死体を運んで葬る仕事を黙々とします。美津子がこのツアーに参加したのは、実は大津がインドにいるらしいと伝え聞いたからでした。大津に対する美津子の気持ちは実に複雑です。彼女はどちらかと言えばこの世的な価値観のどっぶりと浸かった女性で、神さまとか心の問題、宗教といったものを軽蔑しています。だから、大津がうっとうしくて仕方がない。拒絶反応です。しかし、同時にそのような自分自身を嫌悪しています。だから、なぜかは分からないけれども、大津の行為や言葉が心から離れない。自分とは異質な存在と出会い、心が揺さぶられるところがあるわけです。ですから、大津を探しにインドまで出かけたわけです。この物語は、とってはならない死体の写真をとった日本人を大津がかばい、その代わりとなってインドの人々に殴られて殺されてしまう、そんな場面で突如として終わってしまいます。遠藤周作はそこに、イザヤ書に記された「苦難の僕」の姿、つまりイエス様の姿が預言されていると人びとが信じた、人びとの罪を引き受け、報われることなく黙々と死に赴く苦難の人の生き様をダブらせています。そしてその結末は唐突ですが、そこには、イエス・キリストのように報われることなく、人々のために命を捧げた大津の生き方と、それにふれて美津子が変わっていく予兆のようなものが示唆されています。
 私たちの毎日の生活の中には、さまざまな出会いがあります。気の合う相手もいるでしょう。趣味を同じくする仲間もいるでしょう。しかし反対に、気が合わなかったり、どことなく嫌悪感を感じたり、全く別世界の人間のように思ったりする相手もいることでしょう。そんなとき、私たちはある種のチャレンジを受けているのです。ピシャリと心の扉を閉じて、その人を拒絶するのか、それとも「あなたは誰なのですか」という問いを投げかけつつ、相手を理解しようと努めるか、という岐路に立たされているのです。少し前に、キリスト教に関わる人びとの間で『ヤベツの祈り』という本が話題になったことは記憶に新しいことです。歴代誌というイスラエルの歴史を記した文書の中にこのような部分が出てまいります。「ヤベツは兄弟たちの中で最も尊敬されていた。母は、「わたしは苦しんで産んだから」と言って、彼の名をヤベツと呼んだ。またヤベツがイスラエルの神に、「どうかわたしを祝福して、わたしの領土を広げ、御手がわたしと共にあって災いからわたしを守り、苦しみを遠ざけてください」と祈ると、神はこの求めを聞き入れられた。」という記事です。『ヤベツの祈り』という本はこの部分を取り上げ、神さまに対する大胆な祈りの大切さを説いた本です。ヤベツという人はここにしか登場しないのですが、とにかく彼は「私を祝福して、私の領土(地境)を広げてください。」という、開けっぴろげな厚かましい祈りを神さまにするのです。そして、神はこの願いを聞き届けられた、というのです。私たち日本やアジアの住民はどちらかというと謙譲を美徳とし、あまり厚かましい願いはしないものだと言い聞かせられています。たしかに、これが自分の支配する領土、思うがママになる土地を意味しているのであれば、そうかもしれません。私も最初にこの言葉を聞いたときは、なんと厚かましい奴だと思ったことでした。しかし、もしもこれが、自分の可能性、あるいは自分が受容できる世界や価値観の多様性を広げてください、自分が友として交わることのできる人びとを増やしてください、自分が神さまのために献げられる奉仕の業を広げてください、という願いであるならば、それは素晴らしい祈りになるのではないか、と思うのです。多様な人びとを受け入れ、その交わりを通じることによって、私たちは豊かにされ、そうでない場合とは比べものにならない豊かな祝福を受けるのではないでしょうか。
 このことを教会のあり方に結びつけて考えてみましょう。まず、教会の内部です。教会にはさまざまな人がいます。年齢も様々。社会環境も様々。仕事もいろいろ。ただ共通しているのは、神さまを求めていること、イエスという方にこの上もない魅力を感じていること、イエス様に従って生きて行きたいと願っていること、教会の交わりの中で慰めを感じていること、などでしょうか。まず、教会の中で、そのような多様性があることを認めましょう。そして、その多様性は、神さまの恵みであると考え、感謝しようではありませんか。教会によっては(特に聖公会以外の教会に多いようですが)、特定のカラーに染まること、長年伝道活動に励んできた牧師のやり方や雰囲気に従順であることを求め、それに反対する人びとを排除する、そんな偏狭なところもあるようです。ある若い女性が教会の中で傷つき、他の教会に移ろうとすると、「そんな聖霊のいらっしゃらない所へ行ってどうするの」と更に非難された、ということを聞きました。顔を合わせば、決まり文句のように「感謝です」「ハレルヤ」と言うことを要求される教会。そこに、教会に集う多様な人びとを一色に塗り込めようとする、排他的な福音理解を感じ取るのは私だけでしょうか。「多様性の中の一致」というのは聖公会の誇るモットーであると思います。様々な悩みや苦しみを持ち、また喜びを持つ多様な人びとを互いに受け入れ合い、それを恵みとして自分自身が豊かにされる、そんな交わりを求めたいと思います。今日の使徒書であるテサロニケの信徒への手紙には、「気落ちしている者たちを励ましなさい。弱い者たちを助けなさい。すべての人に対して忍耐強く接しなさい。」と実際的な交わりの指針が書かれています。「すべての人に対して」というところが重要だと思います。どんな人に対しても、自分の意見から審くのではなく、忍耐強く接する。つまり受け入れるように努力するということではないかと思います。
 教会と外部、つまり社会との関係ではどうでしょうか。教会は、社会の中の多様な人びとを受け入れようとしているでしょうか。いわゆる社会的少数派(マイノリティ)と呼ばれる人びと、差別されている人びと、どこにも行き場のない人びとを受け入れようとしているでしょうか。もちろん、教会ですから、イエス・キリストの福音を語り、それを受け入れる人を受け入れるのですが、問題はその語り方です。様々な人びとが持つ苦しみや悩みを教会が自分のものとして受け止め、それを共有し、人びとに奉仕することを通じて、人びとに近づいているでしょうか。自分は救われている、自分はイエス・キリストを知っている、という高所に立ち、「教えてあげる」式の伝道をしてはいないでしょうか。そうではなく、教会は教会自身の地境を広げ(日本式の言い方をしますと、敷居を低くし)、多様な重荷を抱える多様な人びとを受け入れ、そのことによって豊かにならなければならないのではないでしょうか。
 もう一度私たちは、イエス・キリストを述べ伝えるということはどういうことなのかについてよく考えてみたいと思います。そして、自分とは異質な存在を受け入れる、それが恵みなのだということについても考えてみたいと思います。
 
<祈り>
恵みに富める天の神さま。降臨節第三主日を迎え、私たちはイエス・キリストを私たちの中にお迎えする準備をしています。どうか、私たちがイエス様のこの世でのご生涯を仰ぎ見、自分にとって受け入られられないものを敢えて受け入れようとすることができますように、私たちの心の地境、活動の地境を広げてくださいますようにお願いいたします。