2004718日 聖霊降臨後第7主日(C年・特定11)堺聖テモテ教会

 

第1日課 創世記18:1−14

第2日課 ルカによる福音書10:38−42

 

もてなし

 

 今日読んでいただきました旧約聖書の創世記18:1節以下と、ルカによる福音書10:38節以下には、一つの共通したテーマが流れています。それは「もてなし」ということではないでしょうか。「もてなし」とか「もてなしの心」とか言うと、何か旅館の宣伝のような感じがいたしますが、ルカ福音書の中には確かに「もてなし」という訳語が用いられていますので、少しの間ご一緒にみ言葉に耳を傾けて参りたいと思います。

 まず、創世記の方ですが、これはアブラハムとサラのところに主ご自身が、あるいは主のみ使いが訪れたというお話です。アブラハムとサラには長い間子どもがありません。サラも相当な歳になっていますので、すっかりあきらめています。そこへ、主が現れて、アブラハムに子どもが与えられると約束されるのです。子どもがないということを当然のこととして受け入れていたアブラハムにとっては、これは驚くべき神のみ告げでした。創世記には、暑い真昼にアブラハムが天幕の入り口に座っていて、目を上げると、三人の人が彼に向かって立っていた、と記されています。ご自身が神であるとアブラハムに告げたとはどこにも書かれていません。それなのにアブラハムは、すぐに天幕の入り口から走り出て迎え、地にひれ伏したと書かれています。では、アブラハムははじめから訪れた客が神ご自身であることを知っていて、出迎えたのでしょうか。どこかのみすぼらしい旅人だったら追い返したのでしょうか。そうではないと私は思います。古代のパレスチナ地方では、旅人が水や食事、そして宿を求めた場合、けっしてそれを拒んではいけないという習慣があったようです。テント(あるいは家)から隣のテントまではずいぶん距離もあり、断った場合、本当に水や食べ物を必要としている旅人は死んでしまうかも知れないからです。とくに、猛暑の夏にはそうだったでしょう。ですから、どんな人でも誠心誠意もてなす、というのがアブラハムの習慣でもあったのではないかと思います。

 もちろん、神ご自身が旅人の姿で訪れるという考え方も、当時のイスラエルにはあったようです。だからアブラハムはそれが神ご自身であることに気づいていたのかもしれません。身分の高い人がみすぼらしい旅人の姿で庶民の家を訪れるというのは、いろんな国の言い伝えにあるようで、日本でも「鉢の木」という謡曲になっている物語があります。ある旅の僧が一軒のあばら屋に宿を頼みます。そのあばら屋の住人は、「こんなあばら屋でも良かったら」とその旅の者を中に入れるのです。旅の者が中に入ってみると家具一つもなく、とても貧しい家でした。しかし元々武士だったその住人は旅の僧のために僅かに残った盆栽を折ると、薪として燃やし、その旅人をもてなしたのです。ところがあとで、その旅人は先の執権北条時頼であったということが分かり、その住人は、大変な褒美をもらう、というお話です。しかしこれも、はじめから、相手が北条時頼であることが分かっていたのなら、面白くも何にもない、当たり前の話になってしまいます。むしろ、褒美目当てのさもしい行為ということになるかもしれません。そう考えると、アブラハムも、相手が誰であれ、誠心誠意もてなしたのではないかと思われるのです。マタイによる福音書の25章にはこのように書かれています。裁きの席で王が祝福される人々にこう告げます。「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた。」するとその人びとは、いつそのようなことをしたでしょうか、と尋ねます。そこで王はこのように答えます。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」とても有名な聖書箇所です。誰とも知らない人々、飢え、渇き、寒さに震え、牢獄の中で恐怖に怯えている人々に手を差し延べることは、すなわち神ご自身、イエス様ご自身に仕えることなのだ、ということをイエス様のこのたとえ話は教えています。

 さて、私たちは毎日、毎日の生活の中で、さまざまな人々に出会います。家や教会にいてお迎えする場合もあるでしょうし、会合などのさまざまな場面での出会いもあるでしょう。道ばたでの出会いもあるかも知れません。そのような一つ一つの出会いにおいて、私たちは誠心誠意、相手をもてなしていると言えるでしょうか。正直なところ、それとはほど遠いということが言えはしないでしょうか。自分自身を振り返ってみても、恐ろしくなるほどです。毎日チャプレンとして勤務している学校で、毎日多くの女子中学生・高校生と出会います。彼女たちはさまざまな悩みを抱えています。リストカットをしょっちゅうする生徒、親とうまく行かずに家出を繰り返す生徒、友人関係がうまくいかず孤立し、閉じこもりになっている生徒、さまざまな生徒がいます。そうした生徒たちにしっかりと向き合い、彼女たちを受容し、時には厳しく指導もしつつ、共に成長しようとしているだろうか、と考えると、本当に自分のいい加減さ、弱さだけが浮かび上がってきます。ヘンリー・ナウエンという人(カトリックの牧会者で、以前ご紹介した『放蕩息子の帰郷』という本を書いた人です)が、こんな話を紹介しています。ずいぶん昔のヨーロッパのことです。ある日、一人の少年兵士が敵の目を逃れるために小さな村に逃げ込んだというのです。その村人たちは彼に宿を提供しました。ところがその兵士の行方を探索して敵の軍隊が村にやってきたとき、村人たちはとても恐れました。敵の軍隊は、夜明けまでに隠れている兵士を引き渡さないなら村に火を放って村人たちを一人残らず殺すと脅したからです。そこで村人たちは、司祭のところへ相談に行きました。少年を敵の手に渡すか、村人たちが殺されるかという板挟みにあって、その司祭は苦しみました。そして自室に引きこもり、夜明けまでに答えを出そうとして書物をあちこちさがします。すると「多くの民が失われるよりも一人の人が死ぬ方がよい」という言葉が目にとまりました。そこで、司祭は軍隊を呼び寄せ、少年の居場所を告げたのです。少年兵士が引き立てられて銃殺された後、村では司祭が村人たちの命を救ったというので宴会が催されました。しかし、その司祭は宴会の席には現れませんでした。深い悲しみに襲われていたのです。その夜、天使が現れて、「あなたは救い主を引き渡したのを知らないのか」と尋ねました。司祭は「どうして私にそれが分かるでしょうか」と反論しました。すると天使はこう言いました。「書物を読む代わりに、ただ一度でもその少年を訪れていたら、そして、その少年の眼をのぞき込んでいたら、それが分かっただろうに。」

 私たちが日々の生活の中で出会う人々、その一人ひとりの瞳の中に、神さまがおられる。とくに、苦しみ悩みの中にあり、救いを求めている一人ひとりの中にイエス・キリストがおられる。その一つ一つの出会いを、私たちは心から大切にしなければなりません。一つひとつの出会いから眼を背け、相手を拒絶することは、その人を敵の手に引き渡すことに他なりません。ここで「書物」と言われているのは、私たちの既成の考えであったり、世の中の常識であったりします。そういうものに目が奪われて、目の前にいる生きた一人ひとりの眼をのぞき込むことを避けてしまう、それが私たちの弱さであると思います。では、この少年兵士を敵に渡さずに、村人が皆殺しになることを選ぶべきだったのでしょうか。そうではないと思います。少年を敵に渡すか、村人が殺されるか、というのは、おそらく私たち人間の狭い判断力の中で出てくる選択肢なのではないかと思います。この少年兵士の中に救い主を認め、彼を救おうと司祭が決意したとき、神は村人をも変え、村人と共にこの兵士が生きる道を備えて下さるのではないでしょうか。私はそう信じたいと思います。そしてもっと大切なことは、わたしたち自身がこの少年兵かも知れないということです。わたしたちはこれまでの人生の中で、いくたび躓き、助けを求めたでしょうか。そのわたしたちに、いくたび、イエス様の慈愛に満ちた手が差し延べられていたでしょうか。わたしたちがそのことに十分気付いていないだけかもしれないのです。神様が、御子イエス様がまずわたしたちを愛して下さった。わたしたちはまずそのことに気付き、感謝し、ほんの僅かでもそれをお返ししなければならないということではないかと思うのです。

 さて最後に、今日読んでいただきました福音書の方に眼を向けてみましょう。ここには、マルタとマリア、という二人の姉妹が登場します。ある村とありますが、エルサレム近くのベタニアという村であろうと思われます。この二人は、それぞれにイエス様を敬愛していて、イエス様をお迎えするのに最大限のもてなしをいたします。ここで「もてなし」と訳されている言葉は、「ディアコニア」というギリシャ語で、「奉仕」とも訳すことができます。余談になりますが、私の教会での職務は「執事」となっていますが、もとのギリシャ語は「ディアコノス」つまり、「奉仕する人」という意味です。さて、マルタは自分の家を持つ女主人であり、活発な女性として描かれています。彼女はイエス様を精一杯もてなそうとして、食事の準備に忙殺され、「心を乱して」いたと書かれています。この部分を「てんてこ舞いして」と訳されている方もおられ、まさにその様子が分かるようです。大変忙しく、猫の手も借りたい。そんなときに、姉妹のマリアはじっとイエス様の足元に座ってそのお話に聞き入っています。マリアはどちらかというと、口数が少なく、静かにみ言葉に耳を傾ける女性の弟子として描かれています。この聖書箇所はよく、女性の働きのあり方や、家庭と社会における女性のあり方をめぐって論議になります。そして、さまざまな立場から様々な意見が出されるのですが、私は今日はそうした論議に深入りせずに、ひとつのことだけを学びたいと思っています。それは、ここでイエス様が取り上げられておられるのは、マルタが忙しさの中で不安に駆られた心労にとらわれていること、そして、み言葉を聞いているマリアを妨げようとしている、ということだということです。イエス様は、マルタのもてなしを決して低く見ておられるのではありません。マルタの誠意は痛いほど分かる。でも、あまり心を煩わせない方がいいよ。そして、マリアはマリアなりにみ言葉を聞くことに集中するという方法で、イエス様をもてなしている。それを妨げてはいけないよ。それぞれの人には、それぞれのやり方がある。お互いに認め合わなければいけないよ。そんなふうに仰っておられるのではないでしょうか。そして、その底に流れているのは、私たちのもてなしは、どんなもてなしの方法であっても、聖書のみ言葉を聞くということに支えられなければならない、ということではないかと思います。

 「必要なことはただ一つ」それは、明らかに主イエス・キリストの福音に耳を傾け、それに従うことです。私たちの奉仕、「もてなし」は、そこから生まれるものでなければなりません。イエス様のご生涯を見上げ、イエス様の教えにしたがっていく中で、私たちは次第に成長し、世に仕え、生活の中で出会う人々を心からもてなすことができるようになるのではないでしょうか。

 

<祈り>

 いつも私たちと共におられ、限りない恵みをお与え下さいます神様。私たちは今日、毎日の生活の中で出会う一人ひとりと真剣に関わり合い、その瞳の中にあなたの働きを見ることの大切さを学びました。どうか、私たちがあなたの聖なる霊によって強められ、それぞれの生活の場で、それぞれのやり方で、人々をもてなし、あなたによって受けた愛をほんの少しでもお返しし、みなの栄光をあらわすことができるようにお導き下さい。