2005年10月9日 聖霊降臨後第21主日(特定)23
 
旧約聖書:イザヤ書25:1-9
使徒書:フィリピの信徒への手紙4:4-13
福音書:マタイによる福音書22:1-14
 
神の招きに応える
 
 「私は神さまによって招かれている」そうお感じになっておられる方はおられるでしょうか。私が申し上げようとしているのは、別段、聖職者になるという話でもありませんし、この世での命の終わりに、天国から招かれるということでもありません。そうではなく、私たちはみな、日常生活のただ中で、神さまから招かれ、イエスさまの弟子として生活するよう呼びかけられている、ということなのです。私たちが日曜日に、教会へ行って神さまを賛美しようという気持ちになるのも、招きを受けているからかも知れません。ふと祈りたくなったり、賛美を口ずさんでみたりするのも、私たちが招きを受けているからなのでしょう。神さまの招きは、いろいろな機会に、いろいろな形で示されます。ある方は、祈りの最中に神さまの声を聞くかも知れません。ある方は、仕事帰りの電車の中でふと何かを思いつくという形で招きを受けるかも知れません。また、ある方は、長年連れ添った妻や夫、あるいは自分の愛する身内の方が神様の御許に召されたときに、神さまの招きを感じるかも知れません。毎日の仕事や人間関係に疲れ切って重い身体を引きずって、ふと見上げると教会の十字架があった。そんな形で教会に招きを受ける方もおられるでしょう。どのような形で示されるにせよ、その招きは私たちの生活のただ中で起こっているのです。
 しかし、私たちは毎日の生活に忙しく、ビジネスや子育てに没頭しているときには、なかなかそれに気付かないものです。朝起きればその日一日の仕事の段取りを考え、お母さんはこどもを学校に送り出すのに忙しい時間が始まります。会社に着くと、息つく暇なく仕事が追いかけてきます。お母さんも、外で働くことが増えてきています。こどもの学校生活を気にしつつ、仕事の方も結構忙しいのです。企業の方は、使い捨て労働力の一つとして女性の力を当てにしているからです。青年もまた、フリーターという名前で、呈の良い一時労働力としてこき使われているのが実情です。私の息子も(彼はフリーターではなく、正規の社員ですが)、酷使としか言いようのない状態で毎日を過ごしています。毎晩帰宅するのは12時から1時頃で、本人は「遊んでいるんじゃない。仕事が片付くと夜中になるんだ」と言っています。やっととれた休暇は、教会どころではありません。ゴルフにも行かなければなりませんし、家族でレジャーも必要です。以前は教会が唯一の社交場、楽しみであった時代もありましたが、今では、気晴らしやレクリエーションの場は、無数にあります。レジャーが産業になっています。現代という社会はそういう社会になっています。
 でも、それだけでよいのでしょうか。私自身のことを考えてみても、40代は生活を支えることに必死で、自分が神さまに呼ばれていると感じることができませんでした。自分が置かれている状態を何とかして自分の力で打開しようと必死で、人のことを気にしている余裕などありませんでした。でも、ふと立ち止まって自分の足元を見たとき、そこにポッカリと大きな穴が空いていることに気付いたのです。神さまが語りかけてくださったのは、そのむなしさに気付いたときでした。自分の人生を振り返って、神さまが自分を用いようとしてくださっていること、それにも関わらず、自分の考えに固執し、自分の思いを神の思いと取り替え、傲慢にも神の民である教会を離れて生活していた自分の姿に気付いたとき、それまで知ってはいても現実感を持って受け止めることができなかった「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。」というヨハネ福音書の言葉が心の中に響いてきたのでした。そして、私はすぐに妻と話し合い、再び教会へと足を運んだのです。みなさんのご家族、友人にも、どうか、ちょっと立ち止まって自分を振り返り、神さまの招きの声を聴き取る機会が与えられますように、祈っています。
 さて、今日の福音書に即してご一緒に学んでまいりましょう。今日の福音書には婚宴の譬え、つまりまさに神さまの招きについての譬えが、二つ組み合わさった形で記されています。一つは、主人が家来を送って婚宴に招いたのに、だれも来ようとはしなかったという話です。ある人は畑に出かけ、別の一人は商売に出かけたということです。他の人びとは王様の家来たちを捕まえて殺してしまった、とまでいうのです。これらの譬えはもちろん、イエスさまを受け入れようとしなかったユダヤ人支配層(サドカイ派やファリサイ派)に向けられています。彼らの敵意の前に、結局イエスさまは十字架上で処刑されるのです。では、私たちはどうでしょうか。それが今日の福音書の問いかけです。遠い時代の遠い国の話しにしてしまうのではなく、毎日、毎日の生活の中で忙しく立ち働いている私たち自身のこととして考えてみましょう。先ほども申し上げましたように、私たちは、仕事に出かけ、忙しいという理由で、神さまの招きに耳を塞ぎ、それを退けていることが多いのです。仕事をすること自体は、別段悪いことではなく、必要なことであり、良いことでもあります。問題は、その忙しさにかまけて、神さまの呼びかけに耳を塞いではいないだろうか、この世のことにのみ心を奪われ、イエスさまの招きの言葉を聞き逃してはいないだろうか、ということです。ヨハネ黙示録3章30節に、「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」という有名な言葉がありますが、私たちはこのイエスさまのノックに気付かず、あるいは聞こえていても聞こえないふりをして、イエスさまを戸の外に閉め出しているのではないでしょうか。もしそうだとすれば、それは、王様から使わされた家来たちを殺してしまった人びとと同じことをしていることになってしまいます。神さまは大声で耳元で叫んでくださるわけではありません。ささやくような声で、私たちの心の底で語られることが多いのではないかと思います(エレミヤ書にはそのような箇所が出てまいります)。問題は、私たちの心が開かれているか、神さまの招きのささやきを聴き取ることができるか、ということではないでしょうか。携帯電話にはいつも電波が無数に流れてきています。でも、私たちがスイッチを入れ、待ち受け状態にしないとどんな電波も受信できません。それと同じように、私たちも心を開き、神さまの招きの声を聞こえる状態にしなければならないのです。
 後半のたとえ話は、婚礼に招かれたのに、婚礼の礼服を着ていない者がいた、という話です。これは、婚礼に招かれた者は、それにふさわしい当然の準備をしなければならない、ということではないでしょうか。神さまの招きに応えて、神の民として教会に集い、また、日ごとの生活を送る私たちは、それにふさわしい準備をしているでしょうか。イエスさまを迎え入れ、共に食事をする準備ができているでしょうか。
 では、その準備とは一体なんでしょうか。今日の使徒書であるフィリピの信徒への手紙は、そのことを端的に「感謝と祈りの生活」であると書いています。主はすぐ近くにおられる、そのことを全身全霊で感じ取り、その喜びを生活の中で表すことを、この手紙の筆者であるパウロは求めています。広い心を持ち、思い煩わず、全てのことについて感謝しなさい、と言うのです。とても難しいことのように思えます。しかし、パウロは一つの秘訣を教えてくれています。それは、何事につけ、感謝を込めて祈りと願いを捧げ、求めているものを神に打ち明けなさい、という薦めです。私たちは毎日の忙しさの中で、神さまの招きに耳を塞いでいるばかりか、神さまに呼びかけることすら忘れてしまっているように思われます。パウロはそんな私たちに、自分の願い、思いを打ち明けるように教えています。「神さま、私の願いは…です。どうか、それを叶えてください。」そんな、素直な、祈りを私たちはすることをとっくの昔に忘れてしまっているようにも思えます。もちろん、自分勝手なお願いをぶつけるのが祈りではありません。自分の本当の願いは、むしろ神さまの方がご存じなのかも知れません。でも、私たちの心からの願いを神さまに打ち明けることによって、何かが示されるのです。本当に必要なものが与えられるのです。パウロは、そうすれば神の平和、キリストの平和が私たちの心の隅々に行き渡るのだと教えています。更にパウロは、全て真実なこと、全て清いこと、全て気高いこと、全て愛すべきことに目を向けること、それらを心に留めることを勧めています。私たちは、つい、全てを悪い方に考えてしまいます。きっと神さまが備えて下さると信じるのではなく、不安に陥り、暗い気持ちになります。人間関係においても、相手の良いところを見て、積極的に受け止めるのではなく、欠点のみに目を奪われて、相手の人格までも否定してしまうことが良くあります。そうではなく、相手の方の長所に目を向け、相手もまた神さまによって同じ祝福を受けているということに気付き、互いに受け入れなければならないのではないでしょうか。それが、「感謝と祈りの生活」にふさわしいのです。
 最後に申し上げたいことは、私たちはみな、神さまによって教会という祝宴、喜びの場に招かれているということです。さまざまな招きがあるにせよ、教会というのは招きを受けた私たちが集い、互いに重荷と喜びを分かち合う宴会の場であるということです。今日の旧約聖書のイザヤ書はその喜びを歌っています。「万軍の主はこの山で祝宴を開き/すべての民に良い肉と古い酒を供される。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい/御自分の民の恥を/地上からぬぐい去ってくださる。この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び躍ろう。」私たちは大いに喜び、大いに楽しんで良いのです。そして、大切なこと、それは、この祝宴の主催者は神さまであるということです。私たちはよく取り違えてしまうのですが、私たちが主人で他の人びとを招くのではないのです。つい、主人のようにふるまってしまうのが私たちです。でも、もしそうであれば、自分の気に入らない人、自分の意に沿わない人は排除してしまうことにもつながりかねません。そうではなく、この祝宴の主催者は神さまであって、私たちはみなそれに招かれている。そして、新しい方が迎え入れられれば、その方たちを受け入れるお手伝いをする。そんな風に考えてみてはいかがでしょうか。
 
<祈り>
 いつも私たちをみ守り、招き寄せてくださいます神さま。感謝いたします。私たちはともすれば、日常の忙しさにかまけて、あなたの招きに耳を塞ぎ、それを拒否してしまいます。どうか私たちの心の奥深くに働きかけ、あなたの静かなささやきの声を聞かせてください。私たちの頑なな心を開き、あなたの声を聞く耳をお与えください。