2004/5/2 復活節第四主日(堺聖テモテ教会)聖餐式

 

信仰を受け継ぐこと

 

 昨日、主教座聖堂である川口基督教会で執事按手式が行われ、守口復活教会の山野上先生と共に、私も公会の執事に叙任していただきました。当日は、堺聖テモテ教会からたくさんの方々に参列いただき、執事按手の証し人になっていただきました。また、たくさんのケーキを焼いていただいたり、準備に大勢の方にご奉仕いただきました。心から感謝申し上げます。また、当日おいでいただけなかった方にも、ずっとお祈りいただき、その祈りの力に支えられて、無事、主教様から按手をしていただくことができました。本当に、皆様のお祈りとお支えのおかげであると思います。

 28日から29日にかけて、執事按手のための黙想会が六甲でもたれ、大先輩である名出望先生のご指導の下に、聖書に基づいて、聖職に召されるとはどういうことかについて学ぶ機会を与えられました。そのときに名出先生が、「岩城さんも、ずいぶん長くかかったね。」とおっしゃいました。実は名出先生は私が教会を離れておりましたときに石橋聖トマス教会の牧師を務められ、手紙のやりとりなどを通じて私のことをよく知っていただいていたのでした。そのときに、私は、本当に長い間教会を離れ、自己流の信仰にこだわっていた、こんなにも罪深い私を荒れ野で見出し、召し出し、そして用いてくださる神様の愛の大きさに全身を打たれたように感じました。

 また、按手式が行われた5月1日は、奇しくも私の父ベンジャミン岩城覚の逝去記念日に当たります。ちょうど今から41年前、1963年5月1日に、父は大阪の天保山から徳島に向かう飛行機(ツバメ号という小さな水上飛行機でした)が淡路島の山に激突するという事故に遭い、49歳の若さで神様のもとに召されました。私が高校2年生の時でした。いささか私事になりますが、両親のことについて少しのあいだ話すことをお許し下さい。父は、奈良基督教会の初代日本人牧師、吉村大次郎司祭の五男、八番目の末っ子として生まれ、生まれるとすぐに聖公会の信徒であった岩城家に養子に出されます。すぐ上の兄の茂樹も曽根牧師のところに養子に出されています。父はそのことを中学生の時に初めて知り、一時は祖父を恨んでいたようです。しかし、岩城家では大切に育てられ、聖ヨハネ教会の日曜学校に通い、やがて大阪聖パウロ教会で日曜学校の教師仲間であった母と結婚し、キリスト教信仰に基づく家庭をつくります。石橋聖トマス教会に移ってからは教会活動も積極的に担い、男子会のメンバーとして教会を支えていたようです(カレーを作るのが上手だったようです)。私は、四人兄弟の末っ子(男子は一人)に生まれ、ずいぶん大事にされ(甘やかされ)て育てられましたが、姉三人と共に、日曜学校への出席、聖書の勉強、食前の感謝、毎晩の祈りなど、キリスト教信仰の基本的な習慣を身につけさせられました。川口教会出身の祖母もまた、熱心に私たちに信仰の教育をしてくれました。若い頃の私はそれがいやで、ずいぶんと反抗したものですが、今になって考えてみると、その教育がなければ、50歳を超えた私をキリスト教信仰に引き戻す力はずっと弱いものになっていただろうと思います。やはり、生活の中で身につけた信仰は、一つの水脈となって私の魂をうるおし、苦しい中でも支えてくれたのだと思います。

 そういうわけで、私は、今回の執事按手を父もまた、きっと天国から眺めて喜びを共に分かち合ってくれているだろうと思うのです。そして、もちろん喜びに包まれているのは、88歳の母です。当日は参列できませんでしたが、皆様のお祈りのおかげで、また、私の執事叙任が特効薬になったのでしょうか、少しずつ回復に向かっています。最後に、私は妻に感謝しなければなりません。私の曲がりくねった人生において、常に私を支え、励ましてくれたのは妻です。こんなに我が侭な夫をこれまでよく支え、今も支えてくれていると、感謝の気持ちで一杯です(普段はなかなか気恥ずかしくてそんなことは言えないのですが)。

 さて、今日の旧約聖書の民数記には、イスラエル民族をエジプトから導き出した指導者モーセから、ヨシュアに約束の地カナンへの指導の役割が引き継がれるところが記されています。そこで今日は、信仰を受け継ぐということについて、ご一緒に聖書のみ言葉から学んでまいりたいと思います。

 エジプトで奴隷にされていたイスラエルの民を率いて40年に渡る荒野の旅を終えたモーセは、カナンの地に入ることを許されません。民数記20章に記されているように、水がないと不満を言う民に対して神がモーセに命じて岩から水を出させられたのに対して、モーセが神を信頼しなかった、あるいはその栄光を神に帰するのではなく、自分の手柄にしてしまったという罪のためです。モーセはカナンの地を遠く山の上から眺めながら、兄弟アロンと同様にカナンの外で死ぬことになります。その後を継いだのはヨシュアでした。本日の民数記には、モーセが手をヨシュアの上に置き、権限を彼に分け与える様子が書かれています。「按手」という儀式は、この時代からのものなのです。また、後継者に使命を引き継ぐということでは、列王記下2章に出てまいりますエリヤからエリシャへの交代の話が頭に浮かびます。ここではエリヤが昇天するときにエリヤの着ていた外套が落ちてきたのでエリシャがそれを拾って水を打つと、エリヤと同様の力を発揮して水を分けることができた、ということがでてまいります。エリコの預言者たちは「エリヤの霊がエリシャの上にとどまっている」と驚きます。

 では、なぜ民数記のこの記事が復活節に読まれるのでしょうか。それは、そこには復活の大切なメッセージが含まれているからだと思います。一つの命が朽ち果てても、その大切な使命や価値、願いは次の命に引き継がれます。そして神の民は、常に神によって守られ、神の恵みの内に生き続けるというメッセージです。『葉っぱのフレディ』という絵本があります。一枚の葉っぱの命がどのように引き継がれるかをうたいあげた童話で、『いのちの旅』という副題がついています。葉っぱのフレディは大きな木の梢に近い太い枝に生まれ、夏にはもう厚みのある、りっぱな体に成長しました。フレディは「葉っぱに生まれて よかったな」と思うようになりました。友だちはたくさんいるし、見はらしはよいし、夏には人々に涼しい木陰を提供することもできます。しかし、秋が来て、冬が近づいてきます。友だちの葉っぱもどんどん色が変わっていきます。そして、寒い冬がやってきました。木枯らしが吹きます。「ぼく 死ぬのがこわいよ。」とフレディが言います。「そのとおりだね。」と友だちのダニエルが答えました。「まだ経験したことがないことは こわいと思うものだ。でも考えてごらん。世界は変化しつづけているんだ。春が来て夏になり秋になる。葉っぱは緑から紅葉して散る。変化するって自然なことなんだ。死ぬというのも 変わることの一つなのだよ。」それを聞いてフレディは少し安心します。やがてフレディはひとりぼっちになります。そしてフレディも、迎えに来た風にのって枝をはなれます。フレディは目を閉じ、ねむりに入ります。冬が終わると春が来て、雪はとけ水になり、枯れ葉のフレディはその水にまじり、土に溶け込んで、木を育てる力になるのです。

 この絵本は子どもに分かりやすく、自然の力に託して神様の不思議な業を語っています。私たちはこのことをもっとはっきりと聖書から教えられているのではないでしょうか。今日の使徒言行録には、神がイエス様を復活させられたこと、復活されたキリストは朽ち果てることがないこと、神は私たちの子孫のためにその約束を果たしてくださったことが書かれています。イエス・キリストのご復活は、私たちに与えられる永遠の命を指し示しています。永遠の命とは、決して千年も二千年も生きるということではありません。そのような永遠の命が与えられるとすれば、それはかえって苦痛であろうと思います。そうではなく、私たちは神様との変わることのない関係に入れられ、神様の限りない愛と恵みに包まれるということを表しているように思います。そして、神様との親しい関係は、私たちの子孫、つまり次の世代に引き継がれていくのであります。

 この聖テモテ教会に派遣されて、私が驚き、感動したことの一つは、何代にもわたって聖公会の信仰を守り伝えている方が多くおられるということです。これは、テモテ教会の誇りある伝統であろうと思います。中には日本聖公会草創期の教役者の方に連なる方々もおられます。三代、四代にわたって信仰を守り続けている方がおられる、それはこの教会の底力となって行くのではないでしょうか。もちろん、新しい方をどんどんお迎えする、そして新しい命をいただくということはとても大切なことです。それがなければ教会の命は弱まります。しかし同時に、私たち自身が子どもや次の世代にどう信仰を伝えていくかということは、神の民としての教会がその使命を果たす上で、どうしても解決しなければならない問題なのです。私も、もう少しのところで、父や母から伝えられた信仰を断ち切ってしまうところでした。しかしその私を神様の許へ引き戻してくれたのは、第一に神様ご自身の限りない愛でありますが、同時に私が幼少時に伝えられた祈りの習慣であり、聖書に親しむ生活であり、ブドウの木につながっていたいという願いでした。皆様のお子さまやお孫さん、そして周りにいる若い世代を、どうぞ教会生活に連ならせてください。教会の中で、単に頭からではなく、生活を通じて、みんなで献げる礼拝を通して、イエス様の福音と神様の恵みに触れ、親しみ、育っていくことが大切なのです。私の息子は2人とも、私自身が教会を離れておりましたときに育ちましたので、最近まで、教会へは近づきませんでした。しかし、私が聖職への召しを受け、この道を歩み始めたとき、2人の息子はそっとそれを支えてくれるようになりました。上の息子は昨年、洗礼と堅信を受け、現在、臨時ではありますが聖公会の施設の一つで働くようになりました。下の息子も、洗礼を受けたいと言い出しています。それは、きっと私と妻のひたむきな様子を見て、それを支えようという気持ちが湧いてきたためだと思います。本当に感謝です。

 今日の代祷には「神学校のため」という項目が含まれています。そして、本日の信施は神学校のために献げられます。現在の教会、特に大阪教区の現状を見ますと、若い世代の聖職志願者が続々とでてこなければならない、という思いを強くします。数だけの問題ではありませんが、やはり、神の宣教の業に身を献げる若者が多く必要です。主が蒔かれた種の実りを刈り入れる働き人が必要です。堺聖テモテ教会は、かつて柳原主教を出し、柳原光司祭を送り、他にも聖職者を生み出した栄ある伝統があります。どうか、みなさんのお子さま、お孫さんの中から、そして教会の若い世代から献身者が出るようにお祈り下さい。今では女性司祭も可能になっています。堺聖テモテ教会から、一人でも、二人でも、三人でも、聖職を志す人がでてきますように、教会のさまざまな働きを広く、深くし、聖霊の導きを祈りましょう。私たちの力と願いだけでは、聖職志願者は与えられません。ただ、神様のみが、人々の心をご存じであり、限りない恵みにより人々を宣教の働きへと召されるのだと思います。

 

<祈りましょう>

 私たち一人一人に豊かな恵みをお与え下さいます神様。あなたは神の民としての教会を建てられ、私たちがその信仰を代々引き継ぐように教えられました。どうか、私たちが新しい人々を教会に迎え入れると共に、家族や子ども、孫、その他若い世代にあなたを敬い礼拝する心と信仰を伝えることができますように、私たちの信仰を強め、聖霊の導きをお与え下さい。また、大阪教区で聖職を志願する人が増し加わりますように、私たちをお導き下さい。私たち一人一人の心をすべて知っておられる主イエス・キリストのお名前によってお願いいたします。