2004815日 聖霊降臨後第11主日(特定15)

 

第1日課:エレミヤ書23:23-29

第2日課:ルカによる福音書12:49-56

 

平和をもたらす火

 

 今日は終戦記念日、第二次世界大戦において日本と連合国との戦争が終結した日です。みなさまはどんな思いでこの日を迎えていらっしゃるでしょうか。若い世代の方は、あまりピンと来ない、「自分には関係ない」と思っている人が多いかも知れません。でも、多くの日本人にとって、またアジアの人々にとって、この日は特別な意味を持っています。家族を失った人、家を焼かれ路頭に迷っていた人、親を亡くし孤児となった人、原爆の被爆者…さまざまな苦しみと悲しみが人々を襲っていました。みなさまの中にも家族の中に戦没者や空襲でなくなった方など、戦争の被害者をお持ちの方はたくさんおられることと思います。私はまだこの世に生まれておりませんでしたが、翌年私が生まれたとき母親は「男の子を兵隊にとられずにすむ世の中になっていてよかった」とつくづく思ったそうです。

 ところで、先ほど読んでいただきましたルカによる福音書は、そのような日にふさわしい箇所かどうか戸惑いはしないでしょうか。私自身、いつもどのように考えればよいのか苦しんでいるところです。イエス・キリストという方は、平和の君、この世に和解と平和をもたらしてくださった方です。「山上の説教」では、「平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。」と教えられ、ヨハネ福音書では「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。」とわたしたちに約束されています。ところが今日のルカ福音書12章では、イエス様は「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。」と言われ、「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。父は子と、子は父と、/母は娘と、娘は母と、/しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、/対立して分かれる。」と実に厳しい、ある意味では危険なことを仰っておられるのです。いったい、どう考えればよいのでしょうか。明治になってキリスト教が日本に入ってきたとき、「親不孝の宗教だ」とか「危険な宗教だ」と陰口を言われたのも、このあたりの聖書の言葉が問題になったようです。では、イエス様は家族が仲違いすることを薦められているのでしょうか。決してそうではありません。「互いに愛し合いなさい」というイエス様の教えは、もちろん家族にも当てはまります。わたしたちは神さまがわたしたちを愛して下さったように、互いに愛し、平和を作り出さなければならないのだと思います。

 しかし、それは現状をすべて肯定し、この世に存在する不正義を見過ごしにするということではありません。神さまの正義と平和は、一体のものだと聖書は教えています。正義の行われない平和はありません。平和な世の中でも、不正義に苦しんでいる人があるとき、それは神の平和の名に値しない世の中だと言わなければなりません。ですから、キリスト者はある場合には、信仰のために、愛と正義と平和のために、闘わなければならないこともあるのではないでしょうか。聖書には「キリストの兵士」という言葉も出てまいります。古今聖歌集には「霊の戦い」という部分があり、勇ましい曲が収められています。たとえば412番は、よくご存じですね。「立てよいざ立て、主の強者」というこの曲は、悪(それはこの世に働いているサタンの業だと言えますが)との戦いに赴くわたしたちを鼓舞する歌です。そして、今日の礼拝の最初に歌いました160番には、罪を焼きつくす聖なる愛の火が讃えられています。神さまはわたしたちの戦いに火を送って下さるのです。今日の第1日課のエレミヤ書で、神さまは「わたしの言葉は火に似ていないか」と語っておられます。そしてルカ福音書には、「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。」というイエス様の言葉が記されています。

 もちろん、この火は空襲の火でも、原爆の火でもありません。それは、一方では裁きの火であり、世の中の不正義に対する審判を表していますが、わたしたちイエス様を信じる者にとっては霊の火であり、信仰の火、愛の火なのです。わたしたちを清め、聖霊に満たしてくれる火なのです。ですから、「その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。」とイエス様は仰ったのではないでしょうか。すでにわたしたち人間の内にイエス様の教えを受け入れ、イエス様に従って歩む火のような情熱が燃えさかっていたら…。イエス様の願いは、他でもなく、わたしたち人間によって拒絶されました。ご自分はやがて十字架につけられる。そのことをご存じだったからこそ、「わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。」と言われたのです。

 さて、平和を望みつつ、いや平和を待望するからこそ、周りの人々との亀裂をあえて堪え忍ぼうとする人々の例をご紹介したいと思います。それは、2001年9月11日にニューヨークで起こった同時テロによって肉親を失った100以上の家族によってつくられた「ピースフル・トゥモロウズ」、正式には「平和な明日を求める9.11被害者家族の会」というグループです。この人々はテロによって肉親を殺されたにもかかわらず、報復や戦争ではなく、平和による問題の解決を訴えます。彼らの合い言葉は、「わたしたちの家族の死を、戦争の口実にするな!」「わたしたちの悲しみを平和への一歩に!」でした。思想も、宗教も、年齢も家族構成も異なる多様な人々が、何のバックもなく、試行錯誤を重ねて作り上げたグループです。しかし、この人々の思いは、すんなりと世の中に受け入れられたわけではありません。9.11以降のアメリカは、報復のための戦争という主張一色に塗りつぶされたかのようでした。その中で、平和の思いをぶつけることは並大抵のことではありません。脅迫や嫌がらせの電話や手紙、買い物先での嫌がらせ。自宅に放火されたこともあるようです。寄せられたeメールの中には励ましの言葉も多かったのですが、中には、「この国の安全と自由を守って戦っている者がいるというのに、お前ら馬鹿者どもは、それを台無しにしている。どっかへ出ていけ。そうでなければ穴にでも入って、口を閉じていろ」というような中傷メールも混じっていました。テレビインタビューでは、「あなたはわれわれの味方か、それともテロリストなのか」とキャスターに罵られたこともあります。それでも、この人たちは平和のために、あえてののしられる道を歩みました。9.11の当日、ラサール・ゼルマノビッツさんの弟エイブさんは貿易センタービルで働いていました。彼は燃えさかる火の中で、四肢麻痺の友人を見捨てることができず、この友人と共にビルにとどまる道を選びました。アメリカ政府はこのエイブさんの行動を褒め称え、復讐戦争の熱を煽るためにエイブさんの話を利用しました。ラサールさんは、弟の行動は人間として当然の行為であると考えています。そして、弟の死を理由に戦争を始め、イラクやアフガニスタンの人々を爆撃する道をアメリカが歩むことは間違っている、キリストの教えに反していると考えました。また息子を失ったオーランド・ロドリゲスさん夫妻は、こう書いています。「わたしたちは、最初のニュースを聞いたときから、悲しみと慰めと希望と絶望の瞬間と喜びの記憶を、すべての悲しんでいる家族の人々と共に分かち合っています。しかしながらわたしたちは今、われわれの政府が暴力的復讐の方向に突き進んでいるというニュースにうんざりしています。このような方向の先では、遠い国の息子や娘、両親や友人たちが死に、苦しみ、わたしたちに対する恨みをいっそう増し加えていくことになります。これは進むべき道ではありません。進むべき道は、わたしたちの息子の死に対する仕返しの道ではありません。特に、わたしたちの息子の名においてなされるものであってはなりません。」

 この人々はあくまでも、何の政治的な意図もなく、自由な意思で集まり、戦争に浮かされるような周りの人々に平和を訴え続けました。もちろん、他の被害者家族たちの意思も尊重しました。ある人は、多くの遺族に手紙を書き、結局それを投函しなかったと言います。自分の気持ちはそれとして、あくまでも遺族の自由な意思を大切にしたかったからです。それでも、この人々の訴えを支持する人々の輪は広がり、ついにワシントンで7万5000人の集会を開くまでになりました。神はこの人々を見捨てられず、祝福されたということではないかと思います。

 この集会で歌われた歌を紹介しましょう。

 「一つの世界、一粒の種、

  ときどき小さな愛を与えよう、

  するとそれは育って、身を寄せる木となる、

  そしてそれこそが必要なすべてなのだ。

  理解が種であり、愛がそれを育てる、

  そしてあらゆる親切を示すことができるようになるのだ。

  一人の神、一つの信仰、

  それなのに多くの道が曲がりくねっている、

  人に優しくすることだけが、

  本当に必要なすべてなのだ。」

 いかがでしょうか。わたしたちもこのような一粒の種、からし種のような種を蒔いていきたいものですね。ところが、わたしたちは、弱い人間です。周りが一つの方向に向かっているとき、それに対してなかなか「ノー」とは言えないものです。何かおかしい、と感じながらも、それが何であるかがはっきりせず、結局は大勢に流されてしまうということもあります。第二次世界大戦末期、日本では多くの学生が「学徒動員」ということで戦場に狩り出されていったと言うことはよくご存じだと思います。積極的にお国のためということを信じて戦場に赴いた人もおられるでしょう。しかし、生き残った人々の中には、「これから人殺しをしなければならないと思うと、<締念>でしたよ。いま俺は、そういう時間と空間の流れの中にいるんだ。 俺はいやだというわけには行かない。一つの諦めでした。」と証言しておられる方もおられます。それほど「ノー」と言うことは難しいのです。

 イエス様は今日の福音書の中で、「今の時を見分ける」ことを教えておられます。「時の徴」という言葉で、昔から人々の口に上るみ言葉です。「明日の天気は予想できても、今の時代がどのような方向に向かっているのか分からないのか」とイエス様は仰っておられるようにも理解できます。

 何かおかしいな、何か変だな。そう感じるとき、わたしたちはまず祈りたいと思います。そして、神の言に導かれて、自分の中に点っている信仰の火を強く燃え上がらせたい。わたしたちは弱くても、神さまの火はすべての悪を滅ぼす力を持っています。祈りの中で、わたしたちのすべてを神に委ねるとき、「時の徴」が見えてくる、そして、聖霊によって強められ、神さまの示す道を歩むことができるのではないでしょうか。何よりもわたしたちには希望があります。一時的には分裂や対立があったとしても、最後にはイエス・キリストによる贖いを受け、和解と平和が訪れる、という希望です。どんな苦しみも、悲しみも、きっとイエス様の執り成しによって、きれいさっぱりと取り去られる、そして永遠の命に入ることができるということをわたしたちは信じているからです。