2003年7月20日 聖霊降臨後第6主日(B年特定11)

旧約:イザヤ57:14b―21

使徒書:エフェソ2:11―22

福音書:マルコ6:30―44

自らを献げる

 
 「奇跡」というと私たちは、摩訶不思議な、常識では考えられない現象を想像してしまいます。一種の手品のような、魔法のような行為です。出エジプト記の中でイスラエルの民を救うために神が海を真っ二つに割ってくださったなどというのは一つの例でしょう。イエス様が湖の上を歩かれた、というのも奇跡行為の代表だと言えると思います。そういった不思議な出来事は、現代人はあまり経験することがなくなったかもしれません。全ての出来事が科学で説明され、そうした説明がなされると、私たちは納得してしまうからです。

 しかし、それでも起こり続けている奇跡があります。重い病にかかっておられた方が、イエス様と出会い、心の重荷を取り除いたために、ご病気が急速に回復に向かわれたというお話も聞きます。そして、全く神様のお恵みによるとしか言いようのないのは、ほんの小さな祈りや行動が、人々の心の中に染みとおり、一粒のからし種が大きな木に成長するように、大きなうねりとなって広がっていくということです。マザー・テレサがインドで始めた奉仕の業がそれをよく示していますし、ブラザー・ロジェが始めたテゼの共同体もその素晴らしい証だと思います。

 今日の第二日課として読んでいただきましたマルコによる福音書の箇所は、有名な5000人の供食という場面です。イエス様が五つのパンと二匹の魚(これを以前は五餅二魚といったそうです)を取って、賛美の祈りを唱え、パンを裂き、人々に渡すと男だけで5000人の人が満腹したという奇跡物語であります。男性以外に女性や子供も当然いたでしょうから、実際には1万人もの人々が五つのパンと二匹の魚で養われたことになります。私たちはこのみ言葉を聞いて、聖餐式を思い出すかもしれません。祈祷書の中の「主イエスは渡される夜、パンを取り、感謝してこれを裂き、弟子たちに与えて言われました。」という言葉は、マルコ福音書では14章22節に出てくるイエス様の言葉に基づいているのですが、その原型はこの5000人の供食の中にあると言われています。そこには、主が祝福されたパンを共に食し、み言葉に養われるキリスト者の交わりのあり方が示されています。私たちも、聖餐式でパンとぶどう酒をいただき、神様の恵みを受け、み言葉に養われ、この世に出て行くのであります。

 マルコ福音書にはないのですが、同じ話が出てくるヨハネ福音書6章では、一人の少年が登場して参ります。この少年が差し出した五つのパンと二匹の魚が、イエス様によって祝福され、5000人の人々を養うわけであります。少年にとっては大切なパンと魚であったでしょう。一家を養うために手に入れたかけがえのない食料であったかも知れません。少年はそれを、イエス様に差し出します。自分だけが、あるいは自分の家族だけが食べるのではなく、その場に集っていた大勢の人々と共に食するために、イエス様にそっと差し出すのです。お弟子たちは「そんな少しでは役に立たない」と冷笑しますが、イエス様はそうではありませんでした。少年が差し出したパンと魚を受け取り、父なる神に感謝し、祝福されたのであります。

 ここには大切なメッセージが込められていると思います。それは、ごく僅かななささやかなものであっても、心からそれを献げる時、イエス様はそれを祝福し、全ての人々のために用いてくださるということです。そして、それは小さなものであっても、神様の恵みのもとで大きな働きをすることができる、ということであります。少年のような素直な心で自分の大切なもの(それは自分自身かも知れません)を献げるということ、神様はその献げ物を喜んでお受けになるということではないでしょうか。

 ここで私たちの教会の歩みを少し振り返ってみたいと思います。皆様もよくご存じのように日本に最初にキリストの福音を伝えたのはローマ・カトリック教会の宣教師たちです。この堺にもザビエル公園があり、フランシスコ・ザビエルの足跡がはっきりと残されていることを私は最近知り、遠い異国に命がけで宣教にやってきた信仰の先輩、宣教師たちの信仰と奉仕の心に強い感動を覚えました。

 江戸末期に聖公会の信仰を日本に伝えたのは、アメリカ聖公会のチャニング・ムーア・ウィリアムス司祭(後の主教)であります。ウィリアムス主教ははじめ中国での伝道に携わっていたのですが、日本宣教への機運が高まってきたため、リギンス司祭と共に急遽日本に派遣されることになります。リギンス司祭は病気のためにすぐに帰国することになりますが、単身日本に残ったウィリアムス主教は、まだキリシタン禁制下にあった日本で長崎の出島にとどまり、日本人に英語を教え、祈祷書や使徒信経、十戒などの翻訳を進め、着々と準備を進めたのでした。そして、1869年(明治2年)には大阪の川口居留地に居を定めて主日礼拝を始め、本格的な宣教の働きを始めたのであります。

 皆様の方がよくご存じのことですが、この堺聖テモテ教会を始められたのは、ウィリアムス主教と同じアメリカ聖公会のジョン・マキム司祭(この方も後に主教になります)であります。マキム主教は主として大和を中心に伝道を進めた方で、すでに奈良基督教会、高田基督教会をはじめ、いくつかの教会を設立されておられました。マキム主教はまず「堺聖公会講義所」を設立されたのですが、当時、堺ではキリスト教に対する嫌悪感や反感が特に強く、キリシタンの迫害が激しく行われたところでした。宣教にはかなりの困難が伴ったことが想像されますが、この世の敵意もマキム師の岩のような信仰と召命感を揺るがせることはできず、1890年(明治23年)には市之町に新しい礼拝堂を建築するにいたります。そして翌年には、柳原吉兵衛さんご家族4名がマキム師から洗礼を受けられたのであります。こうしてこの教会は神様の恵みを受けて、大きく成長して行くのであります。その後マキム主教はウィリアムス主教の後を継いで、「江戸監督」として東京に移住されます。

 私はここに、神の恵みによる一つの奇跡を見る思いがします。アメリカ聖公会やイギリスの宣教団体による組織的な支援も当然ありましたが、何よりも大切なのは、遠い異国である日本で生涯を献げられたウィリアムス主教、マキム主教の召命感であり、また両主教を神様が祝福し、彼らが蒔いた種を大きく育ててくださったということではないでしょうか。私たちが神様の栄光のために自らを献げるとき、神様のお恵みは豊かに注がれます。堺聖テモテ教会はその後、数々の試練を乗り越えて、力強く育っていきます。第二次世界大戦前後には全国的にキリスト教が特に大きな試練に出会いました。その間には神の裁きの前に懺悔しなければならないこと、反省しなければならないことも残されていますが、それでもなお、神様は教会を祝福してくださいました。私たちの堺聖テモテ教会も戦後にはこの諏訪ノ森の地に移り、困難を乗り越えて大きな発展を遂げて参ります。時には苦しいこともありましたが、信徒の皆様、そして聖職者の「主にある一致」は、そんなことで崩れるものではありませんでした。私は最近、『堺聖テモテ教会百年史』という本をお借りして読ませていただき、皆様のご努力と献身に対する感動を新たにいたしました。1958年(昭和33年)の5月、宣教百年を記念して再献身教区大礼拝が行われた際、堺聖テモテ教会が発表した『再献身者の応答』という文があります。その一部をご紹介します。「クリスチャンとは神に召し出された者に対する言葉である。故に召し出された者は神に身も魂をも捧げて神の与え給う使命を遂行するのが第一義であり最も尊いことである。しかし弱い我々は神のために真実の献身をなしていないからこの度教区の全員が一つところに集まって再献身を誓ったのである。厳粛に言えば再献身は一回限りでなく絶えず誓ってゆくべきものである。旧約時代の預言者イザヤは<我ここにあり、我を遣わし給え>と聖なる神の選びの意思に答えたと伝えられるがこれはまた、今日選ばれた我々の応答でもあらねばならぬ。」厳粛な、身の引き締まる思いがいたします。

 私たちに今大切なことは堺聖テモテ教会のこの歴史に誇りを持ち、絶えず神様に私たち自身を献げなければならないとではないでしょうか。そのためには、「主にある一致」「祈りによる一致」がなければならないと思います。今日は「朝の礼拝(早祷式)」でしたので、読まれませんでしたが、聖餐式ならば読まれることになっていた使徒書は、エフェソの信徒への手紙2章11−22節でした。そこには、「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」と記されています。また、「あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。」と聖パウロは説いています。私たちが、キリストの平和を心の隅々に抱き、一つにされた神の民、神の家族として、感謝して自らを献げる時、神様はそれを祝福し、奇跡を起こしてくださる、そして一粒のからし種が大きく育つのだと思います。