礼拝堂建築着工に至るまで
1995年4月30日 ナタナエル金子光治兄の逝去
同兄の遺族は教会で葬送式を行なうことを希望され,幼稚園の休園を待って5月3日に葬送式が行なわれた。この時,幼稚園から独立した礼拝堂の必要性が痛感された。
1996年1月28日 西大和聖ペテロ教会受聖餐者総会
牧師より礼拝堂建築についての提案がなされた。
着任より7年経ち,やはり礼拝堂が欲しい。今のように保育室の一部で,幼稚園の中からしか入れないということにも問題がある。幼稚園の方からいっても,床などが劣化しており補修の必要もある。現礼拝堂を更地にし,新しく礼拝堂を建てることができないか。幼稚園にも使ってもらいたいが,第1の目的は教会として活動の拠点にしたい。天井を高くし,教会らしいもの,道路から入れるものにしたい。5000万円程度で建てられると良いと思っている。土地の問題もある。宗教法人の土地の上に宗教法人の建物を建てるとなると,学校法人の土地と宗教法人の土地との交換ということも必要になってくる。お金の問題にしても,宗教法人で建てて,学校法人に賃貸するなり,考えなければならない。ガレージ,石垣,将来の建築計画,地域福祉等々,考えねばならないことは多い。建築のための議案は,来年度の計画に組み入れるとして,そのための研究調査を承認してもらいたい。
この提案は賛成多数により承認された。
1996年2月4日 教区主教をお迎えして
週報(1996.2.11)より
先週の主日(1996.2.4)は武藤教区主教と同夫人とをお迎えして聖餐式が持たれた。武藤主教は昨年7月1日に着任されて以来,わずか1カ月半で教区内の全教会を問安され,引き続き今度は主日に全教会を訪れ,各教会で聖餐式の司式と説教とをされておられる。当教会の訪問は最後から2番目で,本日(1996.2.11)に四日市聖アンデレ教会の礼拝で全教会での聖餐式を全うされるとのことである。これは言葉で言うのはやさしいが,実際に行うとなると大変なことで,日本聖公会の全教区を見てもほとんど前例がないと言ってよいと思う。まさに,主教は教区の全教会に仕える者であるということを無言の内に語っておられるような気がする。
主教は説教の中で,どんな田舎の小さな教会でもそこに祭壇がある以上,そこに主イエス・キリストがおられ,その主イエス・キリストにお会いすることは大変な喜びであり,各教会を訪問し,そこで信徒たちと共に礼拝を捧げることは,まさに聖地巡礼にも勝る楽しい「巡礼」である,と語られた。
1月28日(日)に開催された受聖餐者総会では,来年度を目標に礼拝堂の建設ということが協議された。思えば,1971年に斑鳩の地から西大和に移ったとき,当教会は正規の礼拝堂を失ってしまった。それ以来25年間になる。その間,主日礼拝は保育室と兼用の礼拝堂で持続されてきたとはいえ,教会としての独立した活動はほとんど不能である。たとえば,聖婚式にせよ,葬送式にせよ,幼稚園の運営を妨げない範囲でしかなされず,それは非常に困難なことであった。具体的には礼拝堂への出入口は幼稚園の園庭あるいは保育室を通ってしかできない。独立した出入口がない。当然,信徒たちも,また地域の人々にとっても,園児の家庭の人々にも,西大和聖ペテロ教会のイメージは西大和双葉幼稚園に埋没している。
だからといって,西大和双葉幼稚園が25年間果たしてきた,この地への宣教的意義を過小評価するわけではない。そこには驚くべき神の恵が注がれてきた。わたしたちが計算する以上に,神の宣教の業は進められた。
しかし,25年を期に「一つの方向転換」が必要であろう。教会と幼稚園とが車の両輪のようにバランスをもって,この地への宣教の業に励まねばならない。そのためには,教会も変わらなければならないし,幼稚園も変わらなければならない。
1996年10月6日 臨時受聖餐者総会議事録
まず,牧師より近い将来礼拝堂を建設するにあたり,現在宗教法人京都教区が所有している土地(河合町星和台2-8-2)610.58uは学校法人聖ペテロ学園の所有地(河合町星和台2-8-1)1051.00uと同(河合町星和台2-8-3)318.01uとの間にあり,礼拝堂を建設するためには非常に不都合であるので,学校法人聖ペテロ学園の所有地(河合町星和台2-8-1)の一部と等価交換したい。この交換により学校法人側にも教会側にも不利益は生じないと思われる。むしろ,双方にとって将来いろいろとメリットがあると考えられる。なお,近い将来礼拝堂を建設する際には現在使用中の保育室を除去しなければならないが,礼拝堂建築後に賃貸契約を結び,保育に支障のないように充分配慮する必要がある。
続いて,審議に入り慎重に協議した結果,この旨を学校法人聖ペテロ学園側に申し出ることを議決した。なお,この決議は学校法人聖ペテロ学園理事会議を経て,宗教法人日本聖公会京都教区への基本財産の変更手続きを申請することとなる。
議事録署名人
牧師 ヨシュア文屋善明
議事録署名人 マリア平佐巴都子
議事録署名人 ダビデ小池崇司
◎この件は1996.11.23に開催された第88(定期)京都教区教区会において承認された。
1997年1月12日 西大和宣教懇談会
牧師と教会委員一同の,次のような呼びかけによってこの会は開催された。
「25年前の移転に際しては,教会のあり方と幼稚園の存続という点で,緊急な決断に迫られて,十分な合意のないまま,当地に移され,西大和聖ペテロ教会として発足しました。それ以来,当教会は礼拝堂を持たないまま,教会活動を行なってまいりました。この度,斑鳩基督教会の西大和の土地の上に礼拝堂を建て,この地での宣教活動をしたいという熱望をかなえるために集まっていただきたいと思います。主教さんを囲んで「西大和聖ペテロ教会のこれから」について自由なご意見を語り合いたいと思います」。
出席者は,武藤主教ご夫妻,文屋司祭,そして信徒12人であった。懇談会は故入井博行兄の司会によって進められた。同兄は先ず斑鳩基督教会が山の上での祈祷会からはじまり,家庭での礼拝の時期を経て斑鳩の地に礼拝堂と幼稚園を得て伝道活動をしたこと,そして,必ずしも充分な話し合いがなされないまま25年前,西大和ニュータウン内の現在地に移転し,保育室で礼拝をしてきた経緯などを語り,現在の問題として「教会の伝道が主なのか,附属幼稚園が主なのか」という点を十分に反省する必要がある。ことに,この地での教会の伝道のあり方を考え,十分な働きができる礼拝堂を建てたいと思う,と語った。
以後,自由に参加者の全員が発言をした。以下に,そのいくつかの発言をまとめる。
○牧師に任せていたら間違いないという伝統的な風土があった。新しい建物,形ができても中にいる人が0ではどうかな,と思うし,新しい建物,形ができれば人が集まるかな,とも思う。どうしたらいいかは,よくわからない。ただ,タイミングがあるかな,とも思う。
○斑鳩の教会はとてもなじみがあって,なくなったときはとても寂しい思いがあった。こちらにはほとんどなじみがない。
○斑鳩から西大和への移転については第3者で傍観者です。移転に関しては当時の信徒さんたちにはいろいろな思いがあったのだろうな,と想像します。ただ,こちらに来て,26年,司祭の熱い思いがあり,このまま中途半端な形で年月を過ごしても仕方がないと思うので,ちょうといいタイミングだと考える。
○礼拝堂を建てると考えたとき,お金のことが気になる。どうせ建てるなら,災害の時にも強い建物を建てて欲しい。
○気持ちの落ち着ける礼拝堂が欲しい。
○小さい教会だけれども,長い伝統があって,今の形になっている。この地に来て,25年,根付いているものがあると思う。幼稚園に根付いてきているものは,「教会の幼稚園」として根付いている。今,礼拝堂を建て,ここで教会があるということを示して,新たにがんばりたいので,礼拝堂が欲しい。
○お葬式や結婚式など,保育と関係なく,気を遣わずに執り行えるようになればと願う。
○今まで大きな教会ばかり行っていた。こんな小さい教会もあるんだなぁと思った。そして,小さな教会にもいいところがあると思うようになった。このような話が進んでいるのは,神の御心ではないかと思うし,器が先か,中身が先かという問題に関しては,いろいろあるかと思うが,器が先でもいいかと思う。
出席者全員の思いを出し合った後,最後に武藤主教の感想をいただいたが,斑鳩の教会ができた時のような熱い祈りが大切である,今この教会は機が熟している感じがする,とのお言葉に一同勇気と希望が増した思いで会を閉じることができた。(1998年度受聖餐者総会資料より)
1997年1月28日 バルナバ入井博行兄の逝去
礼拝堂建築の強力な推進者であった入井博行兄は,その2週間後突然逝去された。1月30日,教会で葬送式が行なわれた。
1997年4月13日 礼拝堂建築献金開始(教会内)
教会委員会では礼拝堂建築のための募金活動を以下の要領で行なうこととした。
先ず,教会員を中心に,月約献金の形式の献金袋を作り,できるだけ毎月定額で献金をしていただく。その募金目標額を今年度は30万円とする。それと並行して,礼拝堂建築募金箱を設置して匿名の自由な献金を集める。
1997年4月29日 大和伝道区合同礼拝
伝道区の合同礼拝で初めて「礼拝堂建築献金箱」を披露したところ,さっそく26,260円捧げられた。
1997年8月 トイレの移築工事
礼拝堂建設の第1歩として,保育室内へのトイレの移築工事がなされた。これにより道路から礼拝に直接出入りできる通路が開かれた。
1997年8月10日
学校法人と宗教法人との土地の交換登記手続きは無事完了。
1997年11月4日 ペテロ仲辻嘉雄兄の逝去
11月6日,教会で葬送式。仲辻兄と入井兄とは当教会の2本柱であった。同じ年にこの2人を天に送ったことは,わたしたちの教会にとって大きな痛手であった。これら2人の遺志を継いで,信徒たちのまとめ役として活躍してくれたのがヨハネ原幸雄兄であった。
1998年10月11日 臨時受聖餐者総会(礼拝堂建築の件)
第1号議案
まず,牧師より長年の希望であった礼拝堂を建築する件につき,設計士および建築業者との交渉について経過の報告があり,建築に踏み切るべき時期が来たことの説明がなされた。資金,工事期間の幼稚園の運営等について質疑がなされた。慎重に審議の結果,下記のような計画に基づき建築することを賛成多数により原案通り承認された。
第2号議案
礼拝堂を建築するにあたり,銀行その他より宗教法人京都教区の名義による借り入れをする必要があることについて牧師より説明があり,返済計画等について質疑の結果,賛成多数により原案通り承認された。なお,借り入れにあたり,担保として提供する物件は宗教法人日本聖公会京都教区所有の星和台2丁目8−16の土地でとする。
物件
1. 物件名 西大和聖ペテロ教会礼拝堂
2. 所在場所 奈良県北葛城郡河合町星和台2−8−1
3. 面積・構造 155u 軽量鉄骨1部2階建て
4. 設計 木村設計(木村雅一)
5. 施工 三崎建設(三崎岩夫)
目的 わたしたち西大和聖ペテロ教会は,1971年まで斑鳩町興留に存在していた斑鳩キリスト教会が幼稚園の都合により現在地に移転し,西大和聖ペテロ教会として新しく設立されました。それ以来,26年間幼稚園の保育室の一部を借用して礼拝を続けてまいりました。わたしたちが設立した西大和双葉幼稚園も地域社会でも「教会設立の幼稚園」として認められ,経営も安定してまいりました。このような状況において,この地に新たに礼拝堂を建築することは,現在および将来の宣教活動のために重要なことであると考えています。
しかし,現在受聖餐者20数名という状況の中で礼拝堂を建てるということのためには,今後も幼稚園の経営に大きく依存し,幼稚園との連携のもとに長期間にわたって資金計画を立てざるを得ないと考えています。
予算
建築のために必要な費用
建築費 46,305,000円 (設計管理費および消費税を含む)
礼拝用備品および内装 8,000,000円
事務,諸経費 695,000円
合計 55,000,000円
資金計画
内部積み立て 10,000,000円
教会外部募金 5,000,000円
日本聖公会融資 10,000,000円 (利息 年2.5%)
教会内部より借入 10,000,000円 (利息 年1.0%)
銀行借り入れ 20,000,000円 (利息 年3.5%)
返済計画
教会の経常費会計より年間4,000,000円を返済する。返済順位は銀行,聖公会建築融資金,教会内部よりの借り入れとする。銀行への返済額は10年返済として当初元利合計2,700,000円(概算),聖公会建築融資金への返済は,10年返済として当初元利合計1,250,000円となる。以上
1998年11月23日 第90教区会
第90教区会において,西大和聖ペテロ教会の礼拝堂建設の議案は承認された。教区会でのわたしたちの教会に対するムードは非常に暖かく,心強い励ましを受けた。この教区会の席上で原幸雄兄が募金と代祷をアピールされ多くの議員・代議員に感銘を与えてくれたが,教区会直後,癌が発病し,その年の年末入院された。
降臨節第1主日(1998.11.29) 説教 「山」 イザヤ書2:1-5
教会の暦では今日が1年の初めである。年の初めに思うことはこれから始まる1年がどういう年であり,またこの1年何を目標に生きるのかということであろう。その意味では「終わり」を考える。西大和聖ペテロ教会のわたしたちにとって今日から始まる1年は特別な年になる。先週,開催された京都教区第90教区会において,当教会の礼拝堂建築が承認された。いよいよわたしたちは始めなければならない。来年の今頃には,この場所に礼拝堂が姿を見せているはずである。
本日の聖書のテキストはそういうわたしたちにとって特別なメッセージを語っている。「主の山に登ろう」という呼びかけは,結論を先取りすると,礼拝堂に集まって神の言葉を聞こうという意味である。
「主の山に登ろう」という呼びかけは,エルサレムの神殿の廃墟の中で語られた言葉とされる。やがてここに立派な神殿が建立され,世界中から人々がここに集い,神の言葉を聞くときが来る,という希望の言葉である。イスラエルの人々にとって神殿は生活の中心である。
神殿はイスラエルのためにだけあるのではなく,世界に開かれた神の家である。誰でもそこに来て,神を賛美し,神の言葉に耳を傾け,祈ることのできる場所である。
わたしたちが建てようとしている礼拝堂も,その様な場所となるように祈る。
1998年12月 「嫩葉」(教会と幼稚園を結ぶ月報)にコラムを発表
聖堂
かつて双葉幼稚園が斑鳩興留にあった頃,そこには味わい深い聖堂が立っていた。というよりも,保育活動自体が聖堂の中で行われ,うれしいことも悲しいことも,先生たちからほめられたことも叱られたことも聖堂との密接な関係の中で営まれたのである。従って,斑鳩時代の人々にとって聖堂は特別な場所であったに違いない。
この聖堂は大正15年(1926)7月6日に聖別されている。当時としてはかなり本格的な聖堂で周囲の人々の目を惹いたと思われる。それに先だって,同じ年の6月4日,奈良県知事より「大正15年5月6日付申請聖ペテロ幼稚園設立之件認可ス」という認可証を受けている。つまり,斑鳩の聖堂の建立と聖ペテロ幼稚園の設立とは同時であった。
ところが,昭和46年(1971),斑鳩の地から西大和に移転したとき,事情により幼稚園の園舎は新築されたが聖堂を建立することはできなかったのである。経済的事情もあったであろうし,何よりもニュータウン構想そのものが宗教的なものを排除するということもあったらしい。
それ以後,教会活動は幼稚園の園舎の中で細々と営まれるという状況が今日にまで続いている。西大和双葉幼稚園が本当の意味で「キリスト教の幼稚園」となるためにも,聖堂は必要なものである。
聖堂は無言のうちにそこに来る人々にいろいろなことを語りかける。悲しいときには慰めを,いらいらするときには落ち着きを,怒っているときにはゆるしの言葉を,うれしいときには喜びの言葉を,大人にも子どもにも,語りかける。人生の節目節目に,生きることの本当の意味と,生きる勇気とを語りかける。聖堂は一見無意味な空間のようであるが,ここには人生のすべてが包み込められている。わたしたちが聖堂で静かに祈りを捧げるとき,この世界のすべてを支配し,支える偉大な力に触れる。
西大和の地に聖堂ができたとき,本当の意味での斑鳩の地からの「移転」が完了し,西大和聖ペテロ教会も西大和双葉幼稚園もこの地に据えられた神の業の拠点となる。
1999年1月27日 設計管理契約
1999年2月1日 地質調査
1999年2月12日 ヨハネ原幸雄兄の逝去
2月14日,教会において葬送式が行なわれた。牧師も信徒たちも頼りにしていた原兄の逝去は教会内外の多くの人々を驚かせた。教区会でのアピールが目に浮かぶ。
1999年3月1日
礼拝堂建築募金のための趣意書を作成し,教区内の全教会および全国の諸教会,ならびに教区の諸委員に送付し,献金をお願いした。
趣意書
世界文化遺産に指定されている法隆寺まで歩いて5分足らずという場所で日本聖公会の名によって「基督教説教会」という集会が行われたのは,今からさかのぼって91年前の明治40年5月1日(1907)です。これがこの地における宣教の始まりで,この集会で最初の洗礼志願者が生まれました。その後,次々と受洗者,堅信式受領者が与えられ,短期間の内に「龍田聖ペテロ講義所」から,「斑鳩聖ペテロ教会」へと成長いたしました。大正5年(1916)には聖堂建設のために祈りが始まり,10年の年月をかけて準備が整い,大正15年7月6日(1926),聖堂聖別式が行われました。
聖堂建築と同時に幼稚園設立の準備も進められ,聖別式と同時に幼稚園も開園されました。以後,宣教活動と教育事業とが車の両輪のごとくに平行して展開し,「いかるがの里」という日本でも有数の牧歌的な環境の中で,特に仏教の強い地方にあって,教会の一つのモデルを形成したように思われます。
しかし,戦中の苦難は当然のこととして,特に,戦後の日本社会の産業の変化,人口移動等大都市周辺に特有の変動にともない,斑鳩聖ペテロ教会と幼稚園とは大きな打撃を受けました。幸い,大和川をはさんだ地域に西大和ニュータウンが形成されるという情報により,昭和46年(1971)大きな決断により,現在の地に移転いたしました。この時,ニュータウン内に宗教施設を建てるということについて制限があり,やむを得ず幼稚園の園舎だけが建築され,聖堂の建設は将来に託されました。以後,今日まで27年間,西大和聖ペテロ教会の公祷,諸礼拝を保育室の一部で行うという状況が今日まで続いております。当然,教会固有の活動は大きな制限を受けています。
この度,やっとわたしたちは聖堂を建てようと決断いたしました。現在受聖餐者26名という小さな教会にとって聖堂建設という願いは無謀であるという意見もあります。しかし,わたしたちは今の時を逸してはこの地域における宣教活動の展望が望めないと判断しています。従いまして,困難は覚悟の上で,わたしたちこの地に遣わされている教役者,信徒は自らの精一杯のものを捧げる決意と偉大な神に対するささやかな信仰を持って決断をいたしました。
どうか,全国の主にある兄弟姉妹,わたしたちの祈りと願いとをご理解いただき,ご協力をお願いいたします。
救主降生1999年2月
1999年3月30日 着工延期
3月に予定していた礼拝堂建築の着工は,当初予定していた建築業者の辞退により延期となる。
1999年4月5日 マリア平佐巴都子姉の逝去
新しい礼拝堂の完成を待ち望み,多くの友人にまで募金の依頼をしてくれた平佐姉の逝去は,特に教会の婦人たちにとって大きなショックであった。
1999年7月5日 工事請負契約
有限会社木村設計の木村雅一氏の紹介により,タカラ建設株式会社と工事請負契約を結ぶ。
聖霊降臨後第7主日(1999.7.5) 説教 「祝宴」 イザヤ書55:1-11
1節から5節までのテキストは,神殿の聖別式の際に開催される祝賀会の招待状であるとされる。これに先立つ部分(54:11-17)では神殿建築のことが述べられている。ここで強調されていることは,神殿を建築するのは「主なる神」であり,神は設計から,資材の準備,職人の育成という建築に関するあらゆることに関与し,それを行なう主となる。神殿建築を妨げる者が現われると神はそれを徹底的に破壊される。
今,わたしたちは神殿の建築をしようとしている。しかし,これを行なうのは神である。王といえども神の僕として神殿建築のお手伝いをしているに過ぎない。この点がいいかげんになると,神殿は神殿でなくなる。神殿の建築にあたっては,わたしたちは徹底的に謙虚にならなければならない。このために多くの捧げ物をした者も,わずかしか捧げられない者も,そんなことは問題ではない。それぞれに与えられた能力,技術,祈り,捧げ物,それらすべてにおいて謙虚でなければならない。それが神殿建築の大原則である。
そして,神殿が完成したとき,食べ物も,飲み物もすべて「銀をはらうことなく」振舞われるのである。2節の言葉は一見すると「貨幣」というものについての,否定的な言葉である。しかし,それは「王の祝宴」という場面を想定すると,当然のことである。「王の祝宴」は「金を払って出席する」ものではない。ただ,王の命令に従うということだけが招待の条件である。そして,そこに出席すること自体が「名誉」であり,「いのち」である。 願わくは,わたしたちの礼拝堂の建築がそのようなものでありますように。アーメン
1999年7月18日
奈良キリスト教会では西大和聖ペテロ教会の礼拝堂建築のためにどのような協力ができるのかということについて,臨時受聖餐者総会が開催された。よその教会のためにこのように真剣に祈り協議している教会のあることを感謝し,わたしたちにとって大きな励ましとなった。
聖霊降臨後第8主日(1999.7.18) 説教「心配」 知恵の書12:16-19
13節の「すべてに心を配られる神」という表現はおもしろい。16節の「万物を支配する」という言い方とは少しニュアンスが異なる。「全知・全能の神」という言い方とも異なる。もっと身近な,もっときめ細やかな神である。弱い者には弱く,強い者には強く,悪人には厳しく,善人にはやさしい神が強調されている。
人間には「すべてに心を配る」ということは不可能である。どこかに穴があり,漏れがある。「心配りができない」のが人間である。そこに人間の「心配(しんぱい)」がある。人間の心配とは,人間の心配りの限界を示している。
わたしたちは今まさに礼拝堂の建築に着手しようとしている。これについてはいろいろに心配事がある。資金の面,工事の期間の面,工事中の安全の面,全てのことでわたしたちは心を配り,完全を目指している。しかし,どこかに「無理」があったり,「漏れ」があったり,見落としていることがあるだろうということは予想している。変な予想であるが,それが現実である。わたしたちはその時,素直にそのことを認め,誠実に対応しなければならない。しかし,それ以上になすべきこと,必ずなすべきことがある。それが「祈り」である。
わたしたちの心配を克服する唯一の道は祈りである。「すべてに心を配る神」への祈り,これだけがわたしたちの心配を克服する。
着工から完成まで
以下,着工から完成まで「週報」および「嫩葉」(教会と幼稚園とを結ぶ月報)に掲載された報告を転載する。
7/25
7月20日より,現在の礼拝堂の解体工事が始まり,土曜日に解体工事は終了しました。今まで存在した建物が実際になくなると寂しさを感じますが,ここに新しい礼拝堂が建つという希望がその寂しさを克服します。27日から基礎工事が始まります。建物にとって「基礎」は,完成しますと見えなくなりますが,最も重要な部分です。
8/1
7月26日(月)午前10時より,教区主教をお迎えして礼拝堂建築の起工式が行われました。起工式には浦地常置委員長,原田常置委員,久保財政局長,三浦司祭も参加し,設計管理の木村雅一氏,工事をするタカラ建設の藤田治彦社長,設備を担当する岡崎工業の岡崎征夫氏,現場監督の飛田富士男氏等も加わり,工事の安全を祈りました。
27日から基礎工事が始まりました。基礎工事は想像していた以上に大工事で,不要な土や岩を10トンダンプで20台ほど運び出し,建物の床より5,6メートル下の部分をコンクリートで固めています。これが基礎中の基礎で,建物にとって最も重要な部分です。
8/8
基礎の鉄筋工事が終わりました。しっかりとした岩盤の上に頑丈の鉄筋組,これにさらにコンクリートが流し込まれるとは,驚異です。これならどんな地震がきても大丈夫だと思います。
13日から16日までコンクリートの固まるのを待ちつつ工事はお休みになります。
8/15
17日から基礎工事の仕上げが始まります。コンクリートの枠をはずし,園庭に積み上げられている土を埋め戻し,鉄骨の組み立てがなされる予定です。いよいよ礼拝堂の姿が見えてきます。
聖霊降臨後第12主日(1999.8.15.) 説教「家」 イザヤ書56:1-7
主イエスのご生涯の中で,最も主イエスらしくない行動はいわゆる「宮清め」の事件であろう(マルコ11:15以下)。ここには暴力的な主イエスの姿が描かれている。この事件については,4つの福音書がすべて語っており,しかもこのことが主イエスが十字架刑になる直接的原因とされているので,かなり信憑性は高いと思われる。主イエスがこの様な行為に至った根拠として,ヨハネを除く共観福音書はすべてイザヤ書の56章の7節をあげている。
主イエスの目には当時の神殿が「強盗の巣」に見えたらしい。「強盗の巣」とは一部の特権的な人々が利益を生む場所という意味である。本来,すべての民にとっての祈りの家であるべき神殿が,一部の人々に独占されている。
本日の旧約聖書のテキストが語ろうとしているポイントは,「誰でも,異邦人でも,宦官でも神殿に連なり,祭壇で献げ物を献げる人はすべて,それを受け入れる」ということである。そういう意味で神殿は「すべての民の祈りの家」と呼ばれるのである。
今,わたしたちは礼拝堂を建築し,神に捧げようとしている。このためにわたしたちはいろいろと苦労をしている。そしてその苦労は建築資金をすべて返済するまで続くであろう。しかし,わたしたちがどれほどそのために苦労をしたからといって,礼拝堂を「わたしたちのもの」と考えるとしたら,それは災いである。礼拝堂はすべての人々の,とくにこの地に住む人々の安らぎの場所であり,人生を考える場所であり,喜びと悲しみとを分かち合う場所であり,何よりも「祈りの家」である。わたしたちはその宮の「宮守」にすぎない。
8/22
鉄骨が組み立てられました。礼拝堂の姿が見えてきました。十字架が取りつけられるタワーも取りつけられました。思ったよりもはるかに立派で,ここで礼拝をする日が待ち遠しい思いです。今週は,ALC(外壁)がはめられ,2階部分のコンクリート床の工事がなされます。
8/29
鉄骨の外側に足場が組立てられ,安全カバーで全体がすっぽりと包まれてしまいました。この足場がはずされるときが楽しみです。カバーの中では床の下準備やALC(外壁)取付け用の金具が取り付けなど,地味な工事が進められています。工事の進展に合わせて,水道や電気ガスなどの線やパイプが埋め込まれて行きます。建物とはこういうふうにしていろいろな職種の人たちが協力して建てられるのだと感心いたします。
9/5
礼拝堂の床の下地コンクリート打ちが終わりました。ハッキリと会衆席とチャンセルとが姿を見せました。ALCの外壁も一部取り付けられました。ALCという建材は,水よりも軽く,コンクリートよりも断熱・吸音効果があり,十分に強度もあり,理想の外壁と言われているものです。しかし,値段が高いということで使用することをあきらめておりましたが,建築業者のはからいにより,当初予算の範囲で使用することができました。感謝。今月の終わり頃には地上12メートルのところに,縦2.5横1メートルのステンレス製の十字架が設置される予定です。
管区建築融資金委員会より礼拝堂建築資金1千万円(借入)が送金されました。10年返済です。感謝。
9/12
壁の取り付けもほぼ完了し,窓や出入口が姿を現わしてきました。もうすっかり,礼拝堂のようです。今週から屋根の工事が始まるとのこと。目立ちませんが,大きな工事をぬって,電気や水道,空調や音響等の設備工事も進行しています。
先日はステンドグラスの作家にも来ていただき,相談いたしました。工事現場で考えたことは,建築資材や技術は日進月歩で,石作りの礼拝堂からレンガ作りの礼拝堂へと建築技術が進歩したときと同じように,この礼拝堂は今までにない新しい技術によるものだということで,決して安物ではないということです。ALCは「現代のレンガ」です。
9/19
屋根の工事が始まりました。下地になるベニヤ板も八分通り張られています。礼拝堂後部のローズウインドウが十字架の塔とマッチしています。内部の足場の組立てが終わりました。いよいよ,今週から内部工事にかかるようです。清水伯夫氏から美しいステンドグラスのスケッチが届きました。世界で最古の礼拝堂ステンドグラスをヒントにした意味深いデザインです。
9/26
屋根の工事が終わりりました。内部の天井工事が始まりました。ガラスは入っていませんが窓のサッシも取り付けられました。目下,正面のデザインとハモンドオルガンのスピーカーの配置について設計者と相談しています。新しい礼拝堂では,ステンドグラスとハモンドオルガンB-3が特徴となりそうです。
9/29
礼拝堂建築は順調に進んでいます。去る9月29日には園児たちが讃美歌を歌う中,十字架が高々と設置されました。それ以後,地上12メートルのところから園児たちを見守っています。ちなみに9月29日は子どもたちを様々な災害から守る天使,聖ミカエルの記念日でした。外壁は塗装も終わり,周囲の目を引く「薄ダイダイ色」に輝いています。
東側の教会玄関は「地域に開かれた教会」にふさわしい構えを見せています。
特別に美しいのは園庭側から見た「丸窓」で,ここにはぜひステンドグラスをはめたいと願っています。
外からは見えませんが,内装工事も8割ほど完成し,10月23日にはみどり組の壁が取り除かれ,合体工事が始まりました。11月14日のバザーの日までに聖堂そのものはほぼ完成する予定です。(「嫩葉」11月号より)
10/3
内部の天井の吹き抜けの部分の下張りが完了しました。とても高く,気持ちの言い礼拝堂になりそうです。今週月曜日にステンドグラスの寸法取りが行なわれます。ハモンドオルガンはオーバーホールのため楽器屋に運ばれました。礼拝堂玄関の屋根の工事が始まりました。とても素敵な玄関になりそうです。足の不自由な人々のためのリフトの玄関の工事も始まりました。
礼拝堂を幼稚園の園庭から見ると,十字架と丸窓とのバランスがよく,夜,礼拝堂内の光が丸窓から漏れて見えるのが,いかにも礼拝堂という感じが出ています。
(「嫩葉」10月号)
目下,聖堂の建築が急ピッチで進んでいる。すでに,十字架を取り付けるための塔が立っている。地上12メートルの塔の上に縦2.5メートルの十字架が立てられる。十字架はキリスト教そのものを示す象徴である。十字架が立っているところにキリスト教がある。もっとも,最近では男も女もアクセサリーとして十字架を胸にぶら下げているのが見られる。わたし自身は十字架を胸にぶら下げるセンスがない。というより,恐れ多くて,そんなことができない。
十字架とは,当時考えられた最も苦しい処刑方法である。痛さと恥ずかしさとの極み,それが死の直前まで続く。イエスはこの方法で処刑された。だから,キリスト教のシンボルとなった。
キリスト教とは奇妙な宗教である。十字架刑によって処刑された一人の人物を神と崇め,彼を信じることによって永遠の生命が与えられたと,語る。そこにはロマンティシズムが入りこむ余地がない。言葉に出して言えば,パラドックス(逆説,不可解)以外の何ものでもない。
ところが,この十字架を信じた人々が世界の各地で驚くべき仕事をする。日本に幼稚園というものを持ち込んだのも十字架を信じた人々であったし,そもそも幼稚園という事業を世界で最初に考え実践したフレーベルもキリスト者であった。どこに,そんなパワーがあったのだろうか。十字架に従って生きた人々の生き方を探ってみると,十字架のパワーの秘密は,「自己のために生きるのではなく他者のために生きる」ということにつきるようだ。
わたしたちの教会が十字架を町の中に高くかかげるということは,ここにそういう生き方をしたいと願い祈っている人々がいるということの宣言であり,また共にそういう生き方をしましょうという呼びかけでもある。
西大和双葉幼稚園は「キリスト教の幼稚園」である。だからと言って,ここに通うすべての園児をキリスト者にするというのではない。しかし,少なくとも「自己のために生きるのではなく,他者のために生きる」ということが,真に生きることであり,またそこに「生命への力」の秘密があるのだということを教えたい。
「十字架の言葉は,滅んでいく者にとっては愚かなものですが,わたしたち救われる者には神の力です。」(コリントの信徒への手紙T1:18)
(京都教区報「つのぶえ」)
西大和聖ペテロ教会の信徒たちの悲願は,いつでも祈れる聖堂と,その屋根の上に輝く十字架を立てることである。伊藤司祭が牧師のとき,園舎の上に十字架が取り付けられ,ライトアップもされた。しかし,聖堂はなかった。いつでも祈れる聖堂のない十字架はさびしい。
わたしたちが生活の中で行き詰まったとき,重大な決断をしたりするとき,あるいは人間関係に疲れてひとりで休みたいとき,悩み苦しむとき,十字架の元に立ちかえり,休み,祈りたい。そして,十字架が示す道を求める。十字架と祈りとは深く結びついている。
「十字架の言葉は,滅んでいく者にとっては愚かなものですが,わたしたち救われる者には神の力(ダイナマイト)です。」(コリントの信徒への手紙T第1章18節)
十字架のどこに,そんなダイナマイトが隠されているのだろう。十字架に従って生きた人々の生き方を探ってみると,十字架の秘密は,「自己のために生きるのではなく他者のために生きる」ということにつきる。
わたしたちの教会が十字架を町の中に高くかかげるということは,ここにそういう生き方をしたいと願い祈っている人々がいるということの宣言であり,また共にそういう生き方をしましょうという呼びかけでもある。
10/10
礼拝堂内外のサッシ類がほとんど取り付けられ,ガラスもはめられました。これで建物としての基本的なものは完成です。内装工事もかなり進んでいます。天井板の取付け工事も始まりました。今週はいよいよ外壁の塗装と仕上げ工事にかかる模様です。これが完成しますと,外側の足場が取払われ,礼拝堂の全容が現われます。まさに顕現です。
聖霊降臨後第20主日(1999.10.10) 説教「成就」 イザヤ書25:1-9
「あなたは驚くべき計画を成就された」という言葉の前は,今のわたしたちすべてに与えられている神の驚くべき宣言である。もう,わたしたちの計画は成就した。否,「わたしたちの」ではなく,「神の計画」である。神がこの地に礼拝堂を建てようと計画されたその計画が成就した。
誰が考えても,わずか20数名の教会が5,500万円のお金を集めて礼拝堂を建てるということは無理な話である。「建てよう」などと決議すること自体が非常識である。それでもわたしたちは「何かに憑かれた様に」決意した。決意し,計画を進めながらも,「やっぱり無理だ」と何度思ったことか。
何回か,計画を取りやめる「言い訳のチャンス」もあった。しかし,一方で「これは神の仕事」である,という思いも断ち切ることはできなかった。礼拝堂の建築を夢見ながら亡くなった信徒たちの思いも重くのしかかっていた。「逃げたい」という気持ちと「逃げてはならない」という気持ちが瞬間瞬間わたしの心を行き来する毎日であった。8月の末頃,やっと,目処がついた思いがした。9月の1日になって,だんだん礼拝堂の姿が見え始めた頃,募金の方も順調に進み,何か難関を乗り越えたという気持ちになってきた。
わたしたちは,これ以後この礼拝堂を見るたびに,誰に対しても,どういう場面であっても,永遠に,「主よ,あなたはわたしの神,わたしはあなたをあがめ,御名に感謝をささげます。あなたは驚くべき計画を成就された。遠い昔からの揺るぎない真実をもって」と語りつづけよう。なぜなら,それが,ただ一つの真実だからである。
もちろん,わたしたちは神のこの計画に参与し,協力してくれたすべての人々にも感謝をしなければならない。ただ,わたしが今思うことは,この計画に協力してくれたすべての人々を神は必ず祝福してくださるに違いない,という確信である。
同時に,今後,日本全国のどこかで礼拝堂やそれに準じる事業が計画され,その協力を要請された場合,たとえわずかでも積極的に協力するという決意をしたいと思う。それが,わたしたちの「感謝の気持ちの現われ」である。礼拝堂の建築に協力することは,捧げるものにとっても大きな祝福の元であるということをわたしたちは経験したからである。
10/24
礼拝堂の外側は,玄関の仕上げを除いてほぼ完成しました。「薄ダイダイ色」の壁が美しく輝いています。廻りの環境に穏やかに存在感を主張しています。
内部では,保育室の壁が取り除かれ,教会と幼稚園とが合体しました。2階の部屋も壁や窓が出来上がり,3階の「ヘブン」の床も取り付けられました。今週から,内部の塗装と仕上げ工事が始まります。
11/7
礼拝堂の内部も大工仕事はほぼ終わり,後は塗装関係,壁の仕上げ,設備工事が残っています。今週には十字架のライトアップもできそうです。新しい礼拝堂のベンチは20日過ぎに出来上がる予定です。毎週礼拝後に椅子の片付けをしなくて済みそうです。祈祷書や聖歌を置くための台もあり,エンジ色のニーラーも50人分準備できています。
祭壇や説教台など礼拝用の家具類は,マーレー司祭に作ってもらうことにし,すでに注文しています。クリスマスまでにはすべて整う予定です。
隣接する保育室の壁も,つなぎ面の仕上げのみなりました。
11/21
礼拝堂の工事はほぼ終わり,明日「建築検査」を受ける予定です。検査に合格して後,少し手直しの工事をして11月末には「引渡し」ということになります。礼拝堂の長椅子とステンドグラスは24日に取り付けられる予定です。祭壇や説教台など礼拝用の家具類は,12月5日に完成予定。
次主日から新しい礼拝堂で主日礼拝を守る予定です。
降臨節前主日(1999.11.21) 説教「牧場」 エゼキエル書34:11-17
本日は教会暦の最後の主日で,この主日は「王なるキリストの主日」とも呼ばれる。その意味はキリストにおいて歴史の究極における救いがもたらされるという信仰の告白である。毎年,1年を締めくくる意味で,この主日において「王なるキリスト」を記憶する。
特祷に見られる「王の王,主の主」という言葉はヨハネ黙示禄からの引用である。17章14節にはこういう言葉がある。「この者どもは小羊と戦うが,小羊は主の主,王の王だから,彼らに打ち勝つ。小羊と共にいる者,召された者,選ばれた者,忠実な者たちもまた,勝利を収める。」また,19章16節には「この方の衣と腿のあたりには,「王の王,主の主」という名が記されていた。要するに,黙示禄が述べようとしていることは,主イエス・キリストの「最後の名」は「王の王,主の主」ということである。
本日の旧約聖書では,イスラエルの本当の王は「民を安全なところに集め,豊かな牧草で養う者」であることが述べられている。偽りの王は「民から搾取し,民を散らす」者である。現実の王はほとんど「偽りの王」である。しかし,本当の王が来るとき,わたしたちはすべての「偽りの王」から解放される。「偽りの王」の圧制の中で苦しむ人々は「来るべき本当の王」の到来を待ち望み,その希望の中で生きた。
わたしたちは次ぎの主日,つまり新しい年の最初の礼拝を新しい礼拝堂で持つことになるであろう。礼拝堂はすでに完成している。礼拝堂はわたしたちを待っている。わたしたちが新しい礼拝堂を待ち望んだ以上に,礼拝堂がわたしたちを待っている。願わくは新しい礼拝堂がわたしたちにとって「良い牧草地」になるように。わたしたちがそこで「憩い,良い牧場と肥沃な牧草地で養われるように」祈りたい。
11/28
美しいステンドグラスが入りました。モチーフは「アルファとオメガ(始と終)」です。検査の結果の手直し工事は今週中に終わる予定です。「引渡し」は12月3日の予定。その後,1週間ほどで第2次工事をいたします。
教区会では,原兄の逝去記念の代祷を捧げ,礼拝堂献金の最後のお願いをいたしました。
12/5
予定通り,12月3日に礼拝堂の「引渡し」が行なわれました。後は,検査の結果を待って,第2次工事を行ないます。3日,引渡しと同時にハモンドオルガンのスピーカーが設置されました。とても美しい響きが礼拝堂内に響き渡ります。4日には,祭壇,聖卓,説教台,聖書台,洗礼台等が入りました。とても,素朴でわたしたちの教会にふさわしいデザインです。
12/12
予定通り,12月11日に礼拝堂の放送設備一式が設置されました。また,正面の十字架も新品同様に輝きを取り戻して納められました。古い礼拝堂から引き継がれたものは,聖歌番号版と正面の十字架です。聖歌番号版は斑鳩時代から引き継がれている物です。
12/19
新しい礼拝堂がどんなふうにできていくのか,ずっと見守りつづけていた日曜学校の子どもたち,先日,完成間近の礼拝堂に入りました。みんな,本当にうれしそうに,あちらこちらを眺め,ステンドグラスを見つめていました。
この礼拝堂で子どもたちが身体で感じ,耳から聴き,目で見つめたものを大切に育ててほしいと思っています。(「嫩葉」12月号)
12月16日に礼拝堂の建築確認の検査済証がおりました。
12/26
12月23日に礼拝堂にリフトが取りつけられ,三階のヘブンの部屋も完成しました。29日には残りのステンドグラスが取りつけられる予定です。設計者と建築業者への最後の支払いもすべて年内に済ますことが出きる予定です。募金の方も,みなさまがたのご協力により,すべての項目において予定をはるかに超えるものが与えられ,借入金も当初予定していた4千万円を3千万円で収めることができました。また,管区からの借入金1千万円につきましては,利息2.5%が先日の委員会におきまして,1%に引き下げられ,返済がそれだけ楽になりました。感謝です。
クリスマスイブには,ご近所の方々や幼稚園の関係者が大勢参加して,とても素敵な礼拝を持つことができました。総参加者44名。
この礼拝堂を神さまにお捧げするに際して
ナタナエル金子光治兄,彼は自らの葬送式を教会の礼拝堂でしたいと願い,遺族もそのことを心から望んだ。保育室と兼用という当時の状況の中で,幼稚園の休みを待って,葬送式は執り行われた。この出来事は何にも増して礼拝堂の必要性をわたしたちに語ってくれました。また,バルナバ入井博行兄,彼は西大和の地に礼拝堂を建てるという願いを宣教の課題として捉え,信徒たちの心を一つにしてくれました。ペテロ仲辻嘉雄兄,彼は教会の最長老として牧師を支え,「斑鳩の信徒」と「西大和の信徒」を結ぶかなめとしていつも笑顔を絶やさずわたしたちの心の支えでした。彼は新しい礼拝堂を待ち望みながら不便な礼拝堂で神さまの懐に帰って行かれました。ヨハネ原幸雄兄,彼は次々と天に召される教友たちの遺志を継ぎ,礼拝堂建築を自らの使命として受け止め,設計に,募金に,まさに教会の中心として働いてくれました。彼もまだ「形のない礼拝堂を望み見ながら」天に召されました。最後に,マリア平佐巴都子姉,彼女は礼拝堂建築,特に募金ということで強力な推進者でした。病床の中から多くの友人たちに電話をし,手紙を書き,熱心な祈りを捧げてくれました。彼女の祈りがなかったら,今日のこの喜びはまだまだ遠いものであったでしょう。わたしたちは,今日この礼拝堂を神さまに捧げるに際して,これら5人の教友たち信仰と証しを覚え,末永く記憶したいと思います。
礼拝堂を設計するにあたり,考慮に入れたことの一部をご紹介します。
階段を上りにくい人に配慮すること。
・正面玄関階段下からホールに上がるエレベーターをつけました。
附属幼稚園の通常の礼拝や,諸行事に対応できること。
・道路側(礼拝堂右側)の正面玄関と別に,後ろ,左前後に出入り口を設け,段差をつけず園舎と直結しました。園庭からの出入りもできます。礼拝堂内から園庭を見ることができるための窓も設置しました。
・大人サイズの会衆席ベンチに加え,子どもサイズのベンチを設計してもらい,設置することとしました。
収容人数を使用目的に応じて変えられること。
・1階には可動式間仕切りを設け,礼拝堂とホールを分けています。礼拝堂には48人分の会衆席と,子ども用ベンチを設置しています。可動式間仕切りを開けると,段差なしの空間が現れます。スタッキングチェアーも60脚用意しました。
・2階ギャラリーは,強化ガラスの壁で礼拝堂に面しています。一部開閉可能で,2階席としても利用ができますし,集会も可能です。キリスト教関係を中心に絵本や児童書をそろえ,子どもたちがゆったりと過ごせる空間としても使用します。
すでに天に召されたきょうだいたちを記念する場所をつくり,共に礼拝を守っている実感がほしいこと。
・2階席の上に,「ヘブン」という部屋を作り,礼拝堂側に透明度の高いステンドグラス「昇天」を配置しました。また,南側からはローズ・ウィンドウを通してやわらかな光が差し込みます。この部屋には逝去者の写真や愛用の聖書などを置くスペースを設けています。夜には,照明によって礼拝堂側,ローズ・ウィンドウのステンドグラスが内側から照らされることになります。
教会の存在を地域に強くアピールしたいこと。
・地上12メートルの高さに十字架をかかげ,夜には照明で前後から照らすようにしました。角地に立つクリーム色の礼拝堂は,想像以上に目立つ存在になりました。夜には,十字架が照らされると共に,ローズ・ウィンドウも輝きます。
当教会の礼拝堂で特徴的なのは,特にステンドグラスとオルガンです。
ステンドグラスについて
外部の光は,イタリア製の黄色いガラスと,青色主体のステンドグラスから取り込まれます。ステンドグラスは正面に2面,礼拝堂最上部ヘブンとの間に1面,後ろの壁に1面(ローズ・ウィンドウ)があります。すべて手吹きガラスで,微妙な凹凸や気泡,グラデーションが,さまざまな表情を醸し出しています。
ここにはそれぞれ簡単な解説を載せましたが,作者である清水氏のコメントを併せてお読みください。
正面オールター左右「 A(アルファ)・W(オメガ)」
おのおの上中下3つにわかれ,上段は無秩序な状態,中段は神のことば,下段は秩序正しく創られた世界を表します。神のことばの中心には,ギリシャ語のアルファべットの最初の文字「 A(アルファ)」,最後の文字「W(オメガ)」が隠され,始めから終わりまで存在している神を象徴しています。
透明度の高いガラスで構成されており,外の風景と模様が一体化しますので,天候や時間,季節ごとに違った表情を見せます。
アルファ オメガ
礼拝堂とヘブンの間「昇天」
イエスの昇天をモチーフとし,礼拝堂最上部に位置する三角形のステンドグラスです。ローズ・ウィンドウからの光を礼拝堂に導き,逝去者とともに礼拝をしていることを象徴するものです。
ローズ・ウィンドウ「三位一体」
聖アグネス教会の,美しいローズ・ウィンドウをアレンジしたものです。淡い緑主体の構成で,礼拝堂内部からは見えませんが,ヘブンに入ったとき,また外から調和のとれた美しさを見ることができます。
アグネス教会では木の枠になっているところも,ガラスでアレンジしてあります。
オルガンについて
ジャズからクラシックまで幅広く利用されてきたハモンドオルガンの名機B−3に,シアターや教会用の大型スピーカーを2つつなげて設置しています。以前から使用してきた組み合わせですが,今回はスピーカーを壁に埋め込む形にしました。真空管のアンプを新品に組みなおすなど,この機会にオーバーホールもいたしました。
B−3は1955年から1974年まで製造され,ハモンドオルガンの最高傑作と言われています。当教会のものは1960年代前半に製造されたものだと思われ,特殊な方法でアナログ的に音を作りだし,真空管で増幅し,22個のスピーカーユニットを鳴らしています。古い楽器ですが,さまざまな表情を持つこのオルガンの音色は,賛美の心を活き活きと引き出してくれます。
ハモンドオルガン B-3 とは
ハモンドオルガンの原型「モデルA」は,1935年に,アメリカの時計職人ローレンス・ハモンドによって公開されました。彼は100以上の特許を持ち,立体映画やバッテリー充電器などを含むたくさんのものを発明した人でした。もともとこのオルガンは,パイプオルガンの音を電気的に再生することと,ローレンス・ハモンドの発明品であるシンクロナスモーターを活用できないか,といった目的のために作られたのです。
最初の客は自動車王ヘンリー・フォードでした。展示会で即座に6台注文したと言われています。
改良されつづけた結果,最高傑作といわれるオルガンが1955年に発売され,ロングセラーとなります。これがB-3です。トーンホイール・ジェネレーターと呼ばれる独創的な音源も完成しました。それは,ハモンドの発明した一定の速度で回転するモーターに,96枚の大きさが違う歯車を並べ,ピックアップによりわずかな電圧の変化をとらえ,増幅して音にするものでした。作り出された音は,ドローバーを組み合わせることによって,パイプオルガンでストップを引くのと同じように音色を作り出し,真空管によって増幅された音がスピーカーから出ます。
その音は,当時の人たちにとっては驚異的なもので,パイプオルガンと聞き比べても,音色の区別がつかなかったそうです。
このような特殊な仕組みですので,はじめはなかなか「楽器」と認めてはもらえず,やっと市民権を得たときには,「ピアノ」や「ヴァイオリン」などと同じく「ハモンドオルガン」という一つの楽器名が与えられました。
B−3は今でもジャズ,ゴスペル,ポピュラーミュージックなどに特に好んで使われる楽器ですが,同じ構造のものを作ることはコストの面などから不可能です。現代では,コンピュータ技術を使い,いかにB-3に近い音を出せるか,という開発競争がハモンド社を含む各社で繰り広げられているほどで,程度の良い本物のB−3はとても貴重なものです。