2004620 聖霊降臨後第3主日(特定7)堺聖テモテ教会

 

1日課:セカリヤ書12:8-1013:1

2日課:ルカによる福音書9:18-24

 

律法から信仰へ

 

 今日は聖餐式でなかったので読まれなかったのですが、本日の使徒書であるガラテヤの信徒への手紙には、律法と信仰の関係についての聖パウロの教えが記されています。ここで読ませていただきます。

信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。(ガラテヤの信徒への手紙3:23-29)

 律法、ひっくり返すと法律という言葉になりますが、聖書に出てくる律法という言葉は、イスラエル民族の生活と信仰を事細かに規定していたユダヤ教のきまりのことです。イエス様の時代には、何百というきまりがあり、食べ物の決まりから食事の作法、安息日の守り方などが具体的に細かく定められていたのです。規則とか決まりというものは、人間社会にとって決して不必要なものではありません。人間は弱いものですから、いろいろな取り決めがないと互いに無制限に争ってしまい、この世は生き地獄になってしまうかもしれないからです。ガラテヤの信徒への手紙でパウロが「養育係」と言っているのは、そのあたりのことを言っているのだと思います。取り決めに従って生きていれば大きな過ちを犯すことはない。だから、「養育係」と言っているのです。

 しかし、律法を守っていれば人間は正しい行いが出来るのでしょうか。そうではありません。法律や取り決めを守っているから正しく立派な人であるとは必ずしも言えません。法律は犯さないけれども、他人を蹴落とし、傷付け、傲慢な生き方をすることもあるでしょう。いや、かえって取り決めを守っている、「律法を守っている」という自負があるだけに、傲慢になり、他人を批判し、独善的になりがちだということもあるのではないでしょうか。また、律法は時代や文化によって様々に変化するものです。ある時代、ある国においては正しいとされていることが、他の時代、他の国においては間違っているということはよくあることです。ですから、律法に絶対的な正しさを求めることはできないのです。

 パウロが律法と対置しているのが、イエス・キリストの福音です。いろいろな取り決めを守っているから正しいのではなく、人間のため、私たち一人一人のために十字架にかかり、復活されたイエス・キリストを信じることによって私たちは神から正しいとされるのだと言っているのです。そしてそれは、時代や文化を乗り越えた正しさなのです。ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もない、男も女もないというのです。宗教改革者のルターはパウロのガラテヤ書に基づき「信仰義認」という教えを発展させます。人は信仰によってのみ義とされる、という教えです。    

 では、イエスという方はどのような方であり、その方を信じる、信じて従うということはどういうことでしょうか。今日の第二日課として読まれた福音書に目をむけてみましょう。マルコ福音書やマタイ福音書にも同様の記事がありますが、イエス様が「私は何者だと思うか」と弟子達に尋ねられると、ペトロが「あなたこそ神からのメシア(つまりキリスト、救い主)です」と告白します。聖書の中で明確にイエスはキリスト、つまり全人類の救い主であるということがはっきりと宣言されるところであります。イエス様は苦しみの中にあるガリラヤとユダヤの人々に手を差し伸べ、病を癒し、罪を赦し、本当の解放とは何かを知らせて下さいました。そして、復活の出来事によって、死の束縛からも私たちを解き放って下さったのです。ですから、そのイエス・キリストを信じるということは、イエス様のそのご生涯を見つめ、イエス様の歩まれた方向に自分の人生を向ける、つまり、生き方を180度変えるということなのです。

 イエス様は、今日の福音書の中で「私についてきたいものは、自分を捨て、日々自分の十字架を背負って私に従いなさい。」とおっしゃっておられます。とても厳しい要求のように聞こえます。律法を守れという要求よりもはるかに難しそうです。まず、自分を捨てるということはどういうことでしょうか。私たちにとって一番大切な自分をそう簡単に捨てることができるでしょうか。どんな宗教でも、我欲を捨てる、自分に対する執着を捨てるということを言いますが、キリスト教の場合も、これと同じように、我欲を捨てる修行をしなければならないのでしょうか。すこしごいっしょに考えてまいりたいと思います。「自分」の反対は「他者」であるといえます。私たちはともすれば自分中心の生活をしますが、そうではなく、他者のため、他の人々のための生活をしなさいとイエス様はおっしゃっておられるのではないかと思います。ルカ福音書1027に「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くしてあなたの神である主を愛しなさい。また隣人を自分のように愛しなさい」というみ言葉が記されています。ここでは、単純に自分を捨てなさい、という自己放棄は言われていません。むしろ「自分のように」隣人を愛しなさいというのです。私たちはみな神様によって造られ、命を与えられ、愛されています。自分を粗末に扱って良いはずはありません。同時に、他人もまた神様によって創られ、命を与えられ、愛されているという事実をしっかりと受け止めなければなりません。そして自分中心ではなく、他者に向かう生き方、互いに愛し合う生き方へと自分の生活を向けなければならないのではないでしょうか。「悔い改め」というギリシア語の単語は「メタノイア」と言いますが、それは自分の向きを180度変える、方向転換をするということを表わしています。

 今から三年前の7月21日に明石の歩道橋で大きな事故があり、多数の死傷者が出たことはまだ記憶に新しいと思います。この事故の中で、生後二ヶ月の赤ちゃん(翔馬ちゃん)を守って自らは命を捧げた71歳の女性、神戸市の草替律子さんのことはご存じでしょうか。草替律子さんについての新聞記事を読んだ後、妻が実際に律子さんのご主人にお会いして、お話を伺って参りました。律子さんは北海道のご両親の元でイエス様の福音に触れ、ずっと信仰生活を守ってこられたハリストス正教会のクリスチャンでいらっしゃいます。北海道の東、釧路の東北にある武佐というところで12人の兄弟姉妹のうち5番目として生まれ、首に障害をお持ちでしたが、明るくすくすくと育たれたようであります。ご家族はその土地で文字通りの開拓伝道に従事され、苦しい生活の時間を割いて、森を切り開いて教会を建てられました。その後与一郎さんと結婚され、クリスチャンのお医者様の勧めで首の手術を受けられ、奇跡的にその障害は取り除かれたそうであります。数年前に神戸に引っ越してこられた草替さんご夫婦は、ご夫婦で協力しながら目立たない生活を送っておられました。持ち前の明るい性格で、地域の掃除をしたり、近所の青年たちに愛情をもって注意したりして、地域の中にとけ込んでいかれました。その律子さんがあの事件のとき明石の歩道橋におられたのです。お母さんから離れてしまったベビーカーを見て危険を感じ、翔馬ちゃんを抱き上げ、手渡しリレーで救った後、ご自身は群衆なだれに遭われて亡くなったのであります。ご主人の与一郎さんはそのときの様子をこう語っておられます。「至近距離にいた私は、<子どもが死んでしまうよ>と叫ぶ妻の声を聞きながら、すでに自分の身体の自由を奪われており、左手につかんでいた妻の身体が人垣の中に沈んでいくのを防ぐことはできなかった。無念だった。後で目にした妻の身体に残った傷跡のあまりの残酷さに、ああこの世には神も仏もあるものか、と呪いの日々であった。しかし、なんたることぞ、神様はおられたのだ。本当に!妻が身を挺して守り続けた生後2ヶ月の翔馬くんが一名をとりとめ、無事であったという。神様は妻の命は奪っていったが、無限の可能性を秘めた若い生命には輝く将来を約束してくれた!」ご主人はこのように語られています。律子さんは神戸に引っ越される時に、今度こそ、夫をクリスチャンにするという決意をお持ちだったようですが、その思いが通じたのか、今ご主人の与一郎さんの中には何かが起こり、現在はまだ受洗はされておられません(その後は確かめていません)が、寂しさのうちにも、祈りの生活を送っておられるということです。そして、草替律子さんの命をいただいたかのように、翔馬君は元気に暮らしているということです。律子さんのこの世での命はなくなりましたが、律子さんはたくさんのものをこの世に残されました。翔馬君の命、ご主人の新たな生活、そして多くの人々の中に生き続ける感動。文字通り「自分の命を救いたいと思う者はそれを失うが、私のために命を失う者は、それを救うのである。」というみ言葉を証しされたということができるでしょう。

 でも、人のために命を捨てるということはなかなかできることではありません。また、そうした限界的な状況、とっさの判断を要求されるような状況には滅多に出会うことはないかも知れません。ところが、今日の福音書ではもっと厳しいイエス様の言葉、「日々、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。」というみ言葉が私たちに迫ってきます。「自分の十字架」。それは人によって様々な思いで受け止める言葉であろうと思います。様々な理解があります。私は、それは、この人生での様々な苦労、チャレンジ、重荷から逃げずに、むしろあえてそれらを担うということではないかと思っています。しかし、それはいかに難しいことでありましょうか! その難しさを日々実感しているのも事実であります。自分が引き受けるべき責任からつい逃れてしまう。さまざまに言い訳をして、人のせいにしてしまう。自分は悪くない、悪いのは相手だと言い逃れてしまう。あまりにも悲惨な現実に出会うと目を背け、耳をふさいで、楽な気晴らしに向かってしまう。それが、私であります。私たちであります。ペトロはイエス様が捕まり、連れ去られるとき、三度までも「私は知らない」と言ってしまいます。「私は知らない」。この言葉を私は幾度口にのぼせたことでしょう!

 では、そのように難しいこと、人間には無理と思われることをイエス様は要求されているのでしょうか。私たちに日々、苦しい修行を要求されているのでしょうか。ここで私たちは再び、「信仰によって義とされる」というところに戻ってきます。私たちは「聖書に書いているから、こうしなければならない」という義務感から、悲壮な気持ちで十字架を担おうとするとき、それは却って新しい律法になってしまいます。新しい鎖になってしまいます。そうではなく、もっと全身全霊で、神様の恵みを受け止めたいと思います。私たちの心を神様に向けましょう。祈りましょう。そうすれば、人生の苦しみの中で、私たちは一人ではなく、私たちの直ぐ横を十字架を背負ったイエス様が歩いておられることに気づくのではないでしょうか。神様は私たちにのみ十字架を背負えと命じている冷たい絶対者ではありません。自らが人となり、十字架を担い、私たちと共に苦しまれた方なのです。そのお姿が目に浮かぶとき、私たちには勇気が湧いてきます。強められます。そうして、感謝の内に営まれる信仰生活の中で、私たちは自己本位な自分を完全には捨てられないまでも、自然に他の人々のことを思い、イエス様のみ跡に従うことができるのではないでしょうか。