2004829 聖霊降臨後第13主日(C年特定17

 

旧約聖書続編:シラ書[集会の書]

使徒書:ヘブライ人への手紙13:1-8

福音書:ルカによる福音書14:1,7-14

 

奉仕の業(ディアコニア)

 

 マザー・テレサといえば、知らない人は恐らくおられないでしょう。アルバニア人を両親としてユーゴスラビアに生まれ、36歳のときインド・カルカッタのスラムで貧しい人々のために働くことを決意し、スラムに学校をつくって子どもたちに読み書きを教える一方、道ばたに倒れている人々への奉仕を始めました。彼女は信仰に関係なく、最も貧しい人々のために全身全霊を捧げて奉仕し、相手がヒンズー教徒であれば、葬儀もヒンズー教の方法で行いました。1979年にはノーベル平和賞を受賞し、カトリック教会からは「福者」に列せられました。「この世の最大の不幸は、貧しさでも病気でもありません。自分が誰からも必要とされないと感じることです。」という彼女の言葉は、今も、いや日本においても物質的・精神的貧しさが広まりつつある今だからこそ私たちの胸に突き刺さります。

 インドにまで行かなくても、実は私たちのすぐ近くにも、それに劣らず尊い活動をしている人々がおられます。釜ケ崎で奉仕の業にたずさわっておられるキリスト者のグループです。少し詳しくお話をさせてください。

8月18日〜20日に、プール学院大学を会場にして、「聖公会関係学校教職員研修会」という研修会が開かれ、立教や桃山学院、神戸松蔭など聖公会に連なる10校の大学・中高・神学校から200人ほどが参加いたしました。プール学院は当番校でしたので、準備や当日の役割などを担当させていただきました。その中で一つの分科会に参加された30名ほどは、19日の午前中に釜が崎を見学し、釜が崎で野宿生活者の生活支援に当たっているキリスト教の団体からいろいろと話を聞く機会を与えられました。野宿生活者、日雇い労働者というと、みなさんどんな印象をお持ちでしょうか。不潔とか危険だとかいうマイナスのイメージ(それは長い間につくられた偏見なのですが…)をお持ちの方も一般には多いかも知れません。ご存じのように大阪は、全国で一番野宿生活者の多いところです。1万人以上、ひょっとしたら2万人に迫るかもしれない数の野宿者が大阪にはいます。東京には山谷、横浜には寿町、名古屋には笹島、といったように、寄せ場とかドヤ街といわれる地域は大都市には必ずと言っていいほどあるのですが、大阪の野宿者の数は飛び抜けて多いのです。釜が崎だけでなく、長居公園や大阪城公園、中之島などいろんなところで野宿者のブルーテントを見かけるのが大阪です。この人びとは、古くは1960年代に九州の炭坑が閉鎖される中で出稼ぎ労働者として都会に出てきた人が多く、万博景気など景気が上向きの時には、土木工事など、いわゆる3K(きつい、汚い、危険)の仕事を担い、日本経済の発展を下の方で支えてきました。しかし、最近経済不況が長引く中で、仕事を失い、野宿をされる人が急速に増えています。別段好んでブルーテントに寝泊まりしているわけではなく、バブル経済崩壊後、公共工事やその他の土木・建設工事が落ち込む中で、仕事にあぶれ、簡易宿泊所にすら泊まることができない人が増えているのです。しかも高齢化し、工事現場での仕事には雇用されない人々が増えています。万博以後の大阪の街作りは、この人たちの存在抜きには不可能だったのですが、今では彼らが見捨てられているということができます。今は夏ですが、冬になると厳しい寒さの中で、毎年数百人の方が病気や行き倒れで命を失っています。

釜が崎には「釜が崎キリスト教協友会」という連絡組織があって、そこにはローマカトリック教会(フランシスコ会、イエズス会)やルーテル教会、日本基督教団などに連なる団体が加入して、連絡を取り合いながら協力して野宿者の支援に当たっておられます。炊き出しや毛布配りといった直接的な生活支援だけでなく、仕事を作り出し自立して生活することを支援する活動や、子どもたちの生活や学習の支援、あるいは子どもたちと労働者との交流(子どもによる襲撃が増えていますが…)など、多彩な活動を行っています。「人が人として暮らせる」そんな社会を目指すのが、協友会の活動です。この協友会の代表をされているのは、秋山仁先生という方で、日本福音ルーテル教団の牧師です。直接には、「喜望の家」という施設を運営されています。この「喜望の家」は、30数年前にエルスベート・ストロームというドイツ人の女性宣教師が始めたもので、特にアルコール依存症という問題を抱えた労働者が自立できるように支援する活動を行っています。ストローム先生は、80歳を過ぎた今も、ドイツで貧しい人々のために働き続けておられます。ルーテル教会は「喜望の家」の活動を「ディアコニア」つまり奉仕の業として位置づけています。世界の教会の多くは各地で、貧しく社会から見捨てられた人々に対する奉仕の業に取り組んでいますが、デンマークのある教会は、ディアコニア(奉仕の業)を次のように説明しています。

「ディアコニアは、イエス・キリストを理想像としていかに生活し、人と出会い、他者に対しての行動をとるかということを問います。また、隣人に自分自身を差し出します。隣人のそばにいます。見返りを求めたり、望んだりしません。今ここでの支援に価値があると信じます。疑いや失望のあるところに、希望をもたらします。人間一人ひとりは限りなく尊いものだと考えます。」

堺からそう遠くない釜ケ崎という地区で、このような活動をされているキリスト者のグループがいるということをわたしたちは覚えて祈りたいと思います。そして、体力や時間のある人はそれを用いて、金銭的に余裕のある人はそれを用いて、少しでもそのお手伝いができれば、私たちもその奉仕の業に与ることができるのではないでしょうか。

 ただ、一つ気をつけなければならないことがあると思います。私たちはともすれば、人を援助したり、救援するときに、「可哀想に」という気持ちから、相手に同情し、相手よりも一段高いところから援助をしがちです。そして、見返りではありませんが、感謝の気持ちを求めたりするものです。今日の旧約聖書にありました「高慢」というのは、こんなところにも現れるものです。自分ではそのつもりはなくても、それがサタンの誘惑というものだと思います。イエス様も今日のルカ福音書の中で「お返しを求めるな」ということを教えておられます。本田哲郎というフランシスコ会の有名な神父さんは、自分にも、また他人にも結構きびしい方ですが、こんなことを仰っておられます。釜ケ崎に来てまだ間がない頃、神父の姿で寒空で路上生活をやむなくされている労働者に毛布を配って歩いておられたときです。一人の労働者の口から、「この偽善者め」という言葉が聞こえてきました。本田神父は悩みました。その言葉が忘れられずに、中途半端な気持ちではなく、本格的に釜ケ崎の住人になり、生活を共にする道を歩まれまたということです。ですから本田神父は、聖職者を目指す神学生には特に厳しいようで、ウィリアムス神学館の神学生が数年前に釜ケ崎に研修に行ったとき、「君たち、勘違いをしてはいけないよ。自分を神さまに近い存在と考えて、憐れみをかけるという考えは徹底的に捨てなさい。」ときつく言われたそうです。たしかに、イエス・キリストは一度も高い位に昇ったことはなく、そこから降りてこられたわけではありません。生まれたときから、大工の子、しかもガリラヤという片田舎に育ち、貧しく、苦しんでいる人々の生活と魂を知り尽くしておられた方、それがイエス様です。イエス・キリストに従うということは、高いところから相手を見下ろして、憐れみをかけることではなく、苦しみ悩んでいる人たちと同じところに立ち(あるいは立とうとし)、寄り添って歩むということではないかと思います。そしてそのことを、神に愛され、キリストの十字架によって赦された人間として当然のこととして行えること、それが奉仕の業であろうと思うのです。

 しかしそれは、わたしたちがみな、奉仕の業を行うために釜ケ崎に出かけなければならないということではありません。もちろん、できる条件にある人はそうすべきかも知れません。しかし、よく見れば、わたしたちの身の回りにも、お隣の家にも、地域の中にも、また教会の兄弟姉妹の中にも、苦しみ悩んでいる人がおられるのではないでしょうか。そして、他でもなく、わたしたち自身が、人生の中で躓き、傷つき、倒れ、救いを求める存在ではないでしょうか。そのようなとき、イエス・キリストがわたしたちと共におられることを感じ取り、慰められる。信仰生活の中で、わたしたちは幾度となく、そのような恵みを経験しているのではないかと思います。そして、教会とは、そのような神さまの愛に感謝し、互いに助け合い、また教会の外部の人々にも手を差し延べる、そのような生きた信仰共同体でなければなりません。わたしは、この堺聖テモテ教会で、そうした互いに奉仕し合う兄弟姉妹の姿を何度も目にする機会に恵まれました。病気の方を病院へ訪問に行くと、「先週、誰それさんが来てくれました」ということを耳にします。また、ある方の家庭訪問に行くと、すでにテモテ教会の方が来られているところに出会ったこともあります。先日、西さんのお家へ参りましたら、裏門の上に、週報とブドウの房が置いてあるではありませんか。すでにテモテ教会の方が来られていたのです。また、いつも誕生日カードを書いてくださっている方、欠席された信徒の方に週報やお手紙を欠かさず送っておられる方。生活上のさまざまな悩みの相談に乗ってくださっている方。それは、本当に互いに奉仕し合う教会の姿だと、私は心からの感動を覚えています。それが、教会の姿です。そして互いに奉仕するところから、やがてもっと広く人々に奉仕する生活が生まれてくるのだと思います。

 最後に、今日の福音書に戻ってみましょう。イエス様は、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と仰っておられます。しかしイエス様は、決してこの世の高みからへりくだられたのではありません。単なる謙虚さというよりも、むしろイエス様ご自身が貧しく苦しんでいる人々のところにしっかりと立っておられる、そのことをわたしたちは教えられます。さらにイエス様は、「宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。」と教えておられます。宴会とは、まさに教会のことです。教会こそ、お返しを求めることなく、苦しむ人悩む人を招く宴会でなければなりません。そのような宴会にこそ、イエス・キリストは確かにおいでになるからです。

 

 

<祈り>

 すべての人々を限りなく愛しておられる神さま。御子イエス・キリストは、貧しく、名もない大工としてこの世に生き、苦しみ悩む人々と共に歩み、私たちの苦悩と貧しさを分かち合ってくださいました。どうか、私たちもまた、イエス様の弟子として、互いの苦しみと喜びを分かち合い、互いに仕え合い、愛し合うことができるように、聖霊を豊かに注いで私たちを強めてください。また、世の中で貧しさや苦しみの中に置かれている多くの人々に仕えることができるように、励ましてください。現在、すでにあなたの宣教の器として、釜ケ崎その他の地域で奉仕の業に励んでいる人々を守り、祝福し、力をお与え下さい。