2004年12月24日(金)降誕日前夕・夕の礼拝
クリスマス・メッセージ
思いもかけない恵み
みなさん、メリー・クリスマス! クリスマスおめでとうございます。
よく、クリスマスには不思議なことが起こると言われます。長い間人生で迷っていた人が、ふと教会の門を叩いてみる。教会に行ってみると、思わぬ人とのすてきな出会いが待っている。長い間の願い事が、かなえられる。普段、他人のことを考えたこともなかった人が、ふと他人のことを思いやる優しい気持ちになる。喧嘩をしていた相手と仲直りしてみようかな、と思う。そんなことが、よくあるようです。
ディッケンズという人が150年ほど前に書いた『クリスマス・キャロル』という小説があります。この小説も、そんな不思議な出来事を描いています。この物語が書かれた1843年ごろは、実はイギリスでもクリスマスを祝う習慣がかなり廃れていました。ピューリタン革命の影響もあったのですが、何よりも産業革命の結果昔ながらの生活が失われ、人々の生活は殺伐としていたのです。そのクリスマスを危ういところで救い出し、現代に生きるわたしたちにとっての新しい意味を付け加えてよみがえらせたのが、このディッケンズの『クリスマス・キャロル』です。ディッケンズの友人であった歴史家のカーライルという人は、『クリスマス・キャロル』を読むとすぐに七面鳥を注文し、友だちを招いてパーティを開いたと言われています。
主人公のスクルージという男性は、人生も終わりに近づいたロンドンの会社経営者です。小さな事務所だけを抱えていましたから、おそらく株式仲買人かなにかの仕事であったと思われます。スクルージはとても欲が深く(大阪風に言うとがめつく)、無口で無愛想。他人のことなど考えたこともないそんな人物です。言葉は抜け目なく、刺があります。人情とか慈悲とかいうことには全く縁がなく、貧しい人のための募金の訴えにも耳を貸しません。そのスクルージが、クリスマス・イブに3人の幽霊と出会う羽目になるのです。第1の幽霊は、スクルージ自身の過去の幽霊でした。少年時代の楽しい思い出、辛い記憶が次々と見せられ、若い頃に持っていたさまざまな夢や情熱が、その後の人生でお金儲けを追求する中で失われ、冷たい人間になってしまったことを思い知らされます。第2の幽霊は、現在の幽霊でした。この幽霊は、貧しい人々が精一杯クリスマスを楽しみ、一年に一回のこの日を明るく祝おうとしている姿を見せてくれます。そして最後に、牢獄や救貧院、病院で苦しんでいる人々の姿を目の当たりにします。第3の幽霊は、未来の幽霊でした。この幽霊は、強欲なスクルージ自身が死んでしまって、その周りに多くの人々が集まって彼を罵り、彼が残した物を奪い取っていく光景を目にします。そして、最後の幽霊との別れ際に、スクルージは、幽霊の憐れみに感謝し、これまでの生き方を改めることを決心します。そしてこう言うのです。「分かりました。私は心からクリスマスを大切にし、その気持ちを一年中持ち続けるようにいたします。過去と現在と未来とを、ちゃんと見つめて生きていきます。」我に返ったスクルージは、喜びに溢れ、叫びます。「これもみんな、天にましますお方とクリスマスのおかげだ。」そして、その言葉の通り、貧しい人々のためにお金を献げ、クリスマスの喜びを共にします。会う人ごとに「メリークリスマス」と言って喜びの挨拶を交わすのです。これは、スクルージにとって、本当に思いもかけないクリスマスプレゼントだったに違いありません。彼がはじめ望んでいたのは、もっとお金を儲けることだけでした。しかし、神様が与えてくれたのは、人を愛する心であり、生かされていることを感謝する心でした。
このように、神様が私たちに下さるプレゼントは、思いもかけないもの、私たちが表面的に考え、願っていることを超えた素晴らしい贈り物ではないかと思います。考えてみれば、イエスという方の誕生も、とても不思議な、思いもかけない出来事だと言えるでしょう。それは、人々にとって思いもけないプレゼントでした。当時のユダヤの人々は、ローマ帝国とヘロデ王朝の両方からの過酷な支配を受けていました。重い税金は両方の支配者に支払わなければならず、何かといえばすぐに反逆罪などの名目で命を奪われました。それは、イエス様がお生まれになったときに、ヘロデ大王が新たな支配者に王位を脅かされるのを恐れて2歳以下の子どもたちを皆殺しにした、という聖書の記事からもその過酷な支配ぶりが分かります。そんな中で、人々は救い主、メシアの到来を心待ちにしていました。そのメシアはローマの支配からイスラエルを救い出し、神の支配をうち立ててくれるはずでした。そういう意味では、イエス様のご降誕は人々の願いに
かなった出来事で、決して思いがけない出来事ではありませんでした。
しかし、イエス様の誕生のいきさつは、全く人々の思いもかけないものでした。人々が期待し、想像したのは立派な宮殿に、立派な身分の生まれとして、救世主、メシアがおいでになるということでした。そしてそのメシアは、大軍を率いて異邦人を追い払ってくれる、そんなきらびやかなイメージで描かれる人物でなければなりませんでした。ところがどうでしょう。イエスという方は、大工の息子として、家畜小屋にお生まれになった、と聖書には記されています。それは全く思いもかけないメシアの誕生であったことでしょう。世界の偉大な宗教や教えの元になった人物は、たいていが王子であったり、大金持ちの息子だったりします。お釈迦様はインドのシャカ族の王子様でした。イスラム教のムハンマドは、大商人の息子でした。ところがイエス様は、額に汗して働く大工の家族にお生まれになったのです。しかも、旅先で、貸してくれる部屋とてなく、排泄物のむせるような臭いに包まれた家畜小屋においてお生まれになったのです。世界の救い主がこんな生まれ方をするとは、誰が想像し得たでしょうか。
人々にはそれが救い主であることが理解できませんでした。自分たちが抱いていたメシアのイメージからあまりにもかけ離れていたからです。イエス様が救い主、神の子として見せて下さった神様の姿は、世界に君臨し、世界を一方的に審く神ではなく、ご自分が創造なさった人間と自然を限りなく愛して下さる神であり、どんなにちっぽけであっても、どんなにみすぼらしくても、どんなに弱々しくても、そんな私たち一人ひとりをそのまま受け入れて下さる神です。また、この世の中で苦しみ、悩み、もがく私たちと共に苦しみ、悩み、もがいて下さる神です。このように「受苦する神」「痛みを感じる神」「共に悲しむ神」というのは、古代ギリシアや中世のキリスト教においては、異質な考え方でした。中世では、イエス様のご生涯と教えは脇の方に置かれ、権威主義的なキリスト教が支配していたからです。また、イエス様の時代のユダヤ人にとってもそれは理解を超えた神でした。神は完璧であり、人間の苦しみによって左右されてはならないという考え方が一般的でした。しかし、イエス・キリストはそのような上から私たちを冷たく見下ろしている不動の神ではありませんでした。私たち人間と同じ苦しみを引き受け、同じ弱さをまとうために、最も弱く、最も下層の人々の間にお生まれになったのです。だからこそ、私たちの苦しみや悩みを理解し、私たちに寄り添い、共に歩んで下さるのです。そんなイエス様がこの世にお生まれになったこと−それこそが、私たち一人ひとりにとって思いもかけないプレゼントであり、神の恵みなのだと思います。
さて、ここに『そのままのきみが好き』という絵本があります。どこの話か、はっきりとは分かりませんが、ヨーロッパのある国の物語だと思われます。昔ある小さな村に、みなし子の5人兄弟が暮らしていました。5人は貧しいながらも、けなげに助け合って暮らしていました。ある日この話を耳にした王様は、心を痛め、この子らを養子に迎える決心をしました。子どもたちも喜びましたが、村人たちも喜び、子どもたちのところに駆けつけて、「王様の子どもにしてもらうには、素晴らしい贈り物をして、ほめてもらうことが肝心だ。」と言いました。子どもたちも村人たちも、この王様のことを良く知らず、何でも良いものが好き、才能がある人間や血筋のよい人間を大切にする、威張りくさっているたいていの王様と同じだとうと思ったのです。
木彫りの得意な上の兄さんは、見事な彫り物を差し上げようと、ナイフでツバメや馬の彫り物を彫り上げようと、一生懸命になりました。絵が上手な上のお姉さんは、美しい天国の絵を描いて、お城の壁に飾ってもらおうと思いました。下の姉さんは、心に響く美しい音楽を献げようと、マンドリンを弾きながら歌の稽古を続けました。下の兄さんは、物知りなところを見せようと、夜更けまで明かりを灯して本に向かいました。みんな、王様にほめてもらいたいばかりに、必死になったのです。
ところが末の女の子には、何一つ贈るものがありませんでした。ナイフを持てばケガをするし、絵筆を持てばぬりたくるばかり、歌はへたくそ、本もすらすら読めません。「私は何をしてもへまばかり。王様に差し上げるものが何もない。」女の子はそう思いました。それでも、何か贈り物をしたいと思って、お兄さんやお姉さんに頼みにいきました。「木彫りの仕方を教えてください。」「歌の歌い方を教えてください。」でも、お兄さんやお姉さんは、「それどころじゃない。練習で忙しいから、あっちへ行け。」とこの子を追い払います。
この女の子は目立ったことは何もできませんでしたが、人を愛する心を持っていました。いつも村の広場に立ち、行き来する人の役に立とうとします。馬の毛繕いをしたり、家畜に餌をやったり。人々はその女の子にお礼のお金をわたし、それで兄さんや姉さんたちに食べ物を買うのです。女の子は貧しい人や病気の人、旅人にも声をかけて様子を聞きます。ある日のこと、一人の旅人が村の広場にやってきて、「わたしのロバに餌をやてくれないか?」と女の子にたのみました。女の子は「ええ、いいわ」と愛想良く答え、飼い葉桶へとロバを引いていきました。そして、長旅でつかれた旅人が眠っている間、ロバと荷物の番をしてあげました。その旅人は目を覚ますと、「ちょっと人を捜しているから」と言ってそこを離れました。しばらくして戻ってくると、「みんな忙しそうだったから、話を聞けなかった。一人は木彫りで忙しそうで明日にしてくれと言われたし、二人目は絵を描くのに忙しそうで、話したくなさそうだった。4にんとも忙しそうだった。」そして、その女の子に、「きみは違ったね。私は立派な贈り物は何もいらない。そのままの君でいい。明日、わたしと一緒にお城に行こう。」と言いました。
もうお分かりのように、この旅人は王様だったのです。末の女の子には、人に見せびらかすような才能はありませんでした。また、綺麗に着飾ったわけでもありませんでした。何かをすれば失敗ばかりする。でも、この王様はそんな女の子をそのまま愛し、受け入れ、「そのままの君が好きだよ」と言ってくれたのです。
すてきな物語だと思います。でも、イエス様の愛は、この王様の素晴らしい愛よりも、もっと、もっと大きなものです。この王様は馬小屋にお生まれになったわけではありません。私たちのために十字架にかかり、命を献げられたのでもありません。また、罪人や取税人、人から特に嫌われ、差別されていた人を捜して歩いたのでもありません。ところが、イエス様は、私たち一人ひとりをそのまま愛してくださるだけでなく、差別され、人に嫌われている人々をも探しだし、共に歩んでくださいます。私たちが過ちを犯したり、罪を犯したりしたときにも、共に苦しみ、罪を赦し、受け入れてくださるのです。また、イエスが眼差しを向けてくださるのは、一人でも二人でもありません。すべての人間、私たち一人ひとりを余すところなく愛して下さるのです。
今日は、クリスマスイブ。イエス様がお生まれになった夜です。私たちにとって思いもかけない恵みとしてこの世の苦しみの中にお生まれになったイエス・キリスト。この方に心を向け、神様の限りない恵みに感謝して、喜びに包まれ、静かで清らかな夜を共に過ごしたいと思います。