2005/11/20 降臨節前主日(特定29)
 
旧約聖書:エゼキエル書34:11-17
使徒書:コリントの信徒への手紙T 15:20-28
福音書:マタイによる福音書25:31-46
 
最も小さい者のために
 
 今日は降臨節前主日。来週からキリスト教の新しい一年の初めである降臨節(アドベント・待降節)が始まります。今日の主日は、一年の締めくくりとして、キリストが歴史の終わりにその業の完成、成就のために来られることを祝う「王たるキリストの主日」とも呼ばれます。そして、来週から始まります降臨節には、2000前にベツレヘムでお生まれになったイエス・キリストのご降誕を記念するクリスマスを待つ、そのための準備をする、という意味と、来るべきキリストの再臨に備える、という二重の意味が込められているのです。
 では、イエス・キリストの再臨はいつ、どのようにして起こるのでしょうか。一部の教派では特定の時期を定め、終末がやってくると宣伝しているところもあるようですが、終末とか再臨、最後の審判とかいうことを軽々しく弄ぶべきではないと私は思っています。イエスさまが再び来られることは私たちは確かに信じておりますけれども、いつ、どのような形でそれが起こるかは、誰にも分からない。誰も知らないのです。イエスさまご自身も、「だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」と語っておられるのです。
 ですから、私たちはむしろそれを現在のこととして、私たちの生き方、生活における信仰の姿勢として受け止めなければならないのではないかと思います。「いつも目を覚ましていなさい。用意していなさい。」とイエスさまが教えておられるのはそのことではないでしょうか。私たちは、いつでもイエスさまをお迎えする準備をしておかなければならないのです。個人の終末についてもそうです。私たち一人ひとりはいつ終末を迎えるか分かりません。今は元気でいても、明日は交通事故に遭うかも知れないのです。縁起でもないと叱られそうですが、人生とはそういう不確定性に満ちているのです。ですから私たちは、常に、備えをしておかなければならない。日々、毎時間、神さまに受け入れてもらえるように自らを整えていなければならない、ということではないでしょうか。
 それはどのような備えなのでしょうか。もちろん、身辺をきちんと整理しておきたいということもあるでしょうが、もっと大切なことがあります。それを、今日の聖書のみ言葉は教えています。それは、「最も小さい者のためにする」という言葉に表されています。イエスさまのたとえ話は、こうです。イエスさまが再臨して栄光の座に着くとき、すべての人々を裁かれる。そのときに、栄光の王であるキリストは、祝福される人々と裁かれる人々とを分けられ、祝福される人に対して、こう言うわけです。「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた。」これを聞いた人々は、王自身に対しては全くそんなことをした覚えがないので、「いつそんなことをして差し上げたでしょうか。」と問います。すると王は、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」と答えるのです。
 私たちは日々の生活の中で、様々な出会いを経験します。出会いとは言えないまでも、路上生活者や障害者、あるいは外からは分かりませんが様々な悩みを持った人と遭遇します。すれ違うと言ってもよいでしょう。でもたいていの場合、私たちはそれらの人々を避けて通るか、石ころのように無視して通ります。それらの人々に一々話しかけ関係を持つには、私たちの社会は忙しすぎるのかも知れません。また、「危険」を感じる方もおられるでしょう。様々なことが無意識のうちに働いて、私たちがそれらの人々と関わることを妨げています。
 実は先日、ウィリアムス神学館にサンフランシスコから一人の司祭が来られ、1時間半ほどお話をしてくださいました。ドン(ドナルド)・フォックスというお名前で、サンフランシスコの「ナイト・ミニストリー」(夜の牧会)という活動に携わっておられる60歳代の男性です。夜の10時から朝の4時の間、サンフランシスコの下町(ベイ・エリア)を巡回して、路上生活者や様々な悩みや苦しみを持っている人々に話しかけ、彼らの悩みや必要に耳を傾け、必要な場合には、宿泊施設を紹介したり、精神的・医療的サポートを提供する仕事なのです。日本の「いのちの電話」に当たる電話でのカウンセリング団体とも協力して、電話をかけてきた人の居場所を突き止め、そこへ急行することもあるそうです。生活の上で、あるいは精神的に危機的状態にある人が多いため、「危機にある人々に対するカウンセリングと必要なサポートの紹介」というのが「ナイト・ミニストリー」の仕事であると仰っておられました。そのパンフレットには「暗闇を照らし、希望の灯を再び灯す」という言葉が印刷されています。
 ドン・フォックス司祭が夜に出会う人々は、ホームレスの人々、夜の仕事に携わっている人々、バーでお酒を飲みながら苦しさを紛らわしている人々。様々な人々がいます。フォックス司祭はそれらの人々に、分け隔てなく声をかけ、話を聞きます。「もし、イエス・キリストがサンフランシスコのベイエリアに戻ってきたとしたら、どこにおられるだろうか。好意的に聴衆が耳を傾けてくれる祈りの家だろうか。たしかに、そこはイエスが子どもの時からしばしば足を運ばれたところである。では、マーケット南部の雑踏はどうだろう、ネオンの輝く夜のジャングルはどうだろう。多くの人はそこにイエスさまはおられないだろうと言う。しかし、聖書の中には、貧しく、孤独で、悩みを抱え、社会の片隅に追いやられた人々に対するイエスさまの姿がある。サンフランシスコ・ナイトミニストリーはまさに、そのような人々に手を差し伸べるために生まれたのです。」とフォックス司祭は語ります。私がなにより感動したのは、「私たちは決して伝道しません。それは私たちの考えを押しつけることになるからです。そのような伝道熱心な牧師によって、かえって心を傷つけられ、キリスト教に背を向けるようになった人々もたくさんいるのです。そうではなく、その人人が何に苦しんでいるか、何を求めているのかに真剣に耳を傾けることです。それが、彼らに対してイエス・キリストの福音と愛とを証しすることになるのです。」と仰っておられることです。ともすれば、それらの人々は悪に染まっている、だから正しい道を教えてあげるべきだ。彼らは気の毒な人々だ。だから、イエス・キリストの福音を教えてあげなければだめだ。そんな風に私たちは考えてしまいがちですが、ドン・フォックス司祭はそうではなく、相手の立場に立って、決して相手を裁かず、ひたすら相手の声に耳を傾けることが、イエスさまの愛の証しだというのです。
 日本でも、同じような立場に立って釜ケ崎等でホームレスの人々に対する支援活動をしているキリスト教の団体や個人(神父や牧師を含む)がたくさんおられます。その方たちのために祈りましょう。同時に、私たちの身の回りや生活の中で起こることがらに思いを向けてみましょう。私たちは、教会の兄弟姉妹を含めて、日々出会う人々、ことに苦しみや悩みを抱えた人々に対してどのように接しているでしょうか。
 まず思い当たるのが、私たちは自分の価値観から出発し、それを人に押しつけたり、それに基づいて人を裁いたりしていないかということです。私は、学校勤務の中で、いろいろな問題を抱えた生徒に対して日々裁いてしまっている自分を発見し、愕然とすることがあります。もちろん教育という場面ですから、一定のきまりや基準は必要でしょうが、まずそれを振り回して生徒を従わせるという律法主義が教育現場には横行しています。そんな中で、一人ひとりの生徒の心の底からの叫びに耳を傾けたい、と思いつつ、悶々と苦しんでいる毎日です。皆様はいかがでしょうか。教会生活の中でも、自分の主張や価値観を押しつけることによって、相手を従わせようとすることはないでしょうか。人を裁いて「あんな人なんか」と無視したり、仲間はずれにしたりすることはないでしょうか。教会は様々な人々が集まっているところ、日本基督教団の藤木正三先生の言葉を借りれば「雑然とした集まり」なのだと思います。そして、それが良いところなのです。「雑然としたままでなければならない」のだと、藤木先生は言われます。一つの考えに統一しようとしてはいけない。もちろん、イエス・キリストの福音を信じる者として、同じ信仰に招かれている訳ですから、同じ方向を目指して旅をしているのですが、それは長い時間をかけて徐々に調和にたどり着く歩みなのではないでしょうか。
 また、耳を傾ける前に、まず自分の考えをまくし立てるということはないでしょうか。私たちはよくしてしまうのです。カウンセリングのトレーニングをお受けになった方は良く耳にされたと思いますが、non-suggestive supportという言葉があります。何も指示しないで、ひたすら相手の悩みに耳を傾けるということです。私はカウンセラーではありませんが、ドン・フォックス司祭に学んで、そのような接し方をこころがけたいな、と思っています。私が、それに反している場合は、どうかご指摘下さい。「non-suggeistive support」だよ、と。