復活節第6主日 朝の礼拝

 

旧約聖書:イザヤ書45:11-13, 18-19

使徒書:使徒言行録11:19-30

福音書:ヨハネによる福音書15:9-17

 

 愛の共同体



キリスト者の集まりである教会は、何によって教会と呼ばれるのでしょうか? 他の団体や組織とどこが違うのでしょうか? こんな質問を唐突に投げかければ、きっとみなさんは驚かれることでしょう。しかし、今日の聖書のみ言葉に耳を傾ける時、そのような問いを投げかけられているように私は感じます。教会とは一体なんでしょうか?

 

本日の第一日課として読まれた使徒言行録には、アンティオキアの初代教会の様子が記されています。アンティオキアに行った人々の中には、聖霊と信仰に満たされた一群の人々がいて、彼らはユダヤ人だけでなくギリシャ語を話す人々にも語りかけ、イエス・キリストの福音を述べ伝えたというのです。そしてこのことを伝え聞いたエルサレムの教会はバルナバをアンティオキアに派遣し、宣教と牧会に当たらせました。バルナバはキプロス島出身のレビ族の人で、パウロと並んで福音を異邦人、つまりユダヤ人以外の人々に広めた伝道者であります。バルナバはアンティオキアの教会が神に祝福され、信仰に満ちている様子を見て喜び、さらに多くの人々を福音に導いた、と使徒言行録には記されています。そして、このアンティオキアで初めて、弟子たちが「キリスト者」つまり「クリスチャン」と呼ばれるようになったのであります。

 

この「クリスチャン」という言葉は、始めは「キリストに浮かれている人たち」というような意味で、幾分軽蔑的に用いられていたようです。しかし、弟子たちはそれをあえて自分たちの呼び名として受け入れ、「クリスチャン」という名前を、美しい、光栄ある呼び名として、それにふさわしい生き方をしたのであります。またそれは、他の人々から「キリストに浮かれている」と言われるほど、彼らが福音の喜びにあふれ、全生活を福音伝道のために捧げていたということでもあると思います。

 

さて、今日の福音書の箇所は、先主日に引き続き、イエス様が十字架につけられる前になさった「告別説教」の一部です。ご自分がこの世を去られるに当たって、お弟子たちにイエス様ご自身の命令、新しい掟を与えられるところです。「わたしがあなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」とイエス様は仰っておられます。互いに愛し合うこと、それがイエス様の弟子としての私たちの掟であることは非常にはっきりしています。この福音書を書いたヨハネが属していた教会では、とくに互いの愛ということが強調されています。同じ人が書いたヨハネの手紙1の4章7節には「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。」と書かれています。また、ヨハネ福音書の13章35節には、「互いに愛し合うならば、それによってあなた方はわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」と記されています。つまり、それは「教会員同士の愛」がキリストの教会のはっきりとした特徴であり、それによって、誰が見ても「あの人たちは、クリスチャンだ」と思うということだと思います。

 

では、互いに愛し合うというのはどのようなことでしょうか。今日は、ヨハネ福音書に記されたイエス様のみ言葉から二つのことを学びたいと思います。

 

一つは、イエス様は「もはや、わたしはあなた方を僕とは呼ばない。わたしはあなた方を友と呼ぶ。」と仰っておられるということであります。わたしの好きな聖歌の一つに486番がありますが、「慈しみ深き、友なるイエスは」というこの聖歌は19世紀に作られたようでありますが、きっとこれまでの150年の間、無数の人々を励まし続けてきたのだと思います。私たち人間の友になられたイエス様。ガリラヤの貧しい人々、苦しんでいる人々と共に生き、苦しみ、その友となられたイエス様。それは神の子が人間になられた、つまり私たちと同じ目線に立ち、友としての眼差しで私たちを見つめておられるということだと思います。幼い子供と話すとき、私たちは、上から見下ろすのではなく、その子供と同じ目の高さになり語りかけることが大切だと言われます。イエス様はまさに、私たちの友として、同じ目の高さから私たちに愛を注いでくださっています。私たちは、そのイエス様を見つめ、イエス様が示された道を共に歩むよう召されているのであります。

 

二つ目は、イエス様が「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」と仰っておられるということです。「愛」の本質をこれほど見事に言い表した言葉はないのではないでしょうか。そしてイエス様は、言葉で言われただけでなく、そのご生涯によって、また十字架上の死によって、文字通り友のために自分の命を捨て、愛の姿を私たちに示されたのです。

 

 イエス様の言葉に従って友のために命を捧げた人々は、世界にも我が国にもこれまで実に数多くおられたと思います。私の頭にも、コルベ神父など、幾人かの方のお名前が浮かんで参ります。今日は、お読みになった方もいらっしゃると思いますが、三浦綾子さんの『塩狩峠』というお話をご紹介したいと思います。それは、明治42年に北海道の旭川近くの塩狩峠というところで実際にあった事件、一人のキリスト者、鉄道会社の社員であった長野政雄さんの殉職をふまえて三浦さんがお書きになった小説であります。

 

 主人公は別の名前になっていますが、分かりやすくするために実在のお名前で長野政雄さんと呼ばせていただきます。長野さんは、両親から受け継いだ信仰を育てようとしていますが、なかなか信仰に確信が持てません。とくに、「義人なし、一人だになし」(正しい者はいない。一人もいない。ロマ書3:10)という聖書の言葉、自分が罪人であるということがなかなか理解できません。ある日、路傍伝道に立っていた伝道師から、自分がいかに罪人であるかを知るには、イエス様の戒めの一つでもとことんまで実行してみなさい、そうすれば自分がいかにイエス様の弟子としてふさわしくないか、人間がいかに罪深い者かが分かると言われます。そこで長野さんは自分の職場で他人の給料をかすめ取ったことで解雇されようとしていた三堀という人物の隣人として、彼の友であり続けようと決心するのです。そして自分のくびをかけた長野さんの必死のとりなしで三堀は職を奪われずに済みます。ところが彼は、そのことから長野さんに引け目を感じ、卑屈になり、逆に陰に陽に長野さんの足を引っ張ります。長野さんを偽善者とののしります。陰口を利いて回ります。長野さんは心穏やかでない時もあったのですが、「汝の敵を愛せよ」というイエス様の教えを心に抱き、幾度も幾度も三堀を赦します。そして次の聖書の箇所を繰り返し読み、自分にそれが実行できるだろうか、と問います。「主は我らのために生命を捨てたまえり。我らもまた兄弟のために生命を捨つべきなり。」

 

 ある日、長野さんの結婚が間近に迫った日のことです。彼が乗っていた列車が峠にさしかかったとき客車が機関車から離れ、後ずさりを始めます。そしてだんだんと速度を増していったのです。このままでは客車は転覆します。そのとき長野さんは静かに祈ると一人で客車の前の方に行き、ブレーキをかけます。しかしブレーキは十分に利きません。長野さんはとっさに判断すると、自らの体を客車の前の線路上に投げ出し、その体に乗り上げた客車は奇跡的に転覆直前に止まり、乗客はみな救われるのであります。文字通り、人々を救うために自らの命を投げ出したのです。この長野政雄さんの行動は、全北海道の人々を感動させ、長野さんの後に従って多くの人々がクリスチャンになったと言われています。同じ列車に乗り一部始終を見ていた三堀もまたその一人でありました。

 

この物語は、私たちに多くのことを示してくれています。まず私たちは、長野さんの愛は赦しと一体であったということを教えられます。自分を幾たびも裏切り、ののしる三堀を、長野さんは赦し続けます。その底にあるのは、「義人なし、一人だになし。」という罪の自覚であります。私たちは自分だけが正しいと頑なに思いこむとき、他の人々を赦すことができなくなります。自分の目の中の梁に気づかず、他人の目の中のおが屑をとがめます。神の前には一人として正しい者はいないのだという自覚に立ったとき、私たちは互いに赦し合うことができるのではないでしょうか。そして、そこに平和が生まれ、愛が行われるのではないかと思うのです。ある人がこのような話をしてくれました。「家の中で、正しい人が多いと、家はもめ事が多くなる。罪人が多いと、家は平和になる。」互いに「私が悪かった」と認め合うことができるからだというのです。

 

それにしても、私たちは、この長野さんのように進んで友のために命を捨てることができるでしょうか? 残念ながらわたしには、その確信はありません。きっと三堀と同じように列車の座席にしがみつきながら、死の恐怖に怯えて縮こまっているのではないか、と思うのです。その勇気のなさをわたしは恥ずかしく思います。しかし同時に、キリスト者の愛は、神からでている愛であると記されています。私たち一人一人の人間にはその強さと力がなくとも、そのような自分を神様の前に投げ出し、「どうか力をお与え下さい」と祈ることによって、またその祈りが真実の祈りであれば、きっと神様は勇気と力を与えてくださるのではないでしょうか。まず神様が私たちを愛してくださっている、ひとり子であるイエス様を与えて下さるほど愛して下さっている、その事実を受け入れいることから私たちの愛は始まるのだと思います。

 

そして何よりも大切なことは、日々の生活の中で、そして出会う人々と関わる中で、どれほどイエス様の弟子にふさわしい行いができるかということだと思います。教会は、神様の愛に包まれた、いわば「愛の共同体」であるといえるでしょう。しかし、それは自動的にそうだというわけではありません。日々、生活の中で、神の愛に応え、イエス様の弟子として「互いに愛し合う」という課題を分かち合ってこそ、教会は「愛の共同体」と呼ばれるのにふさわしい教会となるのではないでしょうか。