2004年9月19日 聖霊降臨後第16主日(特定20)
第1日課:アモス書8:4−12
第2日課:ルカによる福音書16:1―13
二人の主人に仕えることはできない
聖書の中には、どうしても理解することができない、あるいは理解が困難な場所がいくつかあります。今日の第2日課として読まれましたルカによる福音書の「不正な管理人」(口語訳では「不正な家令」)というところも、その一つではないかと思います。「主人はこの不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた」というところを一読しますと、まるで「不正の薦め」のように思えます。イエス様は、果たして、「不正」をお勧めになっているのでしょうか?そんなはずはありません。では、どう考えればよいのでしょうか?
いろいろな注釈書を読んでも、このたとえ話は「理解が難しい」と書かれています。そして、つじつまを合わせるために、さまざまな解釈が試みられています。管理人は借金のある人たちの利息分をまけてやったのだとか、自分がとるべき手数料をまけてやったのだとかいう説明もあります。でもそれにしては量が大きく(たとえば油百バトスというのは、3.4キロリットルに当たり、小麦百コロスは35キロリットルに当たります)、しかも、油と小麦の場合では割り引く割合が違っていますので、どうも説得力のある説明ではないようです。
そこで私は、無理につじつまを合わせるのは間違いではないか、もっと素直に、理屈ではなく、この管理人の気持ちを読みとってみてはどうか、と思い、もう一度このたとえ話を読んでみました。すると私に見えてきたのは、この管理人の必死な様子です。不正がばれて解雇されるかも知れない、そんな土壇場に立たされて、必死に動き回る雇われ人の姿です。主人というのはおそらく不在地主でしょう。莫大な地所を持ち、町で豊かに暮らしているお金持ちの姿が浮かびます。そんな中で生き延びるのに必死な管理人は、知恵を絞って負債のある人を自分の味方につけようとするわけです。そして少しは太っ腹のこの主人は、その管理人のやり方に感心し、それをほめるわけです。「なかなか、やりおるわい」という感じなのでしょう。ルカ福音書のこのたとえ話は、終末(世の終わり、審判のとき)が間近いという信仰を背景にしたものだと言われています。つまり、終末が近づいているのに、光の子である信仰者たちは、この不正な管理人が身の安全のために悪知恵を絞って必死になっているのに比べても、不熱心で、暢気に構えているのではないか、そんな気持ちがこのたとえ話には込められているというのです。
究極的関心事という舌を噛みそうな神学用語があります。難しい言葉ですが、要は、一つのことをどこまで大切に思い、そのことにどこまで身と心を捧げているかということを表しています。私たちにとって、イエス様に従うということは、果たしてそうした「究極的関心事」になっているでしょうか。私たちは自分の全生活をかけて、また全身全霊をかけて神を愛し、人を愛し、イエス・キリストに従っているでしょうか。そんな問いをこのたとえ話は私たちに投げかけているのではないかと思います。
イエスに従うということは、生活のすべてを神様の方に向ける、神と人とを愛することに向けるということです。それは職場にいても、教会にいても同じことなのです。会社にいるとき、家庭にいるときには神様のことはどうでもよい。教会に来たときだけ神様を礼拝する。そうではないはずです。もちろん、四六時中、「神様、神様」と言っていなければならないというのではありません。毎日の生活はとても忙しいのですから、そんなことはできません。でも、忙しい中でも、どこかで私たちの心が神様の方に向かっているということは大切なことです。そのような必死の思いを、今日のたとえ話でイエス様は教えておられるように思います。
私は最近、林歌子さんの生涯について書かれた一冊の本を読みました。博愛社の設立に献身し、その後、キリスト教婦人矯風会の活動を確立された方です。林歌子さんは1864年、明治維新の4年前に福井県の大野村というところで生まれます。明治16年に結婚し、男の子を出産しますが、やがて離婚、その赤ちゃんも病死してしまいます。その後上京して立教女学校の教師になり、ウィリアムス主教の「キリスト教の神は、天地創造の神である」という言葉によってキリスト教信仰に目覚め、通い始めた神田教会で小橋勝之助さんと出会います。この小橋勝之助さんが博愛社の創立者です。小橋さんの方は、初め医学を志していたのですが、やがて子どもたちを育てることに人生の方向を見出し、その力の源泉をイエス・キリストの福音に求めます。そして母の死をきっかけに、故郷の播州・赤穂の矢野村瓜生に帰り、小橋家屋敷内に「博愛社」の看板を掲げ、村の貧しい子どもたちのための夜学を始めます。やがて石井十次さんの岡山孤児院と実質的に合併し、親類の猛反対を押し切って、孤児を引き取って孤児院へと博愛社を発展させます。しかし、勝之助の身体は病に蝕まれていました。このとき、勝之助の願いを全身で受け止め、子どもたちの母として献身しようと決意したのが、林歌子さんでした。立教女学校の仕事をなげうって海のものとも山のものとも分からない博愛社の仕事に献身するには、迷いもあったでしょう。祈りに祈り、神様の答えを求めました。そして、神様の示した道を選んで、矢野村へやってきます。明治25年、28歳のときでした。そのとき石地蔵の前で、「天の神よ、これから向かう地でどんな困難が待ち受けていようとも、忠実に我が務めを果たすことができるようにお導き下さい。」と祈ったといわれています。
このとき博愛社には、約20人の親のない子どもたちがいました。子どもたちは農業を中心として自立するための労働に携わると共に、夜は勉学に励み、礼拝を献げるという規則正しい生活を送っていました。林歌子さんは、そうした子どもたちのために、慣れない炊事、洗濯、繕い、水くみなど、身を粉にしてひたすら働きました。庭の井戸につるべをおろしてはたぐり寄せ、一杯、二杯と手桶にためては風呂場へ運ぶ。風呂場が一杯になる頃には、半身はずぶ濡れ、両手はしびれて感覚すらなかったと言います。
そして明治26年、小橋勝之助さんが天に召されると、林歌子さんは、勝之助さんの実弟・実之助さんと協力して、勝之助さんの遺志どおり、大阪・十三の地に博愛社を移転し、ほぼゼロから事業を再出発させるのです。初めは悲惨な状態でした。しかし、歌子さんの必死の祈りが聞き届けられて、ウィリアムス主教、マキム主教をはじめ日米のキリスト者による支援の輪が徐々に広がり、事業は軌道に乗り始めます。やがて、実之助さんにカツヱさんという伴侶が見つかると、博愛社の仕事をカツヱさんに任せ、林歌子さんは、そうした子どもたちを生み出す社会の矛盾に立ち向かい、女性の地位と自覚の向上のためにキリスト教矯風会の仕事を始め、そのために一生を捧げます。資金を集めるために、アメリカ全国を回り、日本の女性たちを悲惨な境遇から救う仕事の大切さを訴えます。こうして一生を子どもたちのために、また女性たちのために献げて昭和21年、1946年、81歳で神様の御許に召されるのです。皆さんの中には、直接林歌子さんにお会いになり、その記憶が残っている方もおられるかと思います。
さて、今日の福音書に戻ってみたいと思います。その中で、イエス・キリストは「どんな召使いでも、二人の主人に仕えることはできない。(…)あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」と教えています。それは、神に仕えるには、富をすべて投げ捨てなさい、という教えではないようです。もちろん、すべての富を捨てなさいと言われている聖書箇所もあり、それを実践したアッシジのフランチェスコのような聖人もいます。しかし、大切なことは、私たちが何を一番大切にしているか、いつもその大切なものに全生活を向けているかということだと思います。今日のイエス様の教えは、もちろん不正の薦めでもなければ、また極端な清貧の薦めでもありません。そうではなく、ひたすら神様の方に顔と心を向けなさいという教えであるように思えます。林歌子さんの生涯を見ますと、始めから終わりまで、身体と心のすべてが神様の方に向かっている、それ以外のことは何一つ考えていないということを感じるのです。そのように生きたい、生きなければならない。でも、この林さんのような生き方は、なかなかできるものではありません。わたしたちはつい、この世のさまざまな思いに煩わされて、なかなか自分の生活全体と心を、一筋に神様の方に向けることができません。ひどい場合には、神様のことを長い間忘れてしまうこともあるのです。私自身がそうでした。自分の頭の中ではキリストと共に生きていると考えていても、神を賛美し、神の前に謙虚に立つということを長い間忘れていました。しかし、私は感謝いたします。神はそんな私をも生かし、用いてくださいました。みなさん。どうぞ心配なさらないでください。私たちが神様を忘れているときにも、神様は私たちを忘れていらっしゃらない。私たちを捉え、その後計画に従って導いてくださる。お母さんが小さい子をお守りしている時にも、小さい子は自分の好きな遊びもしたいので、それで時々遊びに没頭してお母さんを忘れてしまうことがあります。ふと気がつくと、お母さんがいない。いや、いなくなったような錯覚を起すのです。それで探すのです。でも、お母さんは少し離れたところにいて、いつも子どものことを見守っています。まして、私たちをお造りになった神様です。私たちは神様はいつも私たちと一緒にいて下さる、そのことに対する信頼を持ちたいと思います。そして素直な心で、その恵みを受け入れたいと思います。そのときに初めて、無理をすることなく、しかし、揺るぎなく神様の方に心を向けることができるのではないでしょうか。
<祈り>
天地の全ての物をお造りになった全能の神様。御子イエス様はただあなたにのみ仕えるように教えられました。しかし、わたしたちは日常の生活の中で、思い煩い、多忙、絶望や憎しみの中で、あなたに心を向けることを忘れ、自分の関心に心を奪われていまいます。どうかわたしたちに豊かな聖霊を注ぎ、わたしたちを強め、あなたがわたしたちを限りなく愛して下さっているということを思い起こし、その恵みを心から受け入れることができるようにお導き下さい。全ての人類に対する愛の故に十字架にかかられたわたしたちの主イエス・キリストの貴いお名前によって、感謝して、祈ります。