20039月 聖霊降臨後第15主日(特定20)堺聖テモテ教会

 

知恵の書 1:16−2:1、12−22

マルコによる福音書 9:30―37

 

小さい者によって生かされる

 

 本日の第二日課として読まれましたマルコによる福音書の箇所は、二つの部分に分かれています。前半、つまり30節から32節までは、イエス様がご自分の受難について予告をされている場面、そして33節から37節は「偉大さ」に関する弟子たちの口論とそれに対するイエス様の教えであります。

 イエス様はマルコ福音書の中で、三度、十字架につけられ復活されることを予告していらっしゃいます。一回目は8章31節以下で、今日の箇所、つまり9章30節からは二回目の受難予告です。三回目は10章32節以下に出て参ります。そしてイエス様がご自分のこれからについて語られるたびに、弟子たちの無理解と不信仰があらわになります。この無理解は次第に深刻なものになります。イエス様と弟子たちの間の亀裂が深まっていると言うことができます。第一回目の受難予告の時には、弟子たちはイエス様の仰ることが理解できず、ペトロはイエス様をいさめ、そのことで「サタンよ、退け」と強く叱責されます。第二回目、つまり今日の箇所では、弟子たちはイエス様の言葉の意味が分からず、しかも「怖くて尋ねられなかった」と記されています。「怖くて尋ねられなかった。」ここには、神の子イエス様と私たちの間の深い溝が示されています。私たち全ての罪を背負って十字架にかかり、その血によって私たちの罪を洗い流してくださったイエス様の進む方向と、メシアの到来によってこの世の栄光を望む弟子たちの間には、ある意味で超えることのできない深淵が口を開いています。神の子イエス様のご受難は、私たちの理解を超えた業であり、そのような徹底した自己犠牲(それは神様にしかなしえない業であります)は私たちの恐怖を呼び起こすということができるでしょう。そしてその恐れがまた、イエス様の死を招き寄せたと言うこともできるのです。本日の第1日課である「智恵の書」には、こう記されています。「神に従う人は邪魔だから、だまして陥れよう。我々のすることに反対し、/律法に背くといって我々をとがめ/教訓に反するといって非難するのだから。神に従う人は、神を知っていると公言し、/自らを主の僕と呼んでいる。彼らの存在は我々の考えをとがめだてる。だから、見るだけで気が重くなる。その生き方が他の者とは異なり、/その行動も変わっているからだ。」私たちは自分に理解できない義の人、神に従う人の生き様に直面すると恐怖し、その人を抹殺しようとさえするのだ、ということをこの「智恵の書」は示しています。

 この鮮やかな対比は、次の「誰が一番偉大か」という議論につながっていきます。一行がカファルナウムに帰り着く途中で論じ合っていたことをイエスはお聞きになり、何を話し合っていたのかお尋ねになります。これに対する弟子たちの答えは、イエス様の弟子としては全く相応しくない内容でした。この世の基準から、誰が一番偉いかを論じ合っていたというのです。ひょっとしたら、メシアとしてのイエス様の後継者は誰になるのか、ということかもしれません。しかし、イエス様はそうした弟子たちの思惑とは全く違うところから、二つのことを教えられます。それは弟子たちの価値観を転倒する、驚くべきみ言葉でした。

 一つは、「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、全ての人に仕える者になりなさい8。」というみ言葉であります。これほど、この世でのイエス様の生き方を見事に示したみ言葉があるでしょうか。これほど、イエス様に従う私たちの生きるべき道を示したみ言葉があるでしょうか。ここには、イエス様が私たちのためにこの世に来られ、徹底して私たちのために仕え、ついに十字架につけられたことの意味が、はっきりと述べられていると思います。実は、来月の第3主日、私が奨励をさせていただくことになっている主日の日課(特定24)で、同じような状況が記され、イエス様の同じようなみ言葉が記されています。そこで、「全ての人に仕えなさい」というみ言葉の意味をもう一度ご一緒に学んで参りたいと思いますので、今日はもう一つの方のみ言葉に注意を集中して参りましょう。

 もう一つのみ言葉は、一人の子どもを抱き上げて、その子どもを受け入れる者はイエス様を受け入れるのであり、イエス様を受け入れる者は神様を受け入れるのだ、と語っておられるところです。これも、驚くべき言葉であり、弟子たちの常識に真っ向から対立するものであります。「一人の子ども」、それは当時のイスラエルではまったく取るに足らない存在として扱われています。現代の私たちには、純真な、汚れない心をもった子ども、というイメージがあり、イエス様のこのお言葉は美しい絵画的イメージを伴って、比較的理解しやすいと思われます。この聖テモテ教会の会館には、大田健一さんの絵がかかっています。子どもたちと一緒に戯れるイエス様、それは美しい天国の光景を表しているように思えます。私たちは信仰の目で、子どもたちとイエス様の関係をそのような美しいものとして理解することができます。しかし、当時のイスラエルでは子どもたちは必ずしもそのような美しい存在としては理解されていなかったようです。子どもたちとは、取るに足らない者、社会的には無に等しい者として扱われていたのです。ローマ人たちは、子どもがなく後継ぎを必要とする場合には、子どもではなく成人を養子に迎えたといわれています。養育の手間が省けるからです。そのような小さい者、取るに足らない者とされていた人々のいわば代表として、子どもたちを受け入れるようにとイエス様は教えておられるように思われます。それだけに、このみ言葉は驚くべき、衝撃的な言葉だということができるでしょう。

 ラルシュ共同体という名前をお聞きになったことがあるでしょうか。ラルシュとはフランス語で「箱舟」という意味です。ジャン・バニエというカトリックの信徒が始められた知的障害者の共同体で、現在オーストラリア、ブラジル、カナダ、インドなど29カ国122カ所に広がっています。この共同体には世界から若者たちが集まり、ジャン・バニエさんは、マザー・テレサ、そしてテゼ共同体を始められたブラザー・ロジェと並んで「現代の三聖人」と呼ばれているそうです。ジャン・バニエさんは1964年に施設や病院にいる知的障害を持つ人たちの苦しみにふれ、そこでフィリップとラファエルという二人の知的障害者を招き、フランスの寒村トロリーにホームを創りました。これがラルシュの始まりです。そしてこのように生活しながら知的障害を持つ仲間のすばらしさに気付き始めます。愛するとはまず何かをしてあげることではなく「その人のすばらしさに気付くことだ」と知らされます。そして逆に健常者と呼ばれる人々こそ、人を押しのけても優位に立とうとする成功主義に毒され、他人を抑圧し、攻撃せざるをえない欲望をもった人々であり、「共に生活するのが実に難しい人々」であるということを実感します。ところが出世の階段を昇ることが出来ず、権力や教養といった衣を着ることができない人々、知的障害をもった人々は、逆に私たちを癒す力を与えられている、とバニエさんは主張します。私たちが彼らを癒すのではなく、逆に彼らから癒されるのだというのです。

 日本基督教団の牧師をしていらっしゃいます島しず子さんには、知的障害のお嬢さんがおられます。彼女は1987年に来日されたジャン・バニエさんとの出会いについて、次のような証をしておられます。「私も神戸で開かれた研修会に参加しました。私はそのとき10歳になります車椅子の娘、陽子を連れていました。彼女は小さい時に百日咳脳症という病気になり、奇跡的に生還しましたが、それは歩くことも話もできず自分で食べることもできない重度心身障害者としての生還だったのです。私はその娘を育てながらいろいろな人にいろいろなことを言われました。その中でもっとも典型的な言葉は車椅子に横たわっている無表情の娘を見て<この子は生きていて幸せかしら>という意味の言葉でした。そしてその思いは私自身のなかにも少しはありました。いっしょうけんめい働き、いっしょうけんめい娘を育て、そして疲れ果ててしまっていました。そんななかでジャン・バニエさんの研修会に参加したのです。そして主催者からその陽子がバニエさんにお礼のプレゼントをするお役目をいただいたのです。私は預かったプレゼントを娘の膝において輪の真ん中にいらっしゃるバニエさんのそばに車椅子を押して行きました。バニエさんは娘の膝からプレゼントをとって、もうひとつの空いた手で娘の手を握りました。そして娘の顔を見つめて笑いかけました。手を握られ笑いかけられて娘もまた微笑み返しました。ふたりは何も話したりはしていませんでしたが、私はバニエさんの姿から声が聞こえてくるのを聴いたのです。<陽子さん、いっしょうけんめい生きてきましたね、私はあなたのことを尊敬していますよ。神さまもあなたを大事に思っていますからね>バニエさんの姿ははっきりとそう言っていました。どんなに努力しても障害を軽くすることができなかった娘と私に<尊敬しています>というまなざしを向けてくださったのです。そう聞こえた時、私は長い間、私自身が求めてきたものがこれであったということに気がつきました。そして<ああ、このままでいいのだ>と強く思いました。

 私たちは、能率第一、成功第一の現代社会の中で、大きな者、つまり成功した人、出世した人、大事を成し遂げた人を尊敬し、重視します。それは、そうした人の努力に対する敬意という意味では当然かもしれません。しかし、イエス様に従う者の共同体である教会は、今日の福音書のメッセージをしっかりと受け止めなければならないと思います。私たちは、現代社会においてのけ者にされた人、苦しんでいる人、悩んでいる人、そして傷ついた子どもたち、そうした人々に眼差しを向け、そうした人々を受け入れ、そうした人々によって生かされ、共に生きていかなければならないのではないでしょうか。また時には、私たち自身が、あなたが、わたしが、仕事を失い、あるいは愛する人を失い、打ちのめされ、苦しみ悩みの中に沈んでしまうこともあるでしょう。そのようなとき、イエス様は「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」と声をかけ、「悲しむ者は幸いである。その人たちは慰められる。」と慰めの手を差し伸べてくださいます。マルコ福音書10章14章には、「子どもたちを私のところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」と記されています。私たちも、うち砕かれ、悲しみの淵に追いやられたとき、きっとイエス様は私たちを見つめ、やさしく神の国へと招いてくださるものと信じています。