聖霊降臨後第23主日(C年)  2019年11月17日
ルカによる福音書第21章5〜19節『終末の徴』

今日の福音書朗読はイエス様のエルサレムの神殿の崩壊の予告から始めます(ルカ21:5-6)。次、弟子たちは神殿の崩壊に関係がある事象、つまり徴について質問を出しました(ルカ21:7)。イエス様の答えは三つの部分で構成されました。一つ目はイエス様が神殿の崩壊の前兆とならない徴について説明します(ルカ21:8-11)。二つ目は、イエス様が神殿の崩壊に先行する徴について説明します(ルカ21:12-19)。今日の福音書朗読に含んでいませんが、三つ目はイエス様が神殿の崩壊と平行する徴について説明します(ルカ21:20-24)。
なぜ、エルサレムの神殿の崩壊は重要でしょうか?神殿の崩壊は神様のご計画によって行うことだけでなく、神殿の崩壊は神様のイスラエルの民に対する処罰です。神殿の崩壊によって、終末論的なことが始まることができます。紀元前586年、エルサレムの神殿はバビロンの王ネブカドレツァルの軍隊によって崩壊され、ユダヤ人のバビロン捕囚が始めました。イスラエルの民にとってはその崩壊は衝撃的なことでした。ですので、エルサレムの神殿の崩壊は終末論的な出来事の前兆となりますが、その崩壊と終末論的な出来事が始まる前に一定期間があります。そのような出来事は神様の終末論的のご計画によって行います。

聖霊降臨後第20主日(C年)  2019年10月27日
ルカによる福音書第18章9〜14節『愛』

ルカ18:9-14は対照的なたとえで、一つの教えだけがあります。その教えは、神様の前に謙虚さは重要です。「神様、罪人のわたしを憐れんでください」(ルカ18:13)。また、私たちは自分の正当性を示しようとする時に、自分を他の人を比べることをしてはなりません。私たちは神様の憐れみを信頼して、私たちの活動のために神様から憐れみをもらうこと、或いは祝福を受ける権利があると思うことは出来ないというわけです。神様の憐れみの確実性はイエス様の犠牲的な死によって実現しました。ですので、憐れみをいただくために私たちがやったこと、つまり私たちのworksは関係がありません(ロマ3:21-31;エフェ2:4-18)。ルカ18:9-14は独善的の人を向けていることだけではなく、他者を軽蔑する人にも向けているということです。「神様、わたしはほかの人たちのように…」(ルカ18:11)は非常に危険な言葉です。恐らく、私たちは日常生活の中に、時々そのように考えたことがあると思います。けれども、もしその言葉の危険性を分かれば、すぐに私たちは正しい態度を取ることが出来ると思います。私たちはありとあらゆるチャレンジを経験しますが、私たちは神様を信頼して彼を見失わなければなりません。

聖霊降臨後第19主日(C年)  2019年10月20日
ルカによる福音書第18章1〜8a節『それでも祈り続けます』

ルカ18:1-8は弟子たちが信仰によって進むことを明らかにします。そのことについて、一番重要なことは信仰の自己告白についてのことです。私はイギリス人なので、キリスト教徒は当然なことですが、日本において、そのような状態は全然違います。ですので、皆さんにとって、イエス様はたとえ話において励ましの言葉をくれてくださいます。つまり、どんな苦難に経験があっても、頑張なければならないということです。なぜなら、神様は私たちにとって正しい審判をするからです。私は何回そのことについて書いていますが、洗礼・堅信を受けた人々は必ずしも救われた人ではありません。今日の福音書朗読の焦点は耐えることです。初期教会の聖人はすべて殉教者で、教会の中にはその聖人をあがめられていました。その初期教会は現在の聖公会とカトリック教会及び正教会になりました。ですので、伝統的な立場を見ると、私たちもその殉教者を崇拝することはおかしくないということです。恐らく、私たちはその初期キリスト教時代の聖人が受けた死を経験することをしないと思いますが、私たちは精神的にそのような経験を準備することは必要です。しないと、最悪のシナリオ、私たちはイエス様を裏切るかもしりません。どこに行っても、反キリスト教圧力があります。けれども、イエス様に対する信仰と神様へのお祈りによって、神の国から助けは来ます。皆様、一緒に頑張れましょう。


聖霊降臨後第18主日(C年)  2019年10月6日
ルカによる福音書第17章11〜19節『あの9人とともに』

今日の福音書朗読は奇跡についての話ですが、その話の焦点は癒しの行為ではなく(ルカ17:11-14)、むしろ癒しの後の教えということです(ルカ17:15-19)。癒したサマリア人だけがイエス様の元に戻って来て、彼の前にひれ伏して感謝しましたが、イエス様は十人の重い皮膚病を患っている人々全員を癒しました。つまり、イエス様は彼に憐れむよう求める人々を憐れむということです。けれども、その十人の中からサマリア人だけが救われました。なぜなら、彼には「信仰」があったからです。「あなたの信仰があなたを救った」とイエス様はサマリア人に言われました(ルカ17:19)。ルカ福音書の中で、イエス様は他の3箇所と同じような表現を用います(ルカ7:50, 8:48, 18:42)。神様の恵みは全人類を網羅しますが、全人類は神様に対応しませんので、彼らはその恵み、或いは救いを失うというわけです。私たちもその点を忘れてはいけません。私たちは洗礼によって神の家族のうちに生まれ、神の義に生き、キリストに満ちみちている永遠の命にあずかりますが(教会問答18)、神様からの最大の恵みをいただくために、信仰は必要です。今日の福音書朗読の中に、サマリア人はイエス様と神様との関係について理解しましたので、彼は信仰があるようになりました。その結果として、彼は救われたということです。

聖霊降臨後第17主日(C年)  2019年10月6日
ルカによる福音書第17章1〜6節『からしだね一粒の信仰』

ルカ17:7-10はルカ17:1-6の中の厳しい要求を主人と奴隷のたとえ話に描かれています。つまり、神様の要求を満たすことは私たちの神様に対する特権的な地位を占めるようになるためでなく、むしろ私たちは神様の要求を満たすのは私たちの義務ということです。奴隷が主人の命令に従うように私たちも神様に従わなければなりません。
夫が1日の重労働の後で、妻は相互義務として夫の食事を用意するかもしれません。しかし、奴隷の働きは主人に手を貸してやることでなく、主人は奴隷の働きのために彼を買ったということです。初期教会の中に、奴隷は私たちの神様に対する忠実と献身と服従を象徴していました。けれども、ルカ17:7-10の中に描いたように、私たちの神様に対する服従は神様に要求する権威にならないというわけです。神様は非情な神と見えますが、私たちは私たちの地位を忘れてはいけません。神様は愛情がある神で、この世に御子イエス様を派遣して、私たちの救いのためにイエス様は亡くなりました。けれども、神様は神様で、全能である神ですが、私たちは神様の被造物です。ですので、私たちはもっと謙虚な心を持って、全身全霊に神様に仕えましょう。

聖霊降臨後第15主日(C年)  2019年9月22日
ルカによる福音書第16章1〜13節『未来に期待しましょう』

「不正な管理人」のたとえ話を理解するのはとても難しいと思います。管理人は主人の財産を無駄遣いしたため解雇されましたが、管理人は主人から借りがあった者の債務を削減したことは主人から称賛しました。「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた」ということです(ルカ16:8a)。つまり、主人は損をしましたのに、管理人の不正行為をほめたというわけです。
「不正な管理人」のたとえ話はファリサイ派の人々を批判するだけでなく、イエス様は弟子たちも批判します。また、イエス様は弟子たちにファリサイ派の人々が金銭を扱うようにしないことを主張します(ルカ16:14)。お金を自分のため使うことではなく、他の人々のため使うということです。ですので、「不正な管理人」のたとえ話の主なテーマは「管理」で、特に「財産管理」です。神の国が到来することと、私たちは神の子なので、私たちは未来に目に向けて、先見の明があることが必要です。言い換えれば、惜しみなくお金をささげて神の国に入ることの方が自分自身のためにお金をためて神の国に入れないより良いということです。忠実性は小さなことで始まります。神様と金銭を両方に使えることができないので、私たちは神様中心の生活をしなければなりません。私たちは神様に仕えることは必要で、神様は私たちの「管理」を評価すること及び私たちに報いられます。

聖霊降臨後第14主日(C年)  2019年9月15日
ルカによる福音書第15章1〜10節

 今日の福音書朗読の中の二つのたとえ、つまり「見失った羊」のたとえ(ルカ15:1-7)と「無くした銀貨」のたとえ(ルカ15:8-10)の基本テーマは「さがし」で、基本感情は「喜び」ということです。その二つのたとえはイエス様がなぜ徴税人及び罪人を迎えることを説明します(ルカ15:1-2)。神様は罪人を見つけるために大変な努力して、そしてその罪人は悔い改めれば、神様は大喜びします。神様は限られた数の人の神でなく、賢人の神でもなく、神様に追求すると思う人の神でもないとイエス様が主張します。従って、神様は罪人をさがして、罪人を見つけて、そして罪人を世話する神様です。当時、徴税人は嫌われて、罪人はあざ笑ったので、イエス様は彼らに励ましの言葉をかけて、その社会的のけ者はイエス様のもとに来るように勧めます。神様への道の最初の段階は悔い改めるので、もし罪人は悔い改めれば、神様は彼を迎え入れるということです。しかし、イエス様は無条件の愛のように一切言われていませんでした。つまり、罪人は神様によって迎え入れたいなら、最初にその罪人は悔い改めなければなりません。もし、そうしない場合には、神様から離れるようになります。私たちもそのことを忘れてはいけません。確かに神様は愛であることは正しいですが、神様への道に進めるために、私たちは歩くことは必要です。その最初の段階は私たちの罪を認めて、そしてその罪を悔い改めなければなりません。

聖霊降臨後第13主日(C年)  2019年9月8日
ルカによる福音書第14章25〜33節

ルカ福音書14:26-27はマタイ福音書10:37-38と似ていて、共通点がありますが、恐らく原文は異なります。今日の福音書朗読全体は福音書記者ルカの特殊資料からのものです。先週の福音書朗読の焦点は「謙虚さ」で、特に神様に従うために、謙虚な態度を表した方がよいということです。ルカ福音書14:26-33の個所はそのような教えを加えます。つまり、もし神様に従ったら、私たちはイエス様を私たちの生活の中心に据えなければなりません(ルカ14:26-27)。イエス様は私たちの家族より大切で、そしてイエス様中心の生活をするなら、ひどく苦しみを受け入れる用意があるというわけです。イエス様は弟子のなるために先々の見通しをつけることについて、二つの例を挙げます(ルカ14:28-32)。塔を建てる人は費用を計算することは必要です。また、王様は戦いに行こうとするときは、軍隊は十分かどうか、確認することは必要です。ですので、私たちは同じようにイエス様の弟子になりたいなら、実際の結果を考慮しなければなりません。キリスト教はやさしい宗教であることを見えますが、けれども厳しい側面もあります。その厳しい側面を無視なら、その結果は私たちのキリスト教は完璧なキリスト教ではあります。

聖霊降臨後第12主日(C年)  2019年9月1日
ルカによる福音書第14章1、7〜14節

聖書の中に、今日の福音書朗読の個所のテーマは珍しくないで、イエス様の基本的な論理的な姿勢を反映します。イエス様は謙虚な態度を取ることを度々言われました(マタ18:4; 23:12; ルカ18:14)。今日の個所はルカの特殊の資料の中からの一つですが、箴言25:6-7の個所についての解釈とも考えることができます。
当時のユダヤ人が神様ヘの道は祭司や律法学者たちなどの指導の下で達成することが出来るということです。けれども、ユダヤ人はイエス様の教えを拒否しました。ルカにとって、ユダヤ人のイエス様に対する拒否の理由は神様がイエス様を拒否したことでなく、むしろユダヤ教の指導者たちはイエス様の教えを聞くことをしなかったこと、つまり彼らはイエス様を認められなかったというわけです。ですので、ユダヤ人の神様への道のやりかたは間違いました。もしそれが本当なら、どのように神様に従った方が良いでしょうか?一言で言えば「謙虚」ということです。謙虚さはイエス様の弟子のしるしの一つです。ですので、「上席についてはならない」(ルカ14:8)ということです。社会階級などを無私したら、謙虚さを表します。そのような態度はコリントの教会の中にありませんでした(Iコリ11:17-22)。私たちも謙虚さについて気を付けましょう。

聖霊降臨後第11主日(C年)  2019年8月25日
ルカによる福音書第13章22〜30節

今日の福音書朗読はマタイ福音書7:13-14に似ていますが、二つの違いがあります。一つ目の違いは狭い戸口に入るために努めることは必要です。二つ目の違いは戸口はいつも開いているわけではありません。その戸口は主人様によって閉されました。努めることについて、新共同訳聖書において、ギリシア語の動詞を「努める」と訳しましたが、恐らくその訳はイエス様の主張を弱めると思います。実際、狭い戸口に入るために、私たちは戦う、或いは競技する、または苦闘することは必要です。同じギリシア語の動詞はパウロをコリントの信徒への手紙の中に用いました。「競をする人は皆、すべてに節制します」(Iコリ9:25)。つまり、狭い戸口に入ることは簡単なことではないし、人が入りたいと思うことだけは不十分です。けれども、戦うことは必要なら、誰と戦うでしょうか?私たちは自分自身と戦わなければないというわけです。確かに、サタンとも戦うことは必要かもしれませんが、イエス様の焦点は私たちの態度、或いは私たちの道徳です。私たちは私たちの人生において様々な誘惑があります。けれども、その誘惑を克服することができないなら、イエス様の教えを従わなければ、私たちはその狭い戸口に入ることができません。けれども、私たちはすぐに私たちの人生を改善しなかったら、主人様は戸を閉めて、私たちは神の国に入ることが出来なくなります。

聖霊降臨後第9主日(C年)  2019年8月11日
ルカによる福音書第12章32〜40節

神の国においての宝は弟子の生活の中心になります。弟子は心配をしないことによって神様を信頼するよう教えた後に、イエス様は弟子たちがどのように神様の前に生活することを焦点します。しかし、その場合、どのように神を信頼することは表現できるでしょうか?弟子は終末論的の光の中に生活するということです。イエス様がいない時にその光の中に弟子の生活についてイエス様がたとえ話を用いて彼らに説明することだけでなく、イエス様が戻る、つまりイエス様の再臨の時にも弟子たちの生活、或いは生き方について説明するということです(ルカ12:35-40)。イエス様は忠実すること及びいつも準備することを強調します。主人はいつ帰ってくるのか、分かっていませんので、いつも準備をしなければなりません。なぜなら、主人は帰る時に僕たちの忠実性を評価するからです。ですので、私たちもイエス様の再臨を準備することを忘れてはいけません。

聖霊降臨後第8主日(C年)  2019年8月4日
ルカによる福音書第12章13〜21節

イエス様は富の危険性と富に対する間違った態度についてよく注意を与えます。その二つのテーマはイエス様の基本的なテーマで、彼の教えと宣教活動に反映されます。けれども、今日の福音書朗読の個所において、イエス様はその家庭争議に巻き込まれたくないということです。なぜでしょうか?恐らく、イエス様にとって、彼のミッションは個人的の争議に解決することでないからです。けれども、イエス様は彼に訴えた人を無私しなく、富の危険性に対して全般的な注意をさせます。特に、イエス様は金銭に対する深い欲に言及することだけでなく、あらゆる形態の『貪欲』に焦点を合わせます。なぜなら、貪欲は相違と不和に油を注ぐことができるからです。更に、貪欲は生命について歪曲をもたらすこともできます。私たちは生命を物体の中に見つけることができなく、私たちは生命を関係の中に見つけることができ、特に、神様との関係の中に見つけることができるというわけです。私たちはこの世の中にいますが、私たちの精神的生活を忘れてはいけません。なぜなら、私たちは洗礼によって神の子になり、神様の家族の一人になったからです。



聖霊降臨後第7主日(C年)  2019年7月28日
ルカによる福音書第11章1〜13節

今日の福音書朗読の個所の前半の中に、イエス様は弟子たちに「主の祈り」を教えられました。けれども、その主の祈りは私たちが礼拝の中にと唱える主の祈りと異なります。その理由は私たちが一般的に用いられる主の祈りはルカ福音書に由来したものではなく、マタイ福音書に由来した祈りです。実際、その二つの主の祈りは同じ祈りですが、聖書学的な理由で、主の祈りの最終的な形はルカ福音書とマタイ福音書の中に異なるようになりました。恐らく、皆さんはその異なりについて不安がありますが、主の祈りはイエス様によってアラム語で弟子たちに教えた祈りは確かなことです。一方では、マタイ福音書な中の主の祈りはアラム語の主の祈りに基づいて、ギリシア語に訳した後に、編集が行いました。他方では、ルカ福音書の中の主の祈りはギリシア語の主の祈りに基づいています。主の祈りは様々なユダヤ教の祈りの形式に似ているのは当然なことですが、そのユダヤ教の祈りより短いなので、覚えやすいです。また、1世紀のキリスト教の祈祷書のような文書であるDidache(ディダケー、十二使徒の教訓)によると、信徒は毎日に主の祈りを3回と唱えなければならないというわけです。ですので、初期キリスト教には、主の祈りはとても重要な祈りで、かなり初期の段階からキリスト教の共同体全体の祈りとなりました。

聖霊降臨後第6主日(C年)  2019年7月21日
ルカによる福音書第10章38〜42節

永遠にいます全能の神よ、あなたの霊によって教会全体は管理することと聖化し、私たちの祈りを聞きください。どうか、私たちは私たちたちの奉仕によってあなたを神聖と正義に仕えることが出来ますように、主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメ

今日の福音書朗読の個所は弟子の生活の中で、イエス様に対する配慮は重要なことを強調するということです。マルタはイエス様の訪問のために準備で忙しいですが、マリアは手伝いませんでした。恐らく、私たちはマリアに対して高い評価をしません。本当に、彼女は怠けものように見えます。確かに、マリアは手伝いをしていませんし、イエス様の足もとに座って、体を動きませんが、彼女をイエス様の教えを聞いています。そのことは今日の個所を理解するための鍵です。つまり、聞くことです(申8:3)。「聞く耳のある者は聞きなさい」(ルカ8:8)。私たちは奉仕するために忙しいだと思いますが、そのような状況においては神様のみ言葉より奉仕の方が重要になってしまう恐れがあります。私たちの中心は神様で、神様のみ言葉です。ですので、私たちは私たちの精神的生活を無私してはいけないというわけです。マリアのようにイエス様のみ言葉を注意深く聞きましょう。

聖霊降臨後第5主日(C年)  2019年7月14日
ルカによる福音書第10章25〜37節

今日の福音書朗読はとても有名なたとえ話で、おそらく新約聖書の中の一番有名なたとえ話だと思います。そのたとえ話は私たちに色々なことに教えますが、「サマリア人」というのはどのような人でしょうか?手短に、サマリア人はユダヤ人にとって嫌われた民ですので、イエス様は律法の専門家を衝撃しました。なぜなら、律法の専門家はサマリア人を隣人であることを一切考えていないからです。イエス様にとって私たちの義務、つまり宗教的や道徳的義務は限られていません。私たちは全ての人間に対する義務があるというわけです。キリスト教は奉仕や隣人への愛を教えて、その教えは「善いサマリア人」のたとえ話の中に実現しました。今年と来年、日本は幾つかの国際大会を主催しますので、善いサマリア人の行為を覚えておきましょう。


聖霊降臨後第4主日(C年)  2019年7月7日
ルカによる福音書第10章1〜12、16〜20節

今日の福音書朗読はイエス様の弟子たちの二つ目の使命についての話です。イエス様は12人を派遣するのではなく、72人を派遣しました。イエス様はすでにサマリア人の村に行きましたが、村人はイエス様を歓迎しませんでした。ですので、宣教活動は必ずしも好結果を得ることではありません。また、弟子になるために、家族の絆を切ったり、苦しみに遭ったりすることも必要ですので、弟子としての生活は簡単なことではありません。けれども、今日の福音書朗読の個所においては、72人が興奮して、宣教活動を行いました。彼らは宣教する町に向かう途中、どこかの家に滞在するなら、まず「この家に平和があるように」と祈らねばなりません。

聖霊降臨後第3主日(C年)  2019年6月30日
ルカによる福音書第9章51〜62節

イエス様に従いたい者に対してイエス様はその従い行為の結果について警告をします。イエス様はその者を招いたかどうか、は関連性がありませんが、この世はイエス様を受け入れないので、イエス様に従うなら、そのような人に従うことは必要だというわけです。更に、両親に対する義務、特に十戒の中に定まれた義務は神様に対する義務より重要ではありません。つまり、イエス様に従うなら、全ての絆を切らなければなりません。神の国は最も重要なことというわけです。今日の福音書朗読の個所においてはイエス様の教えがとても厳しいです。私たちはイエス様の条件を満たすでしょうか?確かに、教会の中で、奉仕や愛は重要ですが、その奉仕や愛の中で神様がいなかったら、その奉仕や愛は意味がありません。言い換えれば、私たちの人生の中で神様、或いはイエス様のみが重要です

復活後第7主日(C年)  2019年6月2日
ヨハネによる福音書第17章20〜26節

ヨハネ福音書17:1-26はイエス様の「別れのいのり」と呼ばれていますが、今日の福音書の朗読箇所はまだキリスト教徒になっていない人々向きです。その人々のイエス様との出会いは弟子たちを通して出会いだけです。ですので、私たちも弟子たちが持ったように、福音宣教責任があるということです。

復活後第6主日(C年)  2019年5月26日
ヨハネによる福音書第14章23〜29節

全能の神よ、あなたはわたしたちを闇の力から解放して、み子の国に導いてくださいました。どうか、み子の死によって私たちは命を得て、彼が私たちの内におられることによって彼が私たちを永遠の喜びにあげられることができますように

今日の福音書朗読では、愛と服従が中心的な教えですが、ヨハネ14:15-31の中でイエス様は愛と服従の重要性を4回繰り返しています。その箇所において、イエス様は愛について言及する時、私たちはどのように理解した方が良いでしょうか?恐らく、その愛は隣人への愛ではなく、神様への愛というわけです。更に、服従は愛の兆候ですので、イエス様は神様と私たちの関係を強調します。その関係は共同体としての関係ではなく、個人的な関係ということです。私たちは度々他の人々への奉仕、つまり隣人の愛だけに集中しています。そのような愛はとても重要ですが、結果として、神様への愛が薄くなってしまう可能性がありえるというわけです。イエス様の死によって、彼は御父に帰りますが、その後に彼と神様が私たちのところに来ることだけでなく、私たちと「一緒に住む」ということです。そして、私たちは神様の愛を経験することができます。ですので、イエス様が御父と私たちの間で和解を達成しました。


復活後第5主日(C年)  2019年5月19日
ヨハネによる福音書第13章31〜35節

全能の神よ、あなたの独り子を通して死を克服して、私たちのために永遠の命の門を開きました。どうか、あなたの御恵みによって私たちの心に良い希望を入れて、あなたの助けによって私たちはその良い希望を実現することができますように。

ユダはイエス様と弟子たちから出て行って、イエス様は残った11人の弟子たちに彼のこの世を去った後の生活について教え始めます。最初に、イエス様は彼の「栄光を受ける」ことについて弟子たちに説明していましたが、彼らはそのことを理解できませんでした。イエス様の「栄光を受ける」ことは彼の十字架に張り付けて死ぬことですので、ユダが出ていたことは必要です。なぜなら、ユダが出て、彼はイエス様を裏切ることによって、イエス様の死、つまりイエス様の「栄光を受ける」ことを起こし始まるというわけです。ユダの行為はひどいことですが、その行為は神様が立てた計画に従うわけです。ユダの反逆行為はイエス様の生涯の最後の部分の始まりとなります。ですので、弟子たちはイエス様が昇天した後の時期を準備しなければなりません。その時期は教会の時代とも呼ばれていて、私たちはまだその同じ時代にいます。その時期のためにイエス様は新しい掟を弟子たちに与えました。その掟の中心的教えは「愛」です。

復活後第4主日(C年)  2019年5月12日
ヨハネによる福音書第10章22〜30節

今日の福音書朗読は「良い羊飼い」の談話の中の一つの部分ですが、ヨハネ福音書第9章においての「うまれつきの盲人をいやす」記述と関連性があります。なぜなら、ユダヤたちはイエス様が行ったみ業を信じていなかったので、彼らがイエス様はメシアであることを分かっていなかったからです。そのみ業の一つはイエス様が行った奇跡です。つまり、ユダヤ人たちはイエス様の羊ではありません。もし、ユダヤ人たちがイエス様が行ったみ業を信じたなら、彼らはイエス様の羊となり、イエス様はメシアであることが分かったでしょう。
 イエス様とユダヤ人たちとの論争は神殿奉献記念祭が開催された時に行ったことが重要です。神殿奉献記念祭はアンティオコス・エピファネス支配者によってエルサレム神殿の神聖さを汚された後に再聖別を記念する祭りです(Iマカ4:36-59)。ですので、ユダヤ人にとって、その祭りは国家主義的な祭りとなりました。けれでも、その祭りにおいて、ユダヤ人たちはイエス様を認められなかったというわけです。


憐れみ深い父よ、あなたの子イエス・キリストは良い羊飼いとなり、彼の私たちへの愛のために死なれ、復活されました。どうか、私たちはいつも彼の保護の下にあることができますように


復活後第3主日(C年)  2019年5月5日
ヨハネによる福音書第21章1〜14節

ヨハネ福音書の中には復活したイエス様が3回弟子たちの前に現れます。今日の福音書の朗読はイエス様の3回目の現れの記述です。弟子たちはエルサレムからガリラヤに帰って、前職、つまり漁師の仕事をしている時に、イエス様は現れました。しかし、彼らはイエス様であることが分からなかったというわけです。それは少しおかしい分かりづらいことなのではないか、と考える方がいらっしゃると思います。なぜなら、弟子たちはイエス様と一緒に2~3年間を過ごし、イエス様は既に2回彼らの前に現れたりしていたからです。ですので、弟子たちがイエス様に気付かなかったことをどのように理解した方が良いでしょうか?確かに、弟子たちは船に乗って漁をしていたのに対してイエス様は岸に立っていたので、遠くて彼らはイエス様が見えなかったかもしれませんが、恐らくこのシーンを理解するために、異なる角度から考えた方が良いと私は思います。弟子たちがイエス様に気付かなかったのは彼らがイエス様の復活後の姿、つまりイエス様の存在に対して理解していなかったからです。その理由から、弟子たちはイエス様が現れたことに気付けませんでした。彼らは地上のイエス様しか知りませんでしたが、復活後イエス様は変わっていて、イースターの栄光に現れます。従って、イエス様の現れは啓示的な現れです。イエス様の3回目の現れはヨハネ福音書の中の彼の最後の現れで、イエス様が昇天してから約束された弁護者、或いは真理の霊は御父から降り、弟子たちと共におられます。

全能の父よ、あなたの大きな恵みで復活したイエスの現れによって弟子たちを喜ばせました。どうかイエスが私たちの間におられる知識を与えて、彼の復活した命によって私たちが強くなるよう維持することができますように


復活後第2主日(C年)  2019年4月28日
ヨハネによる福音書第20章19〜31節

今日の福音書の朗読の中には復活されたイエス様は2回弟子たちの前に現れました。1回目は週の初めの日の夕方、つまりイエス様が復活された日の夕方に、彼は弟子たちが集まった家の中に現れました。その家の戸に鍵をかけていたので、イエス様の登場は劇的なものでした。そして、イエス様は集まった弟子たちに聖霊を与えました。どのようにそのことを理解した方が良いでしょうか?聖霊を与えること、或いは聖霊が降ることはペンテコステの時に起こったので、今日の福音書の朗読はペンテコステに似ていますが、ペンテコステではないと理解した方が良いのでしょうか?はい、そうだと思います。恐らく、皆さんがヨハネ20:22と似ている箇所を聞いたことがあると思います。その箇所は創世記の中で神様がアダムに命を与える箇所です(創2:7)。ですので、イエス様は息を吹きかけることによって集まった弟子たちに新しい命を与えたというわけです。その新しい命はイエス様の死・復活によって得たものです。神様がイスラエルの民と結んだ契約はイエス様の犠牲的な死によって変わり、私たちは選ばれた民となり、新しい人間となりました。主の復活ハレルヤ。


復活日(C年)  2019年4月21日
ルカによる福音書第24章1〜10節

イエス様がどんな方かについて、皆さんはよくご存知だと思います。しかしながら、イエス様が生きておられる間、ユダヤ人たちはイエス様はどんな方か、つまりイエス様のアイデンティティについてあまり理解をしなかったということです(ルカ9:18-20)。確かに、ペトロがイエス様は「神からのメシアです」という告白しましたが、恐らく弟子たちはイエス様が復活することを期待していなかったでしょう。ですので、今日の福音書の朗読が述べているように、イエス様のご遺体が墓の中にかったことについて、弟子たちは夫人たちの証言を信じていませんでした。しかし、イエス様は死から蘇い、復活しました。その点はキリスト教の原点になります。言い換えれば、イエス様は自分の死と復活を予告して(ルカ9:22)、イエス様が復活されたことは彼の教えとみ業を確実なものになるからです。「ここにはおられない。復活なさった」と天使たちが墓に行った婦人たちに言われました。イエス様の十字架上の死は苦しく、悲しいことですが、その死によって私たちは罪から解放されました。更に、イエス様の復活によって私たちは新しい命を得ることが出来ます。主の復活、ハレルヤ


復活前主日(C年)  2019年4月14日
ルカによる福音書第23章1〜49節

復活前主日、つまりシュロ日曜日において、私たちはイエス様のエルサレムに入ることを記念します。イエス様は王様としてエルサレムに入りますので、その入りは喜ばしいことで、弟子たちの群れは神を賛美しました(ルカ19:28-40)。しかしながら、今日の福音書朗読が説明したように、イエス様のエルサレムに入ることの結果は彼の十字架上の死が行われたということです。そのような死刑はとても苦しいものでしたが、イエス様はローマ帝国、またユダヤ教の指導者たちに対して復讐心を一切持っていませんでした。「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」(ルカ23:46)はイエス様の最後の言葉でした。ルカ福音書においては、イエス様の死は殉教者としての死として描写しました。または、イエス様はいつも他の人々の要求に関心をしめし、特に貧しい人々や女性や社会から追いやられた他の人々に対してです。彼の受難の時に、そのような関心や感情は変わりませんでした。「エルサレムの娘たち」(ルカ23:28)や「父よ、彼らをお赦しください」(ルカ23:34)とイエス様は言われました。私たちは私たちにとってどのような困難が起こっても、自己中心的な考え方を捨てて、その代わりにイエス様が示したような他の人々、つまり私たちの隣人に対する愛をいつも持たなければなりません。


大斎節第5主日(C年)  2019年4月7日
ルカによる福音書第20章9〜19節

イエス様は民衆に彼らの指導者についてのたとえ話を語りました。指導者たちがイエス様に敵意を向けることは彼らの歴史的な神様に対して責任を負わないということを描写しています。最初に主人は彼の僕をぶどう園に送りました。たとえ話の中では、主人は神様で、僕は預言者であると理解することができます。しかし、農夫たちは主人の僕たちを追い出しました。つまり、イスラエルの指導者たちは預言者たちに注意をしなかったということです。ですので、主人は彼の息子を農園に送りました。この息子はイエス様です。自分の息子を送ることによって、神様はイスラエルの指導者たちに神様に帰る最後の機会をあげました。けれども、農夫たちにとって主人がぶどう園に来てないので、彼は恐がることはないと思い、彼らは主人の息子を殺してしまいました。しかし、イエス様の死によって、彼らは破壊することができない石になりました(詩118:22)。ですので、イスラエルの指導者たちはイエス様を殺すことによって彼らは自滅的な行為を招くことになりました。
 イスラエルの指導者たちはこのたとえ話においてはあまりよいイメージがありません。けれども、彼らは神様はいないとまでは言いませんが、神様は彼らの生活の中で、またはこの世では役割を果たせないと思いました。そのような考え方は現在でもあり得ると思います。なぜ、私たちの世には、悪いことが起こるのでしょうか?なぜ、自然災害が起こるのでしょうか?などです。それらのことが起こるので、神様は私たちを愛さないのでしょうか?或いは、神様は私たちに対して怒っているのでしょうか?そうではありません。神様は私たちを愛して、自分の息子の犠牲的な死を通して人間を神様と和解させました。この世では、悪いことが起こりますが、それらのことで私たちに対する神様の愛が変わることはありません。


大斎節第3主日(C年)  2019年3月24日
ルカによる福音書第13章1〜9節

今日の福音の出発点はエルサレムで起こったショッキングな事件と事故である。それはピラトの命令によって虐殺された何人かのガリラヤ人の事件とエルサレムで起こった事故である。どちらも非常に悲しい出来事で、当時のイスラエルの多くの人々に大きなショックを与えたと思われる。最初の事件は、ある人々によってイエスに告げられただけではなく、
彼らはこの事件についてイエスに宗教的な解釈を求めた。なぜなら、イエスの時代、一般のユダヤ人は、不名誉な死に方あるいは変死した人の死はその人たちの乱れた生活の結果、神の罰にあたったのだと信じていたからである。イエスはこの考え方を退け、むしろこの事件に関わっていない人々にも自己反省のきっかけとなるよう、促す。イエスは自分の考え方を強調するために、もう一つの恐ろしい事故を取り上げ、同じように解釈する。このような事件の犠牲になった人たちは、決して他の人々よりも罪深い者ではない。あなた方も回心しなければ皆同じように滅びる。毎日の生活で起こっている出来事や事件は時には遠く離れて、時には身近に、何か神からの呼びかけであり、わたしたちは自分たちの生き方、考え方と価値観を見直すようにと呼びかけられている。
福音書の後半は、”実らないいちじくの木“のたとえ話である。3年間も実を結ばない木は、常識では「もうだめになったのだろう」と言える。貴重なぶどう畑の中でたった一本のいちじくの木はどういう意味か。聖書では、いちじくは、ぶどうの木と共に
よく神に愛されたイスラエルにたとえられている。しかし実を結ばないというイメージも多くある。その上、いちじくの木は土地をよくふさぐので、周りのぶどうの木にとって迷惑になるし、”邪魔な存在になる。“しかしこの木の存在の意味をまだ信じている人がいる。それは園丁である。憐れみの心で、彼は特別にその木の面倒を見ると言う。「今年もこのままにしておいてください。この周りを掘って、肥やしをやってみます。」“回心せよ”という厳しい呼びかけの前に園丁であるキリストの赦しと憐れみがいつもあるから、人は回心の招きに応える心になれる。

大斎節第2主日(C年)  2019年3月17日
ルカによる福音書第13章31〜35節

「天の国は近づいた。回心して福音を信じなさい。」福音書に現われるイエスの最初のメッセージです。「回心によって、一人でも多くの人を天の国に送り込もう」、そのような望みと共に、イエスの公生活は始まりました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」有名な言葉です。正しい人々が「天の国」に入ることには誰も異議を唱えません。しかしイエスは、罪人を招くために来たと言います。この言葉に心を動かされない人がいるでしょうか?
今日の福音は、「神の国」をテーマとした「狭い戸口」と題された箇所です。イエスによれば、「一人でも多くの人を天の国に入れてしまおう」とするイエスの思いとは裏腹に、神の国に「入ろうとしても入れない人が多い」とか、入りたくても「家の主人が戸を閉めてしまう」というように、入るのがとても難しい所として説明されています。
 イエスと「一緒に食べたり飲んだり」、「教えを受けた」ことは中に入るための何の保証にもなりません。「神の国」は、洗礼を受ければ自動的に入れるというような所、ミサに与ればいいというような場所ではなく、逆に「お前たちがどこの者か知らない」と言われてしまいます。
 別な個所で語られた「だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」(マタイ7.8)という言葉とは異なり、今日の箇所では、閉まった戸をいくら叩いても、開けてはもらえません。それどころか、うまく中に入れたにせよ、外に投げ出されてしまう者さえいます。私たちの救いとは、全面的に神に委ねられているのであり、決定権はわれわれの側にはありません。
 非常に厳しい響きをもつ箇所ではあります。しかし、イエスは「入るように努めなさい」と私たちを招いています。誰も神の国に入れないのではなく、東や西から、南や北から集まって来る多くの人々、イエスの招きに忠実に応える無数の人々が、神の国の宴会の席に着くことを許されるのも事実です。たとえ狭い戸口ではあっても、今それは、私たちのために開かれていると言えます。

大斎節第1主日(C年)  2019年3月10日
ルカによる福音書第4章1〜13節

今日の福音の始まりに、ルカはこう言っています。
「イエスは聖霊に満ちてヨルダン川からお帰りになった。」ヨルダン川は、イエスが洗礼を受けた場所。聖霊が鳩のような姿でご自分の上に降るのをご覧になり「あなたは私の愛する子」という御父の声をしかと胸に抱いたその場所でした。その後の出来事が、今日の福音です。
イエスが、悪霊から誘惑を受けた話の中で、とても心に響くのは“イエスは聖霊に満ちて”いる、ということです。
洗礼の時に受けた聖霊と、心に“我が愛する子”と呼びかける御父との深いつながり、深い交わりが
荒れ野での悪霊からの誘惑のさなかにおいてでさえ
決して消えることがなく、イエスが生きておられることに心打たれます。
悪魔の誘惑の前では、まるで、首にひもをつけられたか弱い羊のように悪魔が示すところへひょいひょいと連れられていくそんなイエスの姿がありますが
悪魔の言葉に対し答える時には真に強くゆるがない確かさをもって、立っておられるイエスの姿があります。三位一体・・・この愛の交わりの中に自分の礎を置き、イエスは、悪魔に対面し、立つ・・・
そのような姿が、ひしひしと伝わってきます。
そして今日の福音の終わり13節の後、14節ではこう述べられています。「イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。」さあ、イエスは悪魔からの誘惑の時が終わると諸会堂で宣教を始められますが、イエスは一人でなさるのではありません。
御父と聖霊と共に、イエスは歩み続けられます。
今日の福音を通して私たちキリスト者の生活の礎は
イエスが生きられたと同じように御父・御子・聖霊の交わりの上にあることを深く思いだし、生きることが出来ますようにと、祈り願いたいです。

大斎節前主日(C年)  2019年3月3日
ルカによる福音書第9章28〜36節

ペトロ、ヤコブとヨハネを連れて、山に登ったイエス様。3人の弟子たちの前で、変えられていきます。顔が太陽のように輝き、服が光のように白くなる。そこにモーセとエリヤが現れて、イエスと語り合っていたと言うのです。いったいどんな話をしていたのでしょう。エルサレムで遂げようとする最期について語りあっていたと記されています(ルカ9:31)。
この直前、はっきりとイエス様は自分の死と復活を予告します。ところがマルコ福音(9:32)ではこれに慌てたペトロがイエス様に「そんなことを言ってはいけない」といさめ、ペトロは「お前の思いは神のものでなく人間のものだ」とイエス様に厳しく叱られたことが書かれています。さらに「私の後に従いたいものは自分の十字架を担って従え」と命令しています。イエス様にしてみれば、自分はこれから十字架に向かうと分かっていれば、それをいさめるペトロを、本当に何も分かっていないものと腹を立てたくもなったのでしょう。
 モーセもエリヤも、もう神に従うのはつらい、こんな思いをするくらいなら、死んだほうがましと思うほど、人間としての自らの弱さを抱えた人でした。そしてまた群集のうつろいやすさ、すぐに心変わりをしてしまう人間の心の弱さを、よく体験した人でもありました。イエスも人間となった以上、人間としての弱さと無縁ではありませんでした。そのイエスが、同じ体験を人間としていやと言うほど受けたモーセやエリヤから励まされたとしても、けっしておかしなことではありません。モーセとエリヤとイエスの変容。そのためには、血で自らを洗う必要がありました。そしてモーセもエリヤもイエスも、恐るべき闇と裏切りと絶望と血の中を通って、やっとこの栄光に辿り着いたのでした。
私たちもまだペトロのように、ただの栄光、輝きに惑わされがちなものです。神に最もよく従ったこれらの白い衣を着た者たちほどの苦難は、まだ体験していないのだと思います。だからこそ、楽な道ばかりでない、回心の歩みをしていきましょう。

顕現第7主日(C年)  2019年2月24日
ルカによる福音書第6章27〜38節

ルカの福音書の6・20-49はイエスの“山上の説教”の言葉を取り上げる。ルカにおけるこの説教はむしろ、“平野の説教”と呼んだほうが正しいと思う。ルカではマタイと違い、イエスは祈るために山に登り、そこで夜を明かし、12使徒を選び出した。その後、彼らと共に山から降りて、広々とした平らなところで自分の弟子たちと方々から集まってきた人々に向かって“福音”を宣べ伝え、多くの人を病と悪の力から解放した。こうしてルカ福音書の目ではイエスは“下から”人々と語り合い、ユダヤ人の国家を超えて、より多くの人々に言葉としるしをもって普遍的なメッセージを伝える。“幸い”と“不幸”の宣言後、“この言葉を聞いているあなたたちに”イエスは新しい人間関係を紹介し、その生き方へ招く。まず、ルカ6・27-35 “敵を愛する”という生き方へこの愛はアガペーと呼ばれ、自らの道徳的努力によって得られる愛というより、神に無条件に愛されている体験から生まれてくる愛である。“愛する”というのは好き嫌いといった感情、気持ちだけの問題ではない。自分に対して敵意を示す相手に対してアガペーの行為で具体的に答えることである。すなわち、親切にする、祝福する、祈る、ただで与えるなどである。 敵をどう愛すべきかを神の無条件のアガペーから学び、そのようにアガペーを生きるイエスの弟子は、アガペーである神の子となり、すべての人々に神の大きな愛を“うつす”ことになる。次にルカ6・36-42 共同体内の新しい人間関係へ神は父、相手は兄弟、そして先生と弟子といったイメージは、いずれも初代教会からのものである。“父が憐れみ深いようにあなた方も憐れみ深い者となりなさい。”(ルカ6・36)ルカは赦すことを強調する。赦すことは神の業である。それは相手を裁かないこと、とがめないこと、“ただで”与えることである。
“秤”のイメージは神の無限の赦しを表すことばである。赦せる力はどこから来るのか?神と深くかかわって生きる人は自分に対する父である神の無限の赦しと憐れみを体験し、赦しを必要としている人に対して自分と同様に赦される喜びを味わってほしくなるのではないだろうか?

顕現第6主日(C年)  2019年2月17日
ルカによる福音書第6章17〜26節

幸いである。イエスの呼びかけがあらゆる民族に響きます。さまざまな場所から人々がイエスのもとへと集まりました。イエスは、幸いと不幸について語ります。神の前で自らのとぼしさを実感して、打ちひしがれる謙虚な人が幸いの道へ進み、逆に人間だけで物事を動かそうとする傲慢な人は不幸な状態に落ち込む、という現実。貧しい者、飢えている者、泣いている人、人々から憎まれる人。これらの人びとは自分が孤立して絶望的な状況に落ち込み、打ちのめされています。彼らは神に対して叫びをあげます。ところが、追い詰められていない状況の人びとは自分の力に過信しすぎるあまり、神との関わりを忘れています。イエスが活動していたイスラエルの民の生活空間において、「幸い」には「祝福」という意味があります。孤独のなかで、さまざまな困難に突き当たっている人こそが祝福されている、というイエスの宣言は力強い励ましとなります。
主に信頼する者は祝福され、一方、主から離れて人間的な生活にのめりこんで人間的な視点だけでものを見ようとする人は呪われることになる、とエレミヤは指摘します。祝福か呪いか。つまり、神とともに生きるのか、人間だけで物事を割り切るのか。人生の歩みは、絶えざる二者択一の積み重ねによって切り開かれてゆきます。
キリストとともに生きている者のいのちは決してないがしろにされないというパウロの確信が語られています。「しかし、実際」という言葉がパウロの迫力に満ちた信念をじゅうぶんに示してくれます。主イエスが復活して生きているという確信を、パウロは何とかして周囲の人びとにも伝えようとします。決して滅びることなく、神とともに生きているキリストの姿に信頼を寄せる、まっすぐな姿勢を保つことがキリスト者の歩みにほかならないのです。
今日の三つの朗読箇所は、人間的な視点や都合を、はるかに乗り越えて前進してゆく信仰者の姿勢を再確認させてくれます。キリストが神との深い一致を生き抜き、その歩みを弟子たちにも見せてくれたように、朗読に耳を傾けることによって、私たちも同じ歩みのまっただなかに招き入れられているのです。

子を遣わし、救いに飢え乾く世界を祝福で満たしてくださいました。主の 降誕を迎える私たちがその生涯にも結ばれますように 。

顕現第5主日(C年)  2019年2月10日
ルカによる福音書第5章1〜11節

イエスさまは、シモンに網を降ろし、漁をするようにと願われます。シモンは応えます。「私たちは夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。」このように応えるシモンの心には、大きな疲れと深い悲しみがいっぱいだったことでしょう。そのシモンの心に、イエスさまは大きな贈り物をされます。イエスさまはシモンが、その仲間の漁師たちが打ちひしがれているのをご存知で、彼らの心をいたわり慰めようとされるのです。そして、もう一度自分たちでやってみなさいと「網を降ろし、漁をしなさい。」と、励まされるのです。神さまのみ言葉に触れた時こころが満ち溢れる経験をした人が、世界中には沢山います。ゲネサレト湖畔でイエスさまの話に耳を傾けていた群衆も、どれほど心が満たされたことでしょう。しかしこう
った体験をしているのは人間だけではなかったようです。シモンの船の下で、イエスさまの声に耳を傾けていた魚たちも、神さまのみ言葉に満たされていました。昨夜はいなかった魚たちも、イエスさまの声がするといっぱい集まってきたのです。イエスさまに宿っている神さまは天地を創られた“主”であり、魚をはじめすべての生き物は、この主である神さまによしとされ、愛をこめて創造されたからです。イエスさまの言葉に従って、漁をした漁師たちはどうだったでしょう・・・。おびただしい魚がかかり・・・もう1そうの舟にいる仲間に合図して・・・2そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになったのです。あふれんばかりの魚がとれました!神さまの愛、神さまのみ業はいつも、あふれるほどいっぱいなのです
おどろいている漁師たちを目の前にして、イエスさまはニコニコ微笑んでおられたことでしょう。
イエスさまに出逢い、イエスさまの内に宿っている神さまのみ言葉に触れたシモンやその仲間たちは、その日から「すべてを捨てて」イエスに従って生きます。すべてを捨てて・・・それは、生活の全てに、愛をこめて生き始めた人たちの姿です。イエスさまの内に神さまのみ言葉がやどっているように、自分の内に神さまのみ言葉・愛を宿して生きる人たちの姿です。そしてそのように歩む一人一人に、イエスさまは呼びかけられます。「恐れるな」と。 

顕現第3主日(C年)  2019年1月27日
ルカによる福音書第4章14〜21節

遠方に住む人に送ったバラの花束は、相手が受け取った時に、送り主の心を伝える喜びの便りとなります。接客の仕事をしていた知人は、その日にどんなに嫌なことがあっても、ひとりのお客様からの「ありがとう」の一言があれば、残りの時間を元気に頑張れたと言います。

メッセージが相手に届き、相手がそのメッセージを受け止めた時、メッセージの持つ力が発揮されます。「貧しい人」つまり「苦しむ人」に対する神の愛のメッセージは、苦しむ人に届けられ、その人がしっかり受け止めた時に、その人を満たし、癒し、立ち上がらせます。伝えようとなさる神の側の愛が、とんでもなく本気だからです。

神の本気の愛のメッセージは、単なる言葉に留まることなく、出来事となってこの世を動かします。イエスは、その神の本気の愛の塊であり、神の本気の愛のメッセージそのものでした。イエスが人に触れると、神様の本気の愛がその人に伝わり、熱は去り、見えない目が開き、重い皮膚病は癒されました。イエスがわずかなパンと魚を祝福すると、何千人もの人が満腹してなお余ることになりました。

今日、イエスを通し、福音記者の記述を通し、司祭の口を通して、神の本気の愛のメッセージを聞く私たちが、その本気の愛のメッセージをしっかり受け止める時、私たちのくじけそうな心は励まされ、萎えた足は立ち、到底無理だと思っていた日々の課題にまた向き合う力が与えられます。

今日耳にした神の本気の愛のメッセージを私たちがしっかり受け取ってそこから力を頂き、今日からの一週間に出会う人々と頂いた神の豊かな恵みを分かち合うことが出来るよう、心から祈りたいと思います。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」というイエスの言葉が、私たちを通して、今日も実現しますように。

顕現第2主日(C年)  2019年1月20日
ヨハネによる福音書第2章1〜11節

いわゆる宴会の席でぶどう酒が足りなくなるということは致命的なことでした。大地の実りとしてのぶどうからできているぶどう酒は、人びとと大自然とを結びつけるいのちの活力として新婚夫婦の門出を祝福する宴席の象徴的な飲み物だったからです。ぶどう酒がないということは、今後の夫婦生活にあらゆる意味で祝福が与えられていないことと等しかったのです。しかし、イエスはひそかに水をぶどう酒に変えました。宴会の主催者に気づかれないように。相手の窮状を裏から支えるイエスの思いやりが垣間見えます。しかも、イエスの心を動かして貴重なわざを実現させる際の取り次ぎは母マリアによってなされました。母マリアとイエスとの連携によって、あらゆる人びとが満足し、本当によろこびを感じて宴会を楽しむことが
きました。イエスの活躍と取り次ぎ者のマリアの配慮によって生活物資の不自由さがいつのまにか解決されて生きるよろこびの豊かさが花開きました。まさに、今日の福音書の内容をくりかえし読み返すにつけて、結婚の宴にふさわしい愛情のわざが会場全体をていねいに包み込むかのような印象をいだかずにはいられません。
母マリアは絶えず気配りを怠ることなく目を光らせて宴会場を見渡し、イエスはおもいやりをこめて指示を出し、台所担当者たちは水がめに水を満たし、給仕たちは重い水がめを運び出しました。それぞれの役割は異なってはいても、連携して協力し合い、祝宴の主役たちのことを大切に助けようとする志はひとつです。神は、些細な日常の出来事の連続のなかで、あなたが困難な場面に出くわすたびごとに、しっかりと支えてくださいます。それは、今回のカナでの婚宴のエピソードからもうかがえることです。私たちひとりひとりにも神からかけがえのない役割が与えられています。神から望まれて活かされているあなたが、母マリアのように、イエスのように、台所担当者のように、給仕係のように、その場の必要性に応じて自分の
たすべき役割を見究めて動けば、きっと皆がしあわせな気持ちになるひとときが必ず実現するのではないでしょうか。さあ、思いやり深くあたりを見回してみましょう。

顕現日(C年)  2019年1月6日
マタイによる福音書第2章1〜12節

最近、星を見ましたか?
 子どもたちは、小学校に入る前から習い事、小学校に入っても塾、大人は時間に追われ、仕事に追われてなかなか夜空の星を見る機会が少なくなったのではないでしょうか。星は、私たちが見ていても見ていなくてもいつも光っています。
きょうは、【顕現日】です。東方の博士たちが「お生まれになったユダヤ人の王」を探してエルサレムのヘロデ王の所に尋ねてきます。彼らは、王に「わたしたちはその方の星が昇るのを見たので、拝みにきました。」と言います。
 王や王の周りにいた人々は、うろたえます。彼らは、自分たちの今の安泰な権威の座が危うくなることを恐れたのではないでしょうか。彼らは、「救い主」を待ち望んでいても、今の生活を壊されたくなかったのです。あるいは、富と権力が渦巻いている当時の社会にどっぷりと浸かっていた彼らにとって、博士たちがいう【その方の星】など、気にもかけていなかったのかもしれません。
 王は、祭司長や民の律法学者たちをすべて集めてメシアはどこにいるのかと問いただします。彼らは王に「ユダヤのベツレヘムです。」と答えます。ユダヤ人たちは、「メシア」がどこに生まれるかを知っていました。知っていたのにも関わらず【その方の星】に気がつくことができませんでした。むしろ、ユダヤ人ではない【異邦人】の東方の博士たちの方が先に気がついたのです。
 博士たちは、王から「ベツレヘム」と聞いて出かけて、彼らがかつて見たあの星が先に立って進み、幼子のいる場所まで来て止まるのを見て非常に喜びます。彼らは、そこに「救い主」がいることが分かっていたからです。彼らは、マリアに抱かれた【幼子】を見てどのように思ったのでしょう。
 私たちにとって【その方の星】とは、いったい何なのでしょうか。私たちは、「救い主」がおられる【その方の星】が身近にあるにも関わらず気づかないだけなのかもしれません。
 東方の博士たちが【その方の星】を探し求めてエルサレムまで来たように、私たちも【その方の星】を見出すことができる1年となればいいですね。

降誕後第1主日(C年)  2018年12月30日
ヨハネによる福音書第1章1〜18節

ナザレのイエスのルーツは自分の家族にある。
ガリラヤのナザレという町で敬虔なユダヤ教徒の家庭に、大工の子として成長し、イエス自身も熱心なユダヤ教徒として育った。イエスが十二歳になった時に、家族と共に過越祭に参加することになった。ところが、そのとき、両親の知らないうちに少年イエスは自分の意志でエルサレムの神殿に残った。神殿の境内では律法学者たちが問答形式で教えていた。その中でイエスは”熱心な生徒”として関わっていた。まわりの人々は少年イエスの優れた知恵に驚いていた。三日の後に神殿の境内でイエスを見つけた母マリアと息子イエスとの対話に注目しよう。「お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」母マリアとヨセフがイエスの取った行動に驚き、理解できなかったことを示していることばである。イエスの答えは両親への問いである。「どうしてわたしを捜したのですか。」また、「わたしが自分の”父のもののうちに”いなければならないことを知らなかったのですか。」少年イエスが「アッバ・父」との”親子関係”に生きることは自分にとって必然的なことであるという自覚を示し始める場面である。このことばはルカ福音書において、イエスが初めて口にすることばである。イエスはラビたちや境内の人々と同じ聖典を聞きながらも、そこから異なったメッセージや意義を聞き分けていた、皆驚いていた。母マリアもヨセフもこのイエスのことばを理解できなかった。イエスは両親と一緒にナザレへ帰る。そして、公的活動を始めるまで20年間も、彼らと共に暮らし、特に目立つこともなく、青年として、神と人々の前で知恵に満ちて成長する。ヨセフは、イエスの家族の中でも、特に目立つことなく、"大工ヨセフ"と呼ばれていた。そのヨセフのことばは、一言も福音書に記されていない。ただマタイが「夫ヨセフは正しい人だったので・・・」と記され、その心だけをほめている。そして「母マリアはこれらのことをすべて心に納めていた」。このことばは私たちを、降誕節の黙想へ招いている。イエスの母マリアと夫ヨセフは"弟子"のモデルである。

降臨節第4主日(C年)  2018年12月23日
ルカによる福音書第1章39〜45節

マリアのエリサベト訪問はマリアの召命物語(ルカ1.26-38 ) の続きであり、クリスマスの 喜びのニュースに 先立っている。神の恵みはマリアを動かす。マリアはこの招きに答える。親類のエリサベトに神がなさったしるしを見るために。みことばを聞いた弟子の “宣教のモデル”としてその喜びのニュースを他者に運ぶ。マリアがザカリアの家に入り、シャローム(=平和)の挨拶を交わす。それは日常生活を円滑 にする儀礼にとどまらず、相手への祝福となる。二人の女性、つまり二人の母親とその胎児 たちの出会いを記し、しかも 、お互いの最も深い感情を表わすこのような場面は、聖書の 他の物語には、ほとんど見られない。不妊と呼ばれたエリサベトの悲しみや屈辱の体験は 救いの喜びに変えられる。エリサベトはマリアとの出会いによって聖霊で満たされる。エリサベトは聖霊に導かれ、マリアを祝福で迎え、喜びの叫びではじめる。マリアを家で 迎えたエリサベトが口を切り、マリアとその胎児が神に祝福されていることを述べる。 「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。」相手のいちばんいいところを祝福するエリサベト。胎児たちもお互いの存在を喜びのうちに歓迎し合う。祝福の理由は主が約束してくださったことは必ず実現すると信じたことにある。マリアはひとことも話さないで、まずエリサベトのことばを心に納める”弟子のモデル”で ある。ルカは、私たちに、奉仕をする前に聞くことの大切さをいつも強調する。その後で (ルカ 1.46-56) マリアは神を賛美し、自分における神の偉大な業を感謝する。間もなく クリスマスを迎える私たちは、マリアの心に声を合わせて祈りたい。「わたし の魂は主をあがめわたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低いこの主のはしためにも目を留めてくださったからです。」「いつくしみ深く、小さなものに目をとめて下さる神よ、あなたはひとり子を遣わし、救いに飢え乾く世界を祝福で満たしてくださいました。主の 降誕を迎える私たちがその生涯にも結ばれますように 。

降臨節第3主日(C年)  2018年12月16日
ルカによる福音書第3章7〜18節

すでに、救いが実現している。――ゼファニアの預言のなかで強調されていることです。よろこびのメッセージが述べられています。このようなメッセージは、実に、イスラエル民族の待ち望んでいたことを神がかなえてくださるという真実を思い出させます。主において、よろこぶ。――パウロの書簡のなかでは、人間の自分勝手な快楽ではなく、むしろ神の恵みにつつまれて安らかに憩う状態での「よろこび」が強調されています。主イエス・キリストが私たちに示してくださった神のいつくしみにつつまれてよろこぶことが、人間らしいほんとうのよろこびなのかもしれません。分をわきまえる。――洗礼者ヨハネ自身の生き方は、まさに「分をわきまえる」ことでした。洗礼者ヨハネは、それぞれの立場の人びとから、さまざまな質問を浴びせられています。それらの問いかけに対して、洗礼者ヨハネは無理のない分かち合いを提唱しています。決して大それたことではなく、むしろ毎日の生活のなかで身近に行うことのできるふるまいを大切にすることが呼びかけられています。民衆は、洗礼者ヨハネの生き方を眺めて、「救い主が来た」という感触を得て、よろこびつつ騒ぎ立てました。しかし、洗礼者ヨハネは、「自分の役割をわきまえていた」のです。自分を誇張して、威張り散らしがちな今の世の中の人びととはまったく異なった謙虚な生き方が洗礼者ヨハネの控えめな魅力です。今日の三つの朗読は、実に、イエス・キリストの特徴を見事に言い表しています。今回は、イエス御自身は直接に登場してはいませんが、その特徴がうきぼりにされていることは興味深いものです。イエスの特徴とは、今日の三つの朗読と連動しています。――①確実に私たちを救ってくださる、②まことのよろこびに迎え入れてくださる、③謙虚に仕える者として私たちを支え励ましてくださる。それにしても、私たち自身の生き方とイエスの生き方とを比べてみると、まったく逆の現実が見えてきます。私たちの場合は、①相手を確実には救えない、②にせのよろこびのなかで自分勝手に生きている、③傲慢にも相手を従えて利用しようと、もくろんでいる。反省させられます。同時に、主イエスに助けを求めて回心していきたいとも思います。

降臨節第2主日(C年)  2018年12月9日
ルカによる福音書第3章1〜6節

降臨節の第二主日。今日のルカ福音書で、「神の言葉が、荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った」と、語られています。
ルカは、事が起きたのがいつの時代なのか明確に示すために皇帝や総督の名前を、話の始めに出していますが、神の言葉が降ったのは皇帝・総督・領主でも大祭司でもなく、ザカリアの子ヨハネにでした。
ヨハネが受け取った神の言葉はどのような言葉だったのでしょう? それについて、ルカは何一つ語っていません。神の言葉は、荒れ野で降ったからなのです。
 神の言葉を受け取ったヨハネは、荒れ野を去ってヨルダン川沿いの地方一帯に行き、罪のゆるしを得させるため悔い改めの洗礼を宣べ伝えます。
ヨハネは、心一杯に受けた恵みを他の人々にも知らせ、彼らにも救いの喜びがもたらされるようにと、語り始めます。荒れ野で、空っぽだった心が神の愛にあふれるほど満たされ、ヨハネは、神の救いの訪れの準備を、自分の使命として行っていきます。
ルカは、そのヨハネの使命について、預言者イザヤの言葉を用いて説明します。
神のみ前では、すべての人が平等。低くされている人は高められ、高ぶっている人は低くされ、人々の神への思いが、まっすぐになり、人はみな、神の恵みと救いを仰ぎ見ることができる・・・。私たちは待っています。救いの訪れを。
しかし、誰よりも篤い心で、すべての人に、この恵みと救いが届けられるようにと希い待ち続けているのは天の御父です。


降臨節第1主日(C年)  2018年12月2日
ルカによる福音書第21章25〜31節

12月に入ると町はクリスマスイルミネーションが点灯され、デパートではクリスマス商戦が繰り広げられ、人々の心も何となくクリスマスを意識します。もちろん、洗礼の恵みをいただいている人も例外ではありません。私たちは、教会の中に準備された馬小屋を目にし、祭壇にはアドベントキャンドルが灯され、そして祭服の色は紫となることで降臨節ということを意識するようになります。
降臨節第一日曜日は、イエス・キリストの再臨を思い起こす福音が朗読されます。きょうのみことばの前半の部分は、何やら天変地異の記事があり人々が恐れおののく場面が書かれてあり、私たちにもただならぬ雰囲気が伝わってきます。そのような時に「人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。」とイエスはいっています。
私たちの中には、阪神・淡路大震災、東日本大震災、西日本豪雨災害などの災害を経験した方もおられることでしょう。イエスの時代から今までもたくさんの災害が起こっていますし、大きな戦争や飢饉など、「もう世の終わりが近づいたのではないか」と思われることが何度も起こっています。そのような中で人々は、希望を忘れず復興し続け前に進んで行きます。もしかしたら、この【希望】こそが【人の子の再臨】ではないでしょうか。
主の御降誕は、闇の中を照らす光です。私たちは、この光の中に【希望】を見出します。たとえどうしようもない日常の中でさえも、わずかな【光】を感じることができたら人は、幸せになり【希望】を持てるのではないでしょか。
イエスは、「人の子が目の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」と言っています。【いつも目を覚まして祈ること】は、この【希望の光】に気がつくようになるためではないでしょうか。
私たちは、毎年クリスマスを準備し「主の御降誕」をお祝いします。私たちはクリスマスを、1年に一度のイベントとしてではなく、日々の生活の中で目を覚まして祈ること、小さな光を見落とさないように祈ることを心がけて歩むことができたらいいですね。

六つめは、神を見る者としての幸福。
造られしすべてのものを、わたしは神の御手の業として見る。すべての自然、すべての物質、すべての技術、すべての技術、すべての美しいものも、醜いものもそこに神が住んでおられる。
七つめは、神の子と呼ばれる者としての幸福。
イエスが神の子と呼ばれたように洗礼によって、全生涯イエスに従いたいと望むすべての者は同じように、神の子と呼ばれる。
八つめは、一つめと同じ天の国に存在する者としての幸福。この人たちは、義のために迫害される。
天を故郷と呼ぶ者たちはいつも天に憧れている。天を憧れ、地上でもそのように生きたいと望む。
だから、ののしられ、茶化され、愚か者とされ
誰からも理解されない時が来る。その時こそ、真の幸福を受けるとイエスは言う。無償の愛を知る者として無償の愛を本気でやってしまうがゆえに、この世の損得勘定とは折り合いがつかないことがある。
それでも、天に憧れ、愛し続けよとイエスはきっとおっしゃるにちがいない。イエスは“あなたがた”と言って最上の幸福を受けとるように呼びかけられます。

聖霊降臨後第23主日(C年)  2019年11月17日

ルカによる福音書第21章5〜19節『終末の徴』


今日の福音書朗読はイエス様のエルサレムの神殿の崩壊の予告から始めます(ルカ21:5-6)。次、弟子たちは神殿の崩壊に関係がある事象、つまり徴について質問を出しました(ルカ21:7)。イエス様の答えは三つの部分で構成されました。一つ目はイエス様が神殿の崩壊の前兆とならない徴について説明します(ルカ21:8-11)。二つ目は、イエス様が神殿の崩壊に先行する徴について説明します(ルカ21:12-19)。今日の福音書朗読に含んでいませんが、三つ目はイエス様が神殿の崩壊と平行する徴について説明します(ルカ21:20-24)。

なぜ、エルサレムの神殿の崩壊は重要でしょうか?神殿の崩壊は神様のご計画によって行うことだけでなく、神殿の崩壊は神様のイスラエルの民に対する処罰です。神殿の崩壊によって、終末論的なことが始まることができます。紀元前586年、エルサレムの神殿はバビロンの王ネブカドレツァルの軍隊によって崩壊され、ユダヤ人のバビロン捕囚が始めました。イスラエルの民にとってはその崩壊は衝撃的なことでした。ですので、エルサレムの神殿の崩壊は終末論的な出来事の前兆となりますが、その崩壊と終末論的な出来事が始まる前に一定期間があります。そのような出来事は神様の終末論的のご計画によって行います。


聖霊降臨後第20主日(C年)  2019年10月27日

ルカによる福音書第18章9〜14節『愛』


ルカ18:9-14は対照的なたとえで、一つの教えだけがあります。その教えは、神様の前に謙虚さは重要です。「神様、罪人のわたしを憐れんでください」(ルカ18:13)。また、私たちは自分の正当性を示しようとする時に、自分を他の人を比べることをしてはなりません。私たちは神様の憐れみを信頼して、私たちの活動のために神様から憐れみをもらうこと、或いは祝福を受ける権利があると思うことは出来ないというわけです。神様の憐れみの確実性はイエス様の犠牲的な死によって実現しました。ですので、憐れみをいただくために私たちがやったこと、つまり私たちのworksは関係がありません(ロマ3:21-31;エフェ2:4-18)。ルカ18:9-14は独善的の人を向けていることだけではなく、他者を軽蔑する人にも向けているということです。「神様、わたしはほかの人たちのように…」(ルカ18:11)は非常に危険な言葉です。恐らく、私たちは日常生活の中に、時々そのように考えたことがあると思います。けれども、もしその言葉の危険性を分かれば、すぐに私たちは正しい態度を取ることが出来ると思います。私たちはありとあらゆるチャレンジを経験しますが、私たちは神様を信頼して彼を見失わなければなりません。


聖霊降臨後第19主日(C年)  2019年10月20日

ルカによる福音書第18章1〜8a節『それでも祈り続けます』


ルカ18:1-8は弟子たちが信仰によって進むことを明らかにします。そのことについて、一番重要なことは信仰の自己告白についてのことです。私はイギリス人なので、キリスト教徒は当然なことですが、日本において、そのような状態は全然違います。ですので、皆さんにとって、イエス様はたとえ話において励ましの言葉をくれてくださいます。つまり、どんな苦難に経験があっても、頑張なければならないということです。なぜなら、神様は私たちにとって正しい審判をするからです。私は何回そのことについて書いていますが、洗礼・堅信を受けた人々は必ずしも救われた人ではありません。今日の福音書朗読の焦点は耐えることです。初期教会の聖人はすべて殉教者で、教会の中にはその聖人をあがめられていました。その初期教会は現在の聖公会とカトリック教会及び正教会になりました。ですので、伝統的な立場を見ると、私たちもその殉教者を崇拝することはおかしくないということです。恐らく、私たちはその初期キリスト教時代の聖人が受けた死を経験することをしないと思いますが、私たちは精神的にそのような経験を準備することは必要です。しないと、最悪のシナリオ、私たちはイエス様を裏切るかもしりません。どこに行っても、反キリスト教圧力があります。けれども、イエス様に対する信仰と神様へのお祈りによって、神の国から助けは来ます。皆様、一緒に頑張れましょう。



聖霊降臨後第18主日(C年)  2019年10月6日

ルカによる福音書第17章11〜19節『あの9人とともに』


今日の福音書朗読は奇跡についての話ですが、その話の焦点は癒しの行為ではなく(ルカ17:11-14)、むしろ癒しの後の教えということです(ルカ17:15-19)。癒したサマリア人だけがイエス様の元に戻って来て、彼の前にひれ伏して感謝しましたが、イエス様は十人の重い皮膚病を患っている人々全員を癒しました。つまり、イエス様は彼に憐れむよう求める人々を憐れむということです。けれども、その十人の中からサマリア人だけが救われました。なぜなら、彼には「信仰」があったからです。「あなたの信仰があなたを救った」とイエス様はサマリア人に言われました(ルカ17:19)。ルカ福音書の中で、イエス様は他の3箇所と同じような表現を用います(ルカ7:50, 8:48, 18:42)。神様の恵みは全人類を網羅しますが、全人類は神様に対応しませんので、彼らはその恵み、或いは救いを失うというわけです。私たちもその点を忘れてはいけません。私たちは洗礼によって神の家族のうちに生まれ、神の義に生き、キリストに満ちみちている永遠の命にあずかりますが(教会問答18)、神様からの最大の恵みをいただくために、信仰は必要です。今日の福音書朗読の中に、サマリア人はイエス様と神様との関係について理解しましたので、彼は信仰があるようになりました。その結果として、彼は救われたということです。


聖霊降臨後第17主日(C年)  2019年10月6日

ルカによる福音書第17章1〜6節『からしだね一粒の信仰』


ルカ17:7-10はルカ17:1-6の中の厳しい要求を主人と奴隷のたとえ話に描かれています。つまり、神様の要求を満たすことは私たちの神様に対する特権的な地位を占めるようになるためでなく、むしろ私たちは神様の要求を満たすのは私たちの義務ということです。奴隷が主人の命令に従うように私たちも神様に従わなければなりません。

夫が1日の重労働の後で、妻は相互義務として夫の食事を用意するかもしれません。しかし、奴隷の働きは主人に手を貸してやることでなく、主人は奴隷の働きのために彼を買ったということです。初期教会の中に、奴隷は私たちの神様に対する忠実と献身と服従を象徴していました。けれども、ルカ17:7-10の中に描いたように、私たちの神様に対する服従は神様に要求する権威にならないというわけです。神様は非情な神と見えますが、私たちは私たちの地位を忘れてはいけません。神様は愛情がある神で、この世に御子イエス様を派遣して、私たちの救いのためにイエス様は亡くなりました。けれども、神様は神様で、全能である神ですが、私たちは神様の被造物です。ですので、私たちはもっと謙虚な心を持って、全身全霊に神様に仕えましょう。


聖霊降臨後第15主日(C年)  2019年9月22日

ルカによる福音書第16章1〜13節『未来に期待しましょう』


「不正な管理人」のたとえ話を理解するのはとても難しいと思います。管理人は主人の財産を無駄遣いしたため解雇されましたが、管理人は主人から借りがあった者の債務を削減したことは主人から称賛しました。「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた」ということです(ルカ16:8a)。つまり、主人は損をしましたのに、管理人の不正行為をほめたというわけです。

「不正な管理人」のたとえ話はファリサイ派の人々を批判するだけでなく、イエス様は弟子たちも批判します。また、イエス様は弟子たちにファリサイ派の人々が金銭を扱うようにしないことを主張します(ルカ16:14)。お金を自分のため使うことではなく、他の人々のため使うということです。ですので、「不正な管理人」のたとえ話の主なテーマは「管理」で、特に「財産管理」です。神の国が到来することと、私たちは神の子なので、私たちは未来に目に向けて、先見の明があることが必要です。言い換えれば、惜しみなくお金をささげて神の国に入ることの方が自分自身のためにお金をためて神の国に入れないより良いということです。忠実性は小さなことで始まります。神様と金銭を両方に使えることができないので、私たちは神様中心の生活をしなければなりません。私たちは神様に仕えることは必要で、神様は私たちの「管理」を評価すること及び私たちに報いられます。


聖霊降臨後第14主日(C年)  2019年9月15日

ルカによる福音書第15章1〜10節


 今日の福音書朗読の中の二つのたとえ、つまり「見失った羊」のたとえ(ルカ15:1-7)と「無くした銀貨」のたとえ(ルカ15:8-10)の基本テーマは「さがし」で、基本感情は「喜び」ということです。その二つのたとえはイエス様がなぜ徴税人及び罪人を迎えることを説明します(ルカ15:1-2)。神様は罪人を見つけるために大変な努力して、そしてその罪人は悔い改めれば、神様は大喜びします。神様は限られた数の人の神でなく、賢人の神でもなく、神様に追求すると思う人の神でもないとイエス様が主張します。従って、神様は罪人をさがして、罪人を見つけて、そして罪人を世話する神様です。当時、徴税人は嫌われて、罪人はあざ笑ったので、イエス様は彼らに励ましの言葉をかけて、その社会的のけ者はイエス様のもとに来るように勧めます。神様への道の最初の段階は悔い改めるので、もし罪人は悔い改めれば、神様は彼を迎え入れるということです。しかし、イエス様は無条件の愛のように一切言われていませんでした。つまり、罪人は神様によって迎え入れたいなら、最初にその罪人は悔い改めなければなりません。もし、そうしない場合には、神様から離れるようになります。私たちもそのことを忘れてはいけません。確かに神様は愛であることは正しいですが、神様への道に進めるために、私たちは歩くことは必要です。その最初の段階は私たちの罪を認めて、そしてその罪を悔い改めなければなりません。


聖霊降臨後第13主日(C年)  2019年9月8日

ルカによる福音書第14章25〜33節


ルカ福音書14:26-27はマタイ福音書10:37-38と似ていて、共通点がありますが、恐らく原文は異なります。今日の福音書朗読全体は福音書記者ルカの特殊資料からのものです。先週の福音書朗読の焦点は「謙虚さ」で、特に神様に従うために、謙虚な態度を表した方がよいということです。ルカ福音書14:26-33の個所はそのような教えを加えます。つまり、もし神様に従ったら、私たちはイエス様を私たちの生活の中心に据えなければなりません(ルカ14:26-27)。イエス様は私たちの家族より大切で、そしてイエス様中心の生活をするなら、ひどく苦しみを受け入れる用意があるというわけです。イエス様は弟子のなるために先々の見通しをつけることについて、二つの例を挙げます(ルカ14:28-32)。塔を建てる人は費用を計算することは必要です。また、王様は戦いに行こうとするときは、軍隊は十分かどうか、確認することは必要です。ですので、私たちは同じようにイエス様の弟子になりたいなら、実際の結果を考慮しなければなりません。キリスト教はやさしい宗教であることを見えますが、けれども厳しい側面もあります。その厳しい側面を無視なら、その結果は私たちのキリスト教は完璧なキリスト教ではあります。


聖霊降臨後第12主日(C年)  2019年9月1日

ルカによる福音書第14章1、7〜14節


聖書の中に、今日の福音書朗読の個所のテーマは珍しくないで、イエス様の基本的な論理的な姿勢を反映します。イエス様は謙虚な態度を取ることを度々言われました(マタ18:4; 23:12; ルカ18:14)。今日の個所はルカの特殊の資料の中からの一つですが、箴言25:6-7の個所についての解釈とも考えることができます。

当時のユダヤ人が神様ヘの道は祭司や律法学者たちなどの指導の下で達成することが出来るということです。けれども、ユダヤ人はイエス様の教えを拒否しました。ルカにとって、ユダヤ人のイエス様に対する拒否の理由は神様がイエス様を拒否したことでなく、むしろユダヤ教の指導者たちはイエス様の教えを聞くことをしなかったこと、つまり彼らはイエス様を認められなかったというわけです。ですので、ユダヤ人の神様への道のやりかたは間違いました。もしそれが本当なら、どのように神様に従った方が良いでしょうか?一言で言えば「謙虚」ということです。謙虚さはイエス様の弟子のしるしの一つです。ですので、「上席についてはならない」(ルカ14:8)ということです。社会階級などを無私したら、謙虚さを表します。そのような態度はコリントの教会の中にありませんでした(Iコリ11:17-22)。私たちも謙虚さについて気を付けましょう。


聖霊降臨後第11主日(C年)  2019年8月25日

ルカによる福音書第13章22〜30節


今日の福音書朗読はマタイ福音書7:13-14に似ていますが、二つの違いがあります。一つ目の違いは狭い戸口に入るために努めることは必要です。二つ目の違いは戸口はいつも開いているわけではありません。その戸口は主人様によって閉されました。努めることについて、新共同訳聖書において、ギリシア語の動詞を「努める」と訳しましたが、恐らくその訳はイエス様の主張を弱めると思います。実際、狭い戸口に入るために、私たちは戦う、或いは競技する、または苦闘することは必要です。同じギリシア語の動詞はパウロをコリントの信徒への手紙の中に用いました。「競をする人は皆、すべてに節制します」(Iコリ9:25)。つまり、狭い戸口に入ることは簡単なことではないし、人が入りたいと思うことだけは不十分です。けれども、戦うことは必要なら、誰と戦うでしょうか?私たちは自分自身と戦わなければないというわけです。確かに、サタンとも戦うことは必要かもしれませんが、イエス様の焦点は私たちの態度、或いは私たちの道徳です。私たちは私たちの人生において様々な誘惑があります。けれども、その誘惑を克服することができないなら、イエス様の教えを従わなければ、私たちはその狭い戸口に入ることができません。けれども、私たちはすぐに私たちの人生を改善しなかったら、主人様は戸を閉めて、私たちは神の国に入ることが出来なくなります。


聖霊降臨後第9主日(C年)  2019年8月11日

ルカによる福音書第12章32〜40節


神の国においての宝は弟子の生活の中心になります。弟子は心配をしないことによって神様を信頼するよう教えた後に、イエス様は弟子たちがどのように神様の前に生活することを焦点します。しかし、その場合、どのように神を信頼することは表現できるでしょうか?弟子は終末論的の光の中に生活するということです。イエス様がいない時にその光の中に弟子の生活についてイエス様がたとえ話を用いて彼らに説明することだけでなく、イエス様が戻る、つまりイエス様の再臨の時にも弟子たちの生活、或いは生き方について説明するということです(ルカ12:35-40)。イエス様は忠実すること及びいつも準備することを強調します。主人はいつ帰ってくるのか、分かっていませんので、いつも準備をしなければなりません。なぜなら、主人は帰る時に僕たちの忠実性を評価するからです。ですので、私たちもイエス様の再臨を準備することを忘れてはいけません。


聖霊降臨後第8主日(C年)  2019年8月4日

ルカによる福音書第12章13〜21節


イエス様は富の危険性と富に対する間違った態度についてよく注意を与えます。その二つのテーマはイエス様の基本的なテーマで、彼の教えと宣教活動に反映されます。けれども、今日の福音書朗読の個所において、イエス様はその家庭争議に巻き込まれたくないということです。なぜでしょうか?恐らく、イエス様にとって、彼のミッションは個人的の争議に解決することでないからです。けれども、イエス様は彼に訴えた人を無私しなく、富の危険性に対して全般的な注意をさせます。特に、イエス様は金銭に対する深い欲に言及することだけでなく、あらゆる形態の『貪欲』に焦点を合わせます。なぜなら、貪欲は相違と不和に油を注ぐことができるからです。更に、貪欲は生命について歪曲をもたらすこともできます。私たちは生命を物体の中に見つけることができなく、私たちは生命を関係の中に見つけることができ、特に、神様との関係の中に見つけることができるというわけです。私たちはこの世の中にいますが、私たちの精神的生活を忘れてはいけません。なぜなら、私たちは洗礼によって神の子になり、神様の家族の一人になったからです。




聖霊降臨後第7主日(C年)  2019年7月28日

ルカによる福音書第11章1〜13節


今日の福音書朗読の個所の前半の中に、イエス様は弟子たちに「主の祈り」を教えられました。けれども、その主の祈りは私たちが礼拝の中にと唱える主の祈りと異なります。その理由は私たちが一般的に用いられる主の祈りはルカ福音書に由来したものではなく、マタイ福音書に由来した祈りです。実際、その二つの主の祈りは同じ祈りですが、聖書学的な理由で、主の祈りの最終的な形はルカ福音書とマタイ福音書の中に異なるようになりました。恐らく、皆さんはその異なりについて不安がありますが、主の祈りはイエス様によってアラム語で弟子たちに教えた祈りは確かなことです。一方では、マタイ福音書な中の主の祈りはアラム語の主の祈りに基づいて、ギリシア語に訳した後に、編集が行いました。他方では、ルカ福音書の中の主の祈りはギリシア語の主の祈りに基づいています。主の祈りは様々なユダヤ教の祈りの形式に似ているのは当然なことですが、そのユダヤ教の祈りより短いなので、覚えやすいです。また、1世紀のキリスト教の祈祷書のような文書であるDidache(ディダケー、十二使徒の教訓)によると、信徒は毎日に主の祈りを3回と唱えなければならないというわけです。ですので、初期キリスト教には、主の祈りはとても重要な祈りで、かなり初期の段階からキリスト教の共同体全体の祈りとなりました。


聖霊降臨後第6主日(C年)  2019年7月21日

ルカによる福音書第10章38〜42節


永遠にいます全能の神よ、あなたの霊によって教会全体は管理することと聖化し、私たちの祈りを聞きください。どうか、私たちは私たちたちの奉仕によってあなたを神聖と正義に仕えることが出来ますように、主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメ


今日の福音書朗読の個所は弟子の生活の中で、イエス様に対する配慮は重要なことを強調するということです。マルタはイエス様の訪問のために準備で忙しいですが、マリアは手伝いませんでした。恐らく、私たちはマリアに対して高い評価をしません。本当に、彼女は怠けものように見えます。確かに、マリアは手伝いをしていませんし、イエス様の足もとに座って、体を動きませんが、彼女をイエス様の教えを聞いています。そのことは今日の個所を理解するための鍵です。つまり、聞くことです(申8:3)。「聞く耳のある者は聞きなさい」(ルカ8:8)。私たちは奉仕するために忙しいだと思いますが、そのような状況においては神様のみ言葉より奉仕の方が重要になってしまう恐れがあります。私たちの中心は神様で、神様のみ言葉です。ですので、私たちは私たちの精神的生活を無私してはいけないというわけです。マリアのようにイエス様のみ言葉を注意深く聞きましょう。


聖霊降臨後第5主日(C年)  2019年7月14日

ルカによる福音書第10章25〜37節


今日の福音書朗読はとても有名なたとえ話で、おそらく新約聖書の中の一番有名なたとえ話だと思います。そのたとえ話は私たちに色々なことに教えますが、「サマリア人」というのはどのような人でしょうか?手短に、サマリア人はユダヤ人にとって嫌われた民ですので、イエス様は律法の専門家を衝撃しました。なぜなら、律法の専門家はサマリア人を隣人であることを一切考えていないからです。イエス様にとって私たちの義務、つまり宗教的や道徳的義務は限られていません。私たちは全ての人間に対する義務があるというわけです。キリスト教は奉仕や隣人への愛を教えて、その教えは「善いサマリア人」のたとえ話の中に実現しました。今年と来年、日本は幾つかの国際大会を主催しますので、善いサマリア人の行為を覚えておきましょう。



聖霊降臨後第4主日(C年)  2019年7月7日

ルカによる福音書第10章1〜12、16〜20節


今日の福音書朗読はイエス様の弟子たちの二つ目の使命についての話です。イエス様は12人を派遣するのではなく、72人を派遣しました。イエス様はすでにサマリア人の村に行きましたが、村人はイエス様を歓迎しませんでした。ですので、宣教活動は必ずしも好結果を得ることではありません。また、弟子になるために、家族の絆を切ったり、苦しみに遭ったりすることも必要ですので、弟子としての生活は簡単なことではありません。けれども、今日の福音書朗読の個所においては、72人が興奮して、宣教活動を行いました。彼らは宣教する町に向かう途中、どこかの家に滞在するなら、まず「この家に平和があるように」と祈らねばなりません。


聖霊降臨後第3主日(C年)  2019年6月30日

ルカによる福音書第9章51〜62節


イエス様に従いたい者に対してイエス様はその従い行為の結果について警告をします。イエス様はその者を招いたかどうか、は関連性がありませんが、この世はイエス様を受け入れないので、イエス様に従うなら、そのような人に従うことは必要だというわけです。更に、両親に対する義務、特に十戒の中に定まれた義務は神様に対する義務より重要ではありません。つまり、イエス様に従うなら、全ての絆を切らなければなりません。神の国は最も重要なことというわけです。今日の福音書朗読の個所においてはイエス様の教えがとても厳しいです。私たちはイエス様の条件を満たすでしょうか?確かに、教会の中で、奉仕や愛は重要ですが、その奉仕や愛の中で神様がいなかったら、その奉仕や愛は意味がありません。言い換えれば、私たちの人生の中で神様、或いはイエス様のみが重要です


復活後第7主日(C年)  2019年6月2日

ヨハネによる福音書第17章20〜26節


ヨハネ福音書17:1-26はイエス様の「別れのいのり」と呼ばれていますが、今日の福音書の朗読箇所はまだキリスト教徒になっていない人々向きです。その人々のイエス様との出会いは弟子たちを通して出会いだけです。ですので、私たちも弟子たちが持ったように、福音宣教責任があるということです。


復活後第6主日(C年)  2019年5月26日

ヨハネによる福音書第14章23〜29節


全能の神よ、あなたはわたしたちを闇の力から解放して、み子の国に導いてくださいました。どうか、み子の死によって私たちは命を得て、彼が私たちの内におられることによって彼が私たちを永遠の喜びにあげられることができますように


今日の福音書朗読では、愛と服従が中心的な教えですが、ヨハネ14:15-31の中でイエス様は愛と服従の重要性を4回繰り返しています。その箇所において、イエス様は愛について言及する時、私たちはどのように理解した方が良いでしょうか?恐らく、その愛は隣人への愛ではなく、神様への愛というわけです。更に、服従は愛の兆候ですので、イエス様は神様と私たちの関係を強調します。その関係は共同体としての関係ではなく、個人的な関係ということです。私たちは度々他の人々への奉仕、つまり隣人の愛だけに集中しています。そのような愛はとても重要ですが、結果として、神様への愛が薄くなってしまう可能性がありえるというわけです。イエス様の死によって、彼は御父に帰りますが、その後に彼と神様が私たちのところに来ることだけでなく、私たちと「一緒に住む」ということです。そして、私たちは神様の愛を経験することができます。ですので、イエス様が御父と私たちの間で和解を達成しました。



復活後第5主日(C年)  2019年5月19日

ヨハネによる福音書第13章31〜35節


全能の神よ、あなたの独り子を通して死を克服して、私たちのために永遠の命の門を開きました。どうか、あなたの御恵みによって私たちの心に良い希望を入れて、あなたの助けによって私たちはその良い希望を実現することができますように。


ユダはイエス様と弟子たちから出て行って、イエス様は残った11人の弟子たちに彼のこの世を去った後の生活について教え始めます。最初に、イエス様は彼の「栄光を受ける」ことについて弟子たちに説明していましたが、彼らはそのことを理解できませんでした。イエス様の「栄光を受ける」ことは彼の十字架に張り付けて死ぬことですので、ユダが出ていたことは必要です。なぜなら、ユダが出て、彼はイエス様を裏切ることによって、イエス様の死、つまりイエス様の「栄光を受ける」ことを起こし始まるというわけです。ユダの行為はひどいことですが、その行為は神様が立てた計画に従うわけです。ユダの反逆行為はイエス様の生涯の最後の部分の始まりとなります。ですので、弟子たちはイエス様が昇天した後の時期を準備しなければなりません。その時期は教会の時代とも呼ばれていて、私たちはまだその同じ時代にいます。その時期のためにイエス様は新しい掟を弟子たちに与えました。その掟の中心的教えは「愛」です。


復活後第4主日(C年)  2019年5月12日

ヨハネによる福音書第10章22〜30節


今日の福音書朗読は「良い羊飼い」の談話の中の一つの部分ですが、ヨハネ福音書第9章においての「うまれつきの盲人をいやす」記述と関連性があります。なぜなら、ユダヤたちはイエス様が行ったみ業を信じていなかったので、彼らがイエス様はメシアであることを分かっていなかったからです。そのみ業の一つはイエス様が行った奇跡です。つまり、ユダヤ人たちはイエス様の羊ではありません。もし、ユダヤ人たちがイエス様が行ったみ業を信じたなら、彼らはイエス様の羊となり、イエス様はメシアであることが分かったでしょう。

 イエス様とユダヤ人たちとの論争は神殿奉献記念祭が開催された時に行ったことが重要です。神殿奉献記念祭はアンティオコス・エピファネス支配者によってエルサレム神殿の神聖さを汚された後に再聖別を記念する祭りです(Iマカ4:36-59)。ですので、ユダヤ人にとって、その祭りは国家主義的な祭りとなりました。けれでも、その祭りにおいて、ユダヤ人たちはイエス様を認められなかったというわけです。



憐れみ深い父よ、あなたの子イエス・キリストは良い羊飼いとなり、彼の私たちへの愛のために死なれ、復活されました。どうか、私たちはいつも彼の保護の下にあることができますように



復活後第3主日(C年)  2019年5月5日

ヨハネによる福音書第21章1〜14節


ヨハネ福音書の中には復活したイエス様が3回弟子たちの前に現れます。今日の福音書の朗読はイエス様の3回目の現れの記述です。弟子たちはエルサレムからガリラヤに帰って、前職、つまり漁師の仕事をしている時に、イエス様は現れました。しかし、彼らはイエス様であることが分からなかったというわけです。それは少しおかしい分かりづらいことなのではないか、と考える方がいらっしゃると思います。なぜなら、弟子たちはイエス様と一緒に2~3年間を過ごし、イエス様は既に2回彼らの前に現れたりしていたからです。ですので、弟子たちがイエス様に気付かなかったことをどのように理解した方が良いでしょうか?確かに、弟子たちは船に乗って漁をしていたのに対してイエス様は岸に立っていたので、遠くて彼らはイエス様が見えなかったかもしれませんが、恐らくこのシーンを理解するために、異なる角度から考えた方が良いと私は思います。弟子たちがイエス様に気付かなかったのは彼らがイエス様の復活後の姿、つまりイエス様の存在に対して理解していなかったからです。その理由から、弟子たちはイエス様が現れたことに気付けませんでした。彼らは地上のイエス様しか知りませんでしたが、復活後イエス様は変わっていて、イースターの栄光に現れます。従って、イエス様の現れは啓示的な現れです。イエス様の3回目の現れはヨハネ福音書の中の彼の最後の現れで、イエス様が昇天してから約束された弁護者、或いは真理の霊は御父から降り、弟子たちと共におられます。


全能の父よ、あなたの大きな恵みで復活したイエスの現れによって弟子たちを喜ばせました。どうかイエスが私たちの間におられる知識を与えて、彼の復活した命によって私たちが強くなるよう維持することができますように



復活後第2主日(C年)  2019年4月28日

ヨハネによる福音書第20章19〜31節


今日の福音書の朗読の中には復活されたイエス様は2回弟子たちの前に現れました。1回目は週の初めの日の夕方、つまりイエス様が復活された日の夕方に、彼は弟子たちが集まった家の中に現れました。その家の戸に鍵をかけていたので、イエス様の登場は劇的なものでした。そして、イエス様は集まった弟子たちに聖霊を与えました。どのようにそのことを理解した方が良いでしょうか?聖霊を与えること、或いは聖霊が降ることはペンテコステの時に起こったので、今日の福音書の朗読はペンテコステに似ていますが、ペンテコステではないと理解した方が良いのでしょうか?はい、そうだと思います。恐らく、皆さんがヨハネ20:22と似ている箇所を聞いたことがあると思います。その箇所は創世記の中で神様がアダムに命を与える箇所です(創2:7)。ですので、イエス様は息を吹きかけることによって集まった弟子たちに新しい命を与えたというわけです。その新しい命はイエス様の死・復活によって得たものです。神様がイスラエルの民と結んだ契約はイエス様の犠牲的な死によって変わり、私たちは選ばれた民となり、新しい人間となりました。主の復活ハレルヤ。



復活日(C年)  2019年4月21日

ルカによる福音書第24章1〜10節


イエス様がどんな方かについて、皆さんはよくご存知だと思います。しかしながら、イエス様が生きておられる間、ユダヤ人たちはイエス様はどんな方か、つまりイエス様のアイデンティティについてあまり理解をしなかったということです(ルカ9:18-20)。確かに、ペトロがイエス様は「神からのメシアです」という告白しましたが、恐らく弟子たちはイエス様が復活することを期待していなかったでしょう。ですので、今日の福音書の朗読が述べているように、イエス様のご遺体が墓の中にかったことについて、弟子たちは夫人たちの証言を信じていませんでした。しかし、イエス様は死から蘇い、復活しました。その点はキリスト教の原点になります。言い換えれば、イエス様は自分の死と復活を予告して(ルカ9:22)、イエス様が復活されたことは彼の教えとみ業を確実なものになるからです。「ここにはおられない。復活なさった」と天使たちが墓に行った婦人たちに言われました。イエス様の十字架上の死は苦しく、悲しいことですが、その死によって私たちは罪から解放されました。更に、イエス様の復活によって私たちは新しい命を得ることが出来ます。主の復活、ハレルヤ



復活前主日(C年)  2019年4月14日

ルカによる福音書第23章1〜49節


復活前主日、つまりシュロ日曜日において、私たちはイエス様のエルサレムに入ることを記念します。イエス様は王様としてエルサレムに入りますので、その入りは喜ばしいことで、弟子たちの群れは神を賛美しました(ルカ19:28-40)。しかしながら、今日の福音書朗読が説明したように、イエス様のエルサレムに入ることの結果は彼の十字架上の死が行われたということです。そのような死刑はとても苦しいものでしたが、イエス様はローマ帝国、またユダヤ教の指導者たちに対して復讐心を一切持っていませんでした。「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」(ルカ23:46)はイエス様の最後の言葉でした。ルカ福音書においては、イエス様の死は殉教者としての死として描写しました。または、イエス様はいつも他の人々の要求に関心をしめし、特に貧しい人々や女性や社会から追いやられた他の人々に対してです。彼の受難の時に、そのような関心や感情は変わりませんでした。「エルサレムの娘たち」(ルカ23:28)や「父よ、彼らをお赦しください」(ルカ23:34)とイエス様は言われました。私たちは私たちにとってどのような困難が起こっても、自己中心的な考え方を捨てて、その代わりにイエス様が示したような他の人々、つまり私たちの隣人に対する愛をいつも持たなければなりません。



大斎節第5主日(C年)  2019年4月7日

ルカによる福音書第20章9〜19節


イエス様は民衆に彼らの指導者についてのたとえ話を語りました。指導者たちがイエス様に敵意を向けることは彼らの歴史的な神様に対して責任を負わないということを描写しています。最初に主人は彼の僕をぶどう園に送りました。たとえ話の中では、主人は神様で、僕は預言者であると理解することができます。しかし、農夫たちは主人の僕たちを追い出しました。つまり、イスラエルの指導者たちは預言者たちに注意をしなかったということです。ですので、主人は彼の息子を農園に送りました。この息子はイエス様です。自分の息子を送ることによって、神様はイスラエルの指導者たちに神様に帰る最後の機会をあげました。けれども、農夫たちにとって主人がぶどう園に来てないので、彼は恐がることはないと思い、彼らは主人の息子を殺してしまいました。しかし、イエス様の死によって、彼らは破壊することができない石になりました(詩118:22)。ですので、イスラエルの指導者たちはイエス様を殺すことによって彼らは自滅的な行為を招くことになりました。

 イスラエルの指導者たちはこのたとえ話においてはあまりよいイメージがありません。けれども、彼らは神様はいないとまでは言いませんが、神様は彼らの生活の中で、またはこの世では役割を果たせないと思いました。そのような考え方は現在でもあり得ると思います。なぜ、私たちの世には、悪いことが起こるのでしょうか?なぜ、自然災害が起こるのでしょうか?などです。それらのことが起こるので、神様は私たちを愛さないのでしょうか?或いは、神様は私たちに対して怒っているのでしょうか?そうではありません。神様は私たちを愛して、自分の息子の犠牲的な死を通して人間を神様と和解させました。この世では、悪いことが起こりますが、それらのことで私たちに対する神様の愛が変わることはありません。



大斎節第3主日(C年)  2019年3月24日

ルカによる福音書第13章1〜9節


今日の福音の出発点はエルサレムで起こったショッキングな事件と事故である。それはピラトの命令によって虐殺された何人かのガリラヤ人の事件とエルサレムで起こった事故である。どちらも非常に悲しい出来事で、当時のイスラエルの多くの人々に大きなショックを与えたと思われる。最初の事件は、ある人々によってイエスに告げられただけではなく、

彼らはこの事件についてイエスに宗教的な解釈を求めた。なぜなら、イエスの時代、一般のユダヤ人は、不名誉な死に方あるいは変死した人の死はその人たちの乱れた生活の結果、神の罰にあたったのだと信じていたからである。イエスはこの考え方を退け、むしろこの事件に関わっていない人々にも自己反省のきっかけとなるよう、促す。イエスは自分の考え方を強調するために、もう一つの恐ろしい事故を取り上げ、同じように解釈する。このような事件の犠牲になった人たちは、決して他の人々よりも罪深い者ではない。あなた方も回心しなければ皆同じように滅びる。毎日の生活で起こっている出来事や事件は時には遠く離れて、時には身近に、何か神からの呼びかけであり、わたしたちは自分たちの生き方、考え方と価値観を見直すようにと呼びかけられている。

福音書の後半は、”実らないいちじくの木“のたとえ話である。3年間も実を結ばない木は、常識では「もうだめになったのだろう」と言える。貴重なぶどう畑の中でたった一本のいちじくの木はどういう意味か。聖書では、いちじくは、ぶどうの木と共に

よく神に愛されたイスラエルにたとえられている。しかし実を結ばないというイメージも多くある。その上、いちじくの木は土地をよくふさぐので、周りのぶどうの木にとって迷惑になるし、”邪魔な存在になる。“しかしこの木の存在の意味をまだ信じている人がいる。それは園丁である。憐れみの心で、彼は特別にその木の面倒を見ると言う。「今年もこのままにしておいてください。この周りを掘って、肥やしをやってみます。」“回心せよ”という厳しい呼びかけの前に園丁であるキリストの赦しと憐れみがいつもあるから、人は回心の招きに応える心になれる。


大斎節第2主日(C年)  2019年3月17日

ルカによる福音書第13章31〜35節


「天の国は近づいた。回心して福音を信じなさい。」福音書に現われるイエスの最初のメッセージです。「回心によって、一人でも多くの人を天の国に送り込もう」、そのような望みと共に、イエスの公生活は始まりました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」有名な言葉です。正しい人々が「天の国」に入ることには誰も異議を唱えません。しかしイエスは、罪人を招くために来たと言います。この言葉に心を動かされない人がいるでしょうか?

今日の福音は、「神の国」をテーマとした「狭い戸口」と題された箇所です。イエスによれば、「一人でも多くの人を天の国に入れてしまおう」とするイエスの思いとは裏腹に、神の国に「入ろうとしても入れない人が多い」とか、入りたくても「家の主人が戸を閉めてしまう」というように、入るのがとても難しい所として説明されています。

 イエスと「一緒に食べたり飲んだり」、「教えを受けた」ことは中に入るための何の保証にもなりません。「神の国」は、洗礼を受ければ自動的に入れるというような所、ミサに与ればいいというような場所ではなく、逆に「お前たちがどこの者か知らない」と言われてしまいます。

 別な個所で語られた「だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」(マタイ7.8)という言葉とは異なり、今日の箇所では、閉まった戸をいくら叩いても、開けてはもらえません。それどころか、うまく中に入れたにせよ、外に投げ出されてしまう者さえいます。私たちの救いとは、全面的に神に委ねられているのであり、決定権はわれわれの側にはありません。

 非常に厳しい響きをもつ箇所ではあります。しかし、イエスは「入るように努めなさい」と私たちを招いています。誰も神の国に入れないのではなく、東や西から、南や北から集まって来る多くの人々、イエスの招きに忠実に応える無数の人々が、神の国の宴会の席に着くことを許されるのも事実です。たとえ狭い戸口ではあっても、今それは、私たちのために開かれていると言えます。


大斎節第1主日(C年)  2019年3月10日

ルカによる福音書第4章1〜13節


今日の福音の始まりに、ルカはこう言っています。

「イエスは聖霊に満ちてヨルダン川からお帰りになった。」ヨルダン川は、イエスが洗礼を受けた場所。聖霊が鳩のような姿でご自分の上に降るのをご覧になり「あなたは私の愛する子」という御父の声をしかと胸に抱いたその場所でした。その後の出来事が、今日の福音です。

イエスが、悪霊から誘惑を受けた話の中で、とても心に響くのは“イエスは聖霊に満ちて”いる、ということです。

洗礼の時に受けた聖霊と、心に“我が愛する子”と呼びかける御父との深いつながり、深い交わりが

荒れ野での悪霊からの誘惑のさなかにおいてでさえ

決して消えることがなく、イエスが生きておられることに心打たれます。

悪魔の誘惑の前では、まるで、首にひもをつけられたか弱い羊のように悪魔が示すところへひょいひょいと連れられていくそんなイエスの姿がありますが

悪魔の言葉に対し答える時には真に強くゆるがない確かさをもって、立っておられるイエスの姿があります。三位一体・・・この愛の交わりの中に自分の礎を置き、イエスは、悪魔に対面し、立つ・・・

そのような姿が、ひしひしと伝わってきます。

そして今日の福音の終わり13節の後、14節ではこう述べられています。「イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。」さあ、イエスは悪魔からの誘惑の時が終わると諸会堂で宣教を始められますが、イエスは一人でなさるのではありません。

御父と聖霊と共に、イエスは歩み続けられます。

今日の福音を通して私たちキリスト者の生活の礎は

イエスが生きられたと同じように御父・御子・聖霊の交わりの上にあることを深く思いだし、生きることが出来ますようにと、祈り願いたいです。


大斎節前主日(C年)  2019年3月3日

ルカによる福音書第9章28〜36節


ペトロ、ヤコブとヨハネを連れて、山に登ったイエス様。3人の弟子たちの前で、変えられていきます。顔が太陽のように輝き、服が光のように白くなる。そこにモーセとエリヤが現れて、イエスと語り合っていたと言うのです。いったいどんな話をしていたのでしょう。エルサレムで遂げようとする最期について語りあっていたと記されています(ルカ9:31)。

この直前、はっきりとイエス様は自分の死と復活を予告します。ところがマルコ福音(9:32)ではこれに慌てたペトロがイエス様に「そんなことを言ってはいけない」といさめ、ペトロは「お前の思いは神のものでなく人間のものだ」とイエス様に厳しく叱られたことが書かれています。さらに「私の後に従いたいものは自分の十字架を担って従え」と命令しています。イエス様にしてみれば、自分はこれから十字架に向かうと分かっていれば、それをいさめるペトロを、本当に何も分かっていないものと腹を立てたくもなったのでしょう。

 モーセもエリヤも、もう神に従うのはつらい、こんな思いをするくらいなら、死んだほうがましと思うほど、人間としての自らの弱さを抱えた人でした。そしてまた群集のうつろいやすさ、すぐに心変わりをしてしまう人間の心の弱さを、よく体験した人でもありました。イエスも人間となった以上、人間としての弱さと無縁ではありませんでした。そのイエスが、同じ体験を人間としていやと言うほど受けたモーセやエリヤから励まされたとしても、けっしておかしなことではありません。モーセとエリヤとイエスの変容。そのためには、血で自らを洗う必要がありました。そしてモーセもエリヤもイエスも、恐るべき闇と裏切りと絶望と血の中を通って、やっとこの栄光に辿り着いたのでした。

私たちもまだペトロのように、ただの栄光、輝きに惑わされがちなものです。神に最もよく従ったこれらの白い衣を着た者たちほどの苦難は、まだ体験していないのだと思います。だからこそ、楽な道ばかりでない、回心の歩みをしていきましょう。


顕現第7主日(C年)  2019年2月24日

ルカによる福音書第6章27〜38節


ルカの福音書の6・20-49はイエスの“山上の説教”の言葉を取り上げる。ルカにおけるこの説教はむしろ、“平野の説教”と呼んだほうが正しいと思う。ルカではマタイと違い、イエスは祈るために山に登り、そこで夜を明かし、12使徒を選び出した。その後、彼らと共に山から降りて、広々とした平らなところで自分の弟子たちと方々から集まってきた人々に向かって“福音”を宣べ伝え、多くの人を病と悪の力から解放した。こうしてルカ福音書の目ではイエスは“下から”人々と語り合い、ユダヤ人の国家を超えて、より多くの人々に言葉としるしをもって普遍的なメッセージを伝える。“幸い”と“不幸”の宣言後、“この言葉を聞いているあなたたちに”イエスは新しい人間関係を紹介し、その生き方へ招く。まず、ルカ6・27-35 “敵を愛する”という生き方へこの愛はアガペーと呼ばれ、自らの道徳的努力によって得られる愛というより、神に無条件に愛されている体験から生まれてくる愛である。“愛する”というのは好き嫌いといった感情、気持ちだけの問題ではない。自分に対して敵意を示す相手に対してアガペーの行為で具体的に答えることである。すなわち、親切にする、祝福する、祈る、ただで与えるなどである。 敵をどう愛すべきかを神の無条件のアガペーから学び、そのようにアガペーを生きるイエスの弟子は、アガペーである神の子となり、すべての人々に神の大きな愛を“うつす”ことになる。次にルカ6・36-42 共同体内の新しい人間関係へ神は父、相手は兄弟、そして先生と弟子といったイメージは、いずれも初代教会からのものである。“父が憐れみ深いようにあなた方も憐れみ深い者となりなさい。”(ルカ6・36)ルカは赦すことを強調する。赦すことは神の業である。それは相手を裁かないこと、とがめないこと、“ただで”与えることである。

“秤”のイメージは神の無限の赦しを表すことばである。赦せる力はどこから来るのか?神と深くかかわって生きる人は自分に対する父である神の無限の赦しと憐れみを体験し、赦しを必要としている人に対して自分と同様に赦される喜びを味わってほしくなるのではないだろうか?


顕現第6主日(C年)  2019年2月17日

ルカによる福音書第6章17〜26節


幸いである。イエスの呼びかけがあらゆる民族に響きます。さまざまな場所から人々がイエスのもとへと集まりました。イエスは、幸いと不幸について語ります。神の前で自らのとぼしさを実感して、打ちひしがれる謙虚な人が幸いの道へ進み、逆に人間だけで物事を動かそうとする傲慢な人は不幸な状態に落ち込む、という現実。貧しい者、飢えている者、泣いている人、人々から憎まれる人。これらの人びとは自分が孤立して絶望的な状況に落ち込み、打ちのめされています。彼らは神に対して叫びをあげます。ところが、追い詰められていない状況の人びとは自分の力に過信しすぎるあまり、神との関わりを忘れています。イエスが活動していたイスラエルの民の生活空間において、「幸い」には「祝福」という意味があります。孤独のなかで、さまざまな困難に突き当たっている人こそが祝福されている、というイエスの宣言は力強い励ましとなります。

主に信頼する者は祝福され、一方、主から離れて人間的な生活にのめりこんで人間的な視点だけでものを見ようとする人は呪われることになる、とエレミヤは指摘します。祝福か呪いか。つまり、神とともに生きるのか、人間だけで物事を割り切るのか。人生の歩みは、絶えざる二者択一の積み重ねによって切り開かれてゆきます。

キリストとともに生きている者のいのちは決してないがしろにされないというパウロの確信が語られています。「しかし、実際」という言葉がパウロの迫力に満ちた信念をじゅうぶんに示してくれます。主イエスが復活して生きているという確信を、パウロは何とかして周囲の人びとにも伝えようとします。決して滅びることなく、神とともに生きているキリストの姿に信頼を寄せる、まっすぐな姿勢を保つことがキリスト者の歩みにほかならないのです。

今日の三つの朗読箇所は、人間的な視点や都合を、はるかに乗り越えて前進してゆく信仰者の姿勢を再確認させてくれます。キリストが神との深い一致を生き抜き、その歩みを弟子たちにも見せてくれたように、朗読に耳を傾けることによって、私たちも同じ歩みのまっただなかに招き入れられているのです。


子を遣わし、救いに飢え乾く世界を祝福で満たしてくださいました。主の 降誕を迎える私たちがその生涯にも結ばれますように 。


顕現第5主日(C年)  2019年2月10日

ルカによる福音書第5章1〜11節


イエスさまは、シモンに網を降ろし、漁をするようにと願われます。シモンは応えます。「私たちは夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。」このように応えるシモンの心には、大きな疲れと深い悲しみがいっぱいだったことでしょう。そのシモンの心に、イエスさまは大きな贈り物をされます。イエスさまはシモンが、その仲間の漁師たちが打ちひしがれているのをご存知で、彼らの心をいたわり慰めようとされるのです。そして、もう一度自分たちでやってみなさいと「網を降ろし、漁をしなさい。」と、励まされるのです。神さまのみ言葉に触れた時こころが満ち溢れる経験をした人が、世界中には沢山います。ゲネサレト湖畔でイエスさまの話に耳を傾けていた群衆も、どれほど心が満たされたことでしょう。しかしこう

った体験をしているのは人間だけではなかったようです。シモンの船の下で、イエスさまの声に耳を傾けていた魚たちも、神さまのみ言葉に満たされていました。昨夜はいなかった魚たちも、イエスさまの声がするといっぱい集まってきたのです。イエスさまに宿っている神さまは天地を創られた“主”であり、魚をはじめすべての生き物は、この主である神さまによしとされ、愛をこめて創造されたからです。イエスさまの言葉に従って、漁をした漁師たちはどうだったでしょう・・・。おびただしい魚がかかり・・・もう1そうの舟にいる仲間に合図して・・・2そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになったのです。あふれんばかりの魚がとれました!神さまの愛、神さまのみ業はいつも、あふれるほどいっぱいなのです

おどろいている漁師たちを目の前にして、イエスさまはニコニコ微笑んでおられたことでしょう。

イエスさまに出逢い、イエスさまの内に宿っている神さまのみ言葉に触れたシモンやその仲間たちは、その日から「すべてを捨てて」イエスに従って生きます。すべてを捨てて・・・それは、生活の全てに、愛をこめて生き始めた人たちの姿です。イエスさまの内に神さまのみ言葉がやどっているように、自分の内に神さまのみ言葉・愛を宿して生きる人たちの姿です。そしてそのように歩む一人一人に、イエスさまは呼びかけられます。「恐れるな」と。 


顕現第3主日(C年)  2019年1月27日

ルカによる福音書第4章14〜21節


遠方に住む人に送ったバラの花束は、相手が受け取った時に、送り主の心を伝える喜びの便りとなります。接客の仕事をしていた知人は、その日にどんなに嫌なことがあっても、ひとりのお客様からの「ありがとう」の一言があれば、残りの時間を元気に頑張れたと言います。


メッセージが相手に届き、相手がそのメッセージを受け止めた時、メッセージの持つ力が発揮されます。「貧しい人」つまり「苦しむ人」に対する神の愛のメッセージは、苦しむ人に届けられ、その人がしっかり受け止めた時に、その人を満たし、癒し、立ち上がらせます。伝えようとなさる神の側の愛が、とんでもなく本気だからです。


神の本気の愛のメッセージは、単なる言葉に留まることなく、出来事となってこの世を動かします。イエスは、その神の本気の愛の塊であり、神の本気の愛のメッセージそのものでした。イエスが人に触れると、神様の本気の愛がその人に伝わり、熱は去り、見えない目が開き、重い皮膚病は癒されました。イエスがわずかなパンと魚を祝福すると、何千人もの人が満腹してなお余ることになりました。


今日、イエスを通し、福音記者の記述を通し、司祭の口を通して、神の本気の愛のメッセージを聞く私たちが、その本気の愛のメッセージをしっかり受け止める時、私たちのくじけそうな心は励まされ、萎えた足は立ち、到底無理だと思っていた日々の課題にまた向き合う力が与えられます。


今日耳にした神の本気の愛のメッセージを私たちがしっかり受け取ってそこから力を頂き、今日からの一週間に出会う人々と頂いた神の豊かな恵みを分かち合うことが出来るよう、心から祈りたいと思います。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」というイエスの言葉が、私たちを通して、今日も実現しますように。


顕現第2主日(C年)  2019年1月20日

ヨハネによる福音書第2章1〜11節


いわゆる宴会の席でぶどう酒が足りなくなるということは致命的なことでした。大地の実りとしてのぶどうからできているぶどう酒は、人びとと大自然とを結びつけるいのちの活力として新婚夫婦の門出を祝福する宴席の象徴的な飲み物だったからです。ぶどう酒がないということは、今後の夫婦生活にあらゆる意味で祝福が与えられていないことと等しかったのです。しかし、イエスはひそかに水をぶどう酒に変えました。宴会の主催者に気づかれないように。相手の窮状を裏から支えるイエスの思いやりが垣間見えます。しかも、イエスの心を動かして貴重なわざを実現させる際の取り次ぎは母マリアによってなされました。母マリアとイエスとの連携によって、あらゆる人びとが満足し、本当によろこびを感じて宴会を楽しむことが

きました。イエスの活躍と取り次ぎ者のマリアの配慮によって生活物資の不自由さがいつのまにか解決されて生きるよろこびの豊かさが花開きました。まさに、今日の福音書の内容をくりかえし読み返すにつけて、結婚の宴にふさわしい愛情のわざが会場全体をていねいに包み込むかのような印象をいだかずにはいられません。

母マリアは絶えず気配りを怠ることなく目を光らせて宴会場を見渡し、イエスはおもいやりをこめて指示を出し、台所担当者たちは水がめに水を満たし、給仕たちは重い水がめを運び出しました。それぞれの役割は異なってはいても、連携して協力し合い、祝宴の主役たちのことを大切に助けようとする志はひとつです。神は、些細な日常の出来事の連続のなかで、あなたが困難な場面に出くわすたびごとに、しっかりと支えてくださいます。それは、今回のカナでの婚宴のエピソードからもうかがえることです。私たちひとりひとりにも神からかけがえのない役割が与えられています。神から望まれて活かされているあなたが、母マリアのように、イエスのように、台所担当者のように、給仕係のように、その場の必要性に応じて自分の

たすべき役割を見究めて動けば、きっと皆がしあわせな気持ちになるひとときが必ず実現するのではないでしょうか。さあ、思いやり深くあたりを見回してみましょう。


顕現日(C年)  2019年1月6日

マタイによる福音書第2章1〜12節


最近、星を見ましたか?

子どもたちは、小学校に入る前から習い事、小学校に入っても塾、大人は時間に追われ、仕事に追われてなかなか夜空の星を見る機会が少なくなったのではないでしょうか。星は、私たちが見ていても見ていなくてもいつも光っています。

きょうは、【顕現日】です。東方の博士たちが「お生まれになったユダヤ人の王」を探してエルサレムのヘロデ王の所に尋ねてきます。彼らは、王に「わたしたちはその方の星が昇るのを見たので、拝みにきました。」と言います。

王や王の周りにいた人々は、うろたえます。彼らは、自分たちの今の安泰な権威の座が危うくなることを恐れたのではないでしょうか。彼らは、「救い主」を待ち望んでいても、今の生活を壊されたくなかったのです。あるいは、富と権力が渦巻いている当時の社会にどっぷりと浸かっていた彼らにとって、博士たちがいう【その方の星】など、気にもかけていなかったのかもしれません。

王は、祭司長や民の律法学者たちをすべて集めてメシアはどこにいるのかと問いただします。彼らは王に「ユダヤのベツレヘムです。」と答えます。ユダヤ人たちは、「メシア」がどこに生まれるかを知っていました。知っていたのにも関わらず【その方の星】に気がつくことができませんでした。むしろ、ユダヤ人ではない【異邦人】の東方の博士たちの方が先に気がついたのです。

博士たちは、王から「ベツレヘム」と聞いて出かけて、彼らがかつて見たあの星が先に立って進み、幼子のいる場所まで来て止まるのを見て非常に喜びます。彼らは、そこに「救い主」がいることが分かっていたからです。彼らは、マリアに抱かれた【幼子】を見てどのように思ったのでしょう。

私たちにとって【その方の星】とは、いったい何なのでしょうか。私たちは、「救い主」がおられる【その方の星】が身近にあるにも関わらず気づかないだけなのかもしれません。

東方の博士たちが【その方の星】を探し求めてエルサレムまで来たように、私たちも【その方の星】を見出すことができる1年となればいいですね。


降誕後第1主日(C年)  2018年12月30日

ヨハネによる福音書第1章1〜18節


ナザレのイエスのルーツは自分の家族にある。

ガリラヤのナザレという町で敬虔なユダヤ教徒の家庭に、大工の子として成長し、イエス自身も熱心なユダヤ教徒として育った。イエスが十二歳になった時に、家族と共に過越祭に参加することになった。ところが、そのとき、両親の知らないうちに少年イエスは自分の意志でエルサレムの神殿に残った。神殿の境内では律法学者たちが問答形式で教えていた。その中でイエスは”熱心な生徒”として関わっていた。まわりの人々は少年イエスの優れた知恵に驚いていた。三日の後に神殿の境内でイエスを見つけた母マリアと息子イエスとの対話に注目しよう。「お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」母マリアとヨセフがイエスの取った行動に驚き、理解できなかったことを示していることばである。イエスの答えは両親への問いである。「どうしてわたしを捜したのですか。」また、「わたしが自分の”父のもののうちに”いなければならないことを知らなかったのですか。」少年イエスが「アッバ・父」との”親子関係”に生きることは自分にとって必然的なことであるという自覚を示し始める場面である。このことばはルカ福音書において、イエスが初めて口にすることばである。イエスはラビたちや境内の人々と同じ聖典を聞きながらも、そこから異なったメッセージや意義を聞き分けていた、皆驚いていた。母マリアもヨセフもこのイエスのことばを理解できなかった。イエスは両親と一緒にナザレへ帰る。そして、公的活動を始めるまで20年間も、彼らと共に暮らし、特に目立つこともなく、青年として、神と人々の前で知恵に満ちて成長する。ヨセフは、イエスの家族の中でも、特に目立つことなく、"大工ヨセフ"と呼ばれていた。そのヨセフのことばは、一言も福音書に記されていない。ただマタイが「夫ヨセフは正しい人だったので・・・」と記され、その心だけをほめている。そして「母マリアはこれらのことをすべて心に納めていた」。このことばは私たちを、降誕節の黙想へ招いている。イエスの母マリアと夫ヨセフは"弟子"のモデルである。


降臨節第4主日(C年)  2018年12月23日

ルカによる福音書第1章39〜45節


マリアのエリサベト訪問はマリアの召命物語(ルカ1.26-38 ) の続きであり、クリスマスの 喜びのニュースに 先立っている。神の恵みはマリアを動かす。マリアはこの招きに答える。親類のエリサベトに神がなさったしるしを見るために。みことばを聞いた弟子の “宣教のモデル”としてその喜びのニュースを他者に運ぶ。マリアがザカリアの家に入り、シャローム(=平和)の挨拶を交わす。それは日常生活を円滑 にする儀礼にとどまらず、相手への祝福となる。二人の女性、つまり二人の母親とその胎児 たちの出会いを記し、しかも 、お互いの最も深い感情を表わすこのような場面は、聖書の 他の物語には、ほとんど見られない。不妊と呼ばれたエリサベトの悲しみや屈辱の体験は 救いの喜びに変えられる。エリサベトはマリアとの出会いによって聖霊で満たされる。エリサベトは聖霊に導かれ、マリアを祝福で迎え、喜びの叫びではじめる。マリアを家で 迎えたエリサベトが口を切り、マリアとその胎児が神に祝福されていることを述べる。 「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。」相手のいちばんいいところを祝福するエリサベト。胎児たちもお互いの存在を喜びのうちに歓迎し合う。祝福の理由は主が約束してくださったことは必ず実現すると信じたことにある。マリアはひとことも話さないで、まずエリサベトのことばを心に納める”弟子のモデル”で ある。ルカは、私たちに、奉仕をする前に聞くことの大切さをいつも強調する。その後で (ルカ 1.46-56) マリアは神を賛美し、自分における神の偉大な業を感謝する。間もなく クリスマスを迎える私たちは、マリアの心に声を合わせて祈りたい。「わたし の魂は主をあがめわたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低いこの主のはしためにも目を留めてくださったからです。」「いつくしみ深く、小さなものに目をとめて下さる神よ、あなたはひとり子を遣わし、救いに飢え乾く世界を祝福で満たしてくださいました。主の 降誕を迎える私たちがその生涯にも結ばれますように 。


降臨節第3主日(C年)  2018年12月16日

ルカによる福音書第3章7〜18節


すでに、救いが実現している。――ゼファニアの預言のなかで強調されていることです。よろこびのメッセージが述べられています。このようなメッセージは、実に、イスラエル民族の待ち望んでいたことを神がかなえてくださるという真実を思い出させます。主において、よろこぶ。――パウロの書簡のなかでは、人間の自分勝手な快楽ではなく、むしろ神の恵みにつつまれて安らかに憩う状態での「よろこび」が強調されています。主イエス・キリストが私たちに示してくださった神のいつくしみにつつまれてよろこぶことが、人間らしいほんとうのよろこびなのかもしれません。分をわきまえる。――洗礼者ヨハネ自身の生き方は、まさに「分をわきまえる」ことでした。洗礼者ヨハネは、それぞれの立場の人びとから、さまざまな質問を浴びせられています。それらの問いかけに対して、洗礼者ヨハネは無理のない分かち合いを提唱しています。決して大それたことではなく、むしろ毎日の生活のなかで身近に行うことのできるふるまいを大切にすることが呼びかけられています。民衆は、洗礼者ヨハネの生き方を眺めて、「救い主が来た」という感触を得て、よろこびつつ騒ぎ立てました。しかし、洗礼者ヨハネは、「自分の役割をわきまえていた」のです。自分を誇張して、威張り散らしがちな今の世の中の人びととはまったく異なった謙虚な生き方が洗礼者ヨハネの控えめな魅力です。今日の三つの朗読は、実に、イエス・キリストの特徴を見事に言い表しています。今回は、イエス御自身は直接に登場してはいませんが、その特徴がうきぼりにされていることは興味深いものです。イエスの特徴とは、今日の三つの朗読と連動しています。――①確実に私たちを救ってくださる、②まことのよろこびに迎え入れてくださる、③謙虚に仕える者として私たちを支え励ましてくださる。それにしても、私たち自身の生き方とイエスの生き方とを比べてみると、まったく逆の現実が見えてきます。私たちの場合は、①相手を確実には救えない、②にせのよろこびのなかで自分勝手に生きている、③傲慢にも相手を従えて利用しようと、もくろんでいる。反省させられます。同時に、主イエスに助けを求めて回心していきたいとも思います。


降臨節第2主日(C年)  2018年12月9日

ルカによる福音書第3章1〜6節


降臨節の第二主日。今日のルカ福音書で、「神の言葉が、荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った」と、語られています。

ルカは、事が起きたのがいつの時代なのか明確に示すために皇帝や総督の名前を、話の始めに出していますが、神の言葉が降ったのは皇帝・総督・領主でも大祭司でもなく、ザカリアの子ヨハネにでした。

ヨハネが受け取った神の言葉はどのような言葉だったのでしょう? それについて、ルカは何一つ語っていません。神の言葉は、荒れ野で降ったからなのです。

神の言葉を受け取ったヨハネは、荒れ野を去ってヨルダン川沿いの地方一帯に行き、罪のゆるしを得させるため悔い改めの洗礼を宣べ伝えます。

ヨハネは、心一杯に受けた恵みを他の人々にも知らせ、彼らにも救いの喜びがもたらされるようにと、語り始めます。荒れ野で、空っぽだった心が神の愛にあふれるほど満たされ、ヨハネは、神の救いの訪れの準備を、自分の使命として行っていきます。

ルカは、そのヨハネの使命について、預言者イザヤの言葉を用いて説明します。

神のみ前では、すべての人が平等。低くされている人は高められ、高ぶっている人は低くされ、人々の神への思いが、まっすぐになり、人はみな、神の恵みと救いを仰ぎ見ることができる・・・。私たちは待っています。救いの訪れを。

しかし、誰よりも篤い心で、すべての人に、この恵みと救いが届けられるようにと希い待ち続けているのは天の御父です。



降臨節第1主日(C年)  2018年12月2日

ルカによる福音書第21章25〜31節


12月に入ると町はクリスマスイルミネーションが点灯され、デパートではクリスマス商戦が繰り広げられ、人々の心も何となくクリスマスを意識します。もちろん、洗礼の恵みをいただいている人も例外ではありません。私たちは、教会の中に準備された馬小屋を目にし、祭壇にはアドベントキャンドルが灯され、そして祭服の色は紫となることで降臨節ということを意識するようになります。

降臨節第一日曜日は、イエス・キリストの再臨を思い起こす福音が朗読されます。きょうのみことばの前半の部分は、何やら天変地異の記事があり人々が恐れおののく場面が書かれてあり、私たちにもただならぬ雰囲気が伝わってきます。そのような時に「人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。」とイエスはいっています。

私たちの中には、阪神・淡路大震災、東日本大震災、西日本豪雨災害などの災害を経験した方もおられることでしょう。イエスの時代から今までもたくさんの災害が起こっていますし、大きな戦争や飢饉など、「もう世の終わりが近づいたのではないか」と思われることが何度も起こっています。そのような中で人々は、希望を忘れず復興し続け前に進んで行きます。もしかしたら、この【希望】こそが【人の子の再臨】ではないでしょうか。

主の御降誕は、闇の中を照らす光です。私たちは、この光の中に【希望】を見出します。たとえどうしようもない日常の中でさえも、わずかな【光】を感じることができたら人は、幸せになり【希望】を持てるのではないでしょか。

イエスは、「人の子が目の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」と言っています。【いつも目を覚まして祈ること】は、この【希望の光】に気がつくようになるためではないでしょうか。

私たちは、毎年クリスマスを準備し「主の御降誕」をお祝いします。私たちはクリスマスを、1年に一度のイベントとしてではなく、日々の生活の中で目を覚まして祈ること、小さな光を見落とさないように祈ることを心がけて歩むことができたらいいですね。


六つめは、神を見る者としての幸福。

造られしすべてのものを、わたしは神の御手の業として見る。すべての自然、すべての物質、すべての技術、すべての技術、すべての美しいものも、醜いものもそこに神が住んでおられる。

七つめは、神の子と呼ばれる者としての幸福。

イエスが神の子と呼ばれたように洗礼によって、全生涯イエスに従いたいと望むすべての者は同じように、神の子と呼ばれる。

八つめは、一つめと同じ天の国に存在する者としての幸福。この人たちは、義のために迫害される。

天を故郷と呼ぶ者たちはいつも天に憧れている。天を憧れ、地上でもそのように生きたいと望む。

だから、ののしられ、茶化され、愚か者とされ

誰からも理解されない時が来る。その時こそ、真の幸福を受けるとイエスは言う。無償の愛を知る者として無償の愛を本気でやってしまうがゆえに、この世の損得勘定とは折り合いがつかないことがある。

それでも、天に憧れ、愛し続けよとイエスはきっとおっしゃるにちがいない。イエスは“あなたがた”と言って最上の幸福を受けとるように呼びかけられます。