2004年11月21日 降臨節前主日
旧約聖書:エレミヤ書23:1−6
福音書:ルカによる福音書23:35―43
審きと慰め
ヨハン・セバスチャン・バッハの作曲による『マタイ受難曲』という有名な受難曲があります。イエス様が十字架にかけられる状況をマタイ福音書に忠実に基づいて描いた曲です。その中で全体の基調となっているのは、「血しおしたたる」という有名な聖歌83番です。少しCDを聞いてみたいと思います。(‥)この曲は、受苦節に歌われるのですが、これを聞くたびに、私の心は痛みます。主イエス様が鞭打たれ、茨の冠をかぶせられ、ゴルゴダの丘(ヘブライ語、ラテン語ではカルバリ)への道を歩まれるご様子は、クリスチャンであれば、いやクリスチャンでなくとも、痛ましく、悲しみに満たされる場面なのです。今年『パッション』という映画が上映されました。この映画には賛否両論があり、私は、もっとイエス様のご生涯、とくに、貧しく、苦しむ人々に手を差し伸べ、ローマの支配とユダヤの支配層を厳しく批判されたイエス様のお姿を描いてほしかった。そうでなければ、十字架の意味がよく分からない、そんな風に感じました。しかし、この映画を見て多くの人々がイエス様の受難の苦しみを共有したということも事実だと思います。それほど、イエス様の十字架は生々しく、悲しい現実であるということを、私は教えられました。
それにも増して私たちの心を刺し貫くのは、それを傍観し、嘲笑しさえする群衆の行動です。今日読まれたルカによる福音書には、「民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。」とあります。「議員たちも」とありますので、民衆もまたイエス様をあざ笑っていたのです。マタイ受難曲で用いられているマタイ福音書の場面では、「人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。」と記されています。十字架上で苦しまれるイエス様のお姿とそれを取り巻く敵意に満ちた群衆と兵士。私たちは、また人々はこれをどのように理解し、どのように感じるのでしょうか。
一昔前の教会には、この群衆をユダヤ人ととらえ、その責任のみを追及し、われわれキリスト者はイエス様の側に立って嘆き悲しむ、と理解する傾向がかなり強かったようです。そうした考え方が、中世や近代における、あるいはナチスドイツにおけるユダヤ人迫害につながっていったとも言われています。しかしそれは、自分の立場のみを正当化し、全ての責任を他人におしつける自己義認の典型ではないかと思います。私たちキリスト者の手は全く汚れていないのでしょうか。瞬きの詩人と呼ばれる水野源三さんは、こんな詩を書いておられます。
「ナザレのイエスは、ナザレのイエスは、ほんとに知らないと、私も叫びました。私も叫びました。
主よ主よ ゆるし給え
ナザレのイエスを、ナザレのイエスを、十字架につけよと、私も叫びました。私も叫びました。
主よ主よ ゆるし給え
ナザレのイエスよ、ナザレのイエスよ、そこから降りてみよと、私も叫びました。私も叫びました。
主よ主よ ゆるし給え」
何という鋭い感受性でしょうか。実はあの群衆の中に私たちもいるのではないか、という突き刺すような罪の自覚がここにはあります。私たち人間には、自分と異質な人、異質なもの、異質な文化、異質な考え方に出会うと、まずそれを拒否し、挙げ句の果てはあざ笑うという困った傾向があります。そして目の前で苦しみ、虐げられている人がいても、できれば関わりたくない、あるいは傍観していたい、というのも私たちの困った性癖です。それを聖書は、罪という言葉で表しています。ルカによる福音書の中にある有名な「良きサマリア人」のたとえ話は、そのことを鋭く示しています。10章30節からです。少し読んでみます。「イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」このたとえ話をどう読むかについても、いろんな見方があります。みなさんは、もし劇中人物であったとして、自分の立場を一番良く表しているのはどの配役でしょうか。一昔前の教会では、自分自身を傷ついた旅人とみなし、良いサマリア人をイエス様ととらえる傾向がありました。自分はただ被害者であり、イエス様に救っていただく存在なのです。もちろん、それは私たちの信仰の大切な要素です。しかし、ひょっとしたら傷ついた旅人とは、イエス様ご自身であり、自分はその傷ついたイエス様を避けて通った祭司やレビ人かもしれない、ということは考えられないでしょうか。それは私たちが、毎日、毎日、出会う人々、苦しむ人々を前にしてどのような関係を結ぶかということに関わってきます。そのような人々の中に私たちと共に苦しむイエス様がおられるかも知れないのです。
日本ではこのところ5年連続で自殺者が3万人を超えていると言います。これは交通事故死を凌ぐ数字で、毎日90人もの人が自らの命を絶っているということになります。つい最近も、ご近所で18歳の青年がお亡くなりになりました。またつい最近、私の親しい青年が1枚の書き置きを残して職場から蒸発してしまいました。幸いにして、大事には至らなかったようですが、今もなお自宅には帰らず、全国を放浪しているようなのです。何が彼に起こったかは分かりません。しかし重要な事実は、私が彼の苦しみを何一つ知らなかった、ということなのです。私だけでなく、他の友人も彼の悩みを知らなかった。つまり、彼は孤独だったのです。私たちは今の社会の中で、互いに切り離され、関わりを失い、他人に対する無関心がはびこっているように思われます。人と人の間の無関心。これほど恐ろしいことはありません。それは、イエス様が説いている「愛」とは、正反対の事態ではないでしょうか。私は本当に、自分自身の「無関心」を裁かれているように思います。
すぐ身の回りの人間に対してもそうなのですから、ましてや、遠い国で毎日、毎日命を奪われている罪もない子どもたちのことになると、ほとんど私たちの意識には上ってこないというのが現状です。先日、私の勤務しておりますプール学院中学・高等学校で、日本YWCAの川端国世さんをお招きして、劣化ウラン弾の被害に苦しむイラクの子どもたちの現状についてお話を聞きました。劣化ウラン弾というのは、ウラニウム鉱石から原爆や原子力発電に使うウラン235を抽出した後のウラン238を使って製造した砲弾のことで、非常に重く、貫通力があるので、1991年の湾岸戦争で大量に使われ、今も対イラク戦争で米軍が大量に使っているものです。貫通力があるだけでなく、着弾したときに細かい粒子となって飛散しますので、辺り一面を放射能で汚染します。その放射能にやられて、多くの人々、特に子どもたちが放射能障害で癌になり、白血病になって死んでいくのです。奇形児の出生率も数十倍に跳ね上がっています。そのような現状を、スライドとビデオを使って訴えてくださったのです。生徒はもちろん、多くの教師も、現実の重々しさに圧倒され、中には涙を流して聞き入る生徒もたくさんおりました。「知らなかった」という痛恨の思いがその涙にはあるように思えました。私も同じでした。しかし、知った人も、しばらくすると忘れ去ってしまうのです。知らない人は、もちろん何事もなく暮らしていきます。その間に、次々と子どもたちが亡くなっていくにも関わらず、です。
そのような私たちの無関心、自分中心のあり方が、イエス様に対する嘲笑となって表れるのではないかと思うのです。他人のために命を投げ打つあり方、人々の罪を背負って十字架につけられたイエス様の存在そのものが、無関心で自分中心の私たちにとっては理解を超えた、異質なものとして現れます。そして私たちは叫ぶのです。「他人を救ったのだ。もしもお前がメシアなら、自分を救ってみろ。」それは、自分に理解できないものを、拒絶する言葉です。私にも分かるように、メシアであることを証明してみろ。できるはずがない、という言葉です。私は、イエス様の受難の記事を読むと、それは私自身に対する裁きであるといつも感じます。水野源三さんの詩をお借りすると、「主よ主よゆるし給え」といわざるを得ないのです。なぜなら、私は毎日、毎日、イエス様を見捨て、イエス様を罵っている自分を認めざるを得ないからです。
しかし、イエス様は、十字架上にあっても、なお私たちに大きな慰めを与えてくださいます。イエス様と共に十字架につけられた2人の犯罪人のうちの一人が、「イエスよ、あなたのみ国においでになるときには、私を思いだしてください。」という心からの言葉に、「あなたは今日、私と一緒に楽園にいる。」と言われたのです。文語の聖書では、「今日汝は我と共にパラダイスに在るべし」となっています。このみ言葉は、長い間、罪の意識に苦しむ人々を慰め、励ましてきました。ある人がこう仰ったそうです。「自分は長い間教会に来て、信仰生活を送ってきた。それなのに、死の間際になって悔い改めた犯罪人が、同じように天国に入るとは不公平だ。」そう言って憤慨されたそうです。それは、確かに無理のないお気持ちかも知れません。でも、よくよく考えてみると、この犯罪人(マタイ福音書には強盗となっています)は、十字架の周りにいてイエス様を嘲笑している群衆とどう違うのでしょうか。そして、その群衆と私たちはどう違うのでしょうか。確かに私たちは、イエス様を救い主として告白し、洗礼を受け、救いに与っています。しかし、日々の生活の中で、やはり世の中の無関心、自分中心主義から逃れることができないという宿命を持っています。であるならば、私たちもまた、罪人であることを自覚し、イエス様の「汝我と共にパラダイスに在るべし」というみ言葉を慰めと救いの言葉として、福音として受け止めるべきではないでしょうか。今日は読まれませんでしたが、本日の使徒書であるコロサイの信徒への手紙では、「神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。」と記されています。私たちは、この恵みに感謝し、イエス様の弟子として、日々、出会う人々に対して、大いに関わりを持ち、無関心と自分中心主義の世の中で、世の光、地の塩として神の宣教のお手伝いをしていきたいものだと思います。