教会用語豆辞典
以下の豆事典は、西大和聖ペテロ教会の週報の空欄を利用して教会特有の用語についてできるだけ簡単に解説したものです。かなり主観と偏見とがありますので、決して学問的な文章には引用しないでください。(司祭 ヨシュア 文屋善明)
(1)教会
「教会」という言葉は、現在では完全に日本語になっていて、天理教などでも使っていますが、本来はキリスト教が日本に入ってきてから、キリスト教の礼拝所や信徒の集団を言い表す言葉として造語されたものである。(あるいは、中国語の移入か)それはともかく、「教会」という言葉はchurch、ドイツ語のKircheの訳語で、元々はギリシャ語のekklesia(エクレーシア)に由来する。古代ギリシャではこの言葉は「市民たちの集会」というような普通の意味で用いられていたものである。しかし、キリスト教界では、この言葉の原意「集められた者」という意味を重視し、教会を「神によって呼び出された者たちの集団」というように理解している。
日本語で「教会」という場合、「教」という言葉が含まれているので、どうしても「教え」が中心になり、教会活動に誤解が伴う恐れがある。教会は決して教える場所ではなく、「集まる人たち」である。(2000.5.14)
(2)祈祷書
世界中の聖公会をローマ・カトリック教会やプロテスタント諸教会と区別する特徴は「祈祷書」の使用ということであろう。最初に祈祷書が編纂され出版され使用されたのは1549年3月で、昨年はちょうど450年目にあたり、英国や米国の聖公会ではお祝いをしたとのことである。
最初に出版された祈祷書のことを「第1祈祷書」と呼び、その後何回も改定され、各国に翻訳され今日に至っている。「第1祈祷書」の正式の名称を直訳すると「英国国教会の典礼による公祷と聖奠の執行、その他教会の儀式の書」となる。
ここで公祷と訳されている言葉は common prayerで、祈祷書のことを短く「コモン・プレイヤー」と呼ぶ場合もある。このcommonという意味はいろいろに訳されるが、最も一般的な訳は「庶民の」という意味である。その意味から聖公会の祈祷書は「庶民のための庶民の祈りの集約」として編纂されたものである。(一寸、言い過ぎかな?)(2000.5.21)
(3)日本聖公会総会
日本聖公会の最高決議機関で、定期総会は2年ごとに開催される。議員には全部の現任主教(11名)と、各教区の教区会で選出された聖職代議員2名と信徒代議員2名とで構成される。(議決権を持つ議員は総計55名)
なお、重要議案については、主教議員と聖職・信徒代議員とで別々に採決し、両方で一致しないと議決されない。その意味で、総会は2院制をとっていると考えられる。
法憲法規の改正、祈祷書の改正等重要議案については、2回の総会の議決を経なければならない。第1回目の総会決議を「協賛」と呼ぶ。(2000.5.28)
(4)神の国
聖書において「神の国」という表現には、終末論との関わりの中で、いろいろなふくらみがあり、単純に定義できない。しかし、その中心的な意味は明確で「神の支配」を意味している。
国という表現には常に「王」という観念が伴う。主イエスはポンテオ・ピラトから「あなたはユダヤ人の王なのか」と質問され、「わたしの国は、この世には属していない」と答えておられる。(ヨハネ18:36)ここに主イエスの「神の国」理解の一つのヒントが隠されているように思う。「神の国」をこの世に実現しようとする時に「人間による人間の支配」が発生し、「人間の神格化」という危険な思想となる。宗教改革者たちがローマ・カトリック教会に「No!」をつきつめたのもまさにその点であった。(2000.6.4)
(5)ヨベルの年
英語では「ジュビリー jubilee」と読み、旧約聖書においては「ヨベル」といい、雄羊の角を意味し、転じて雄羊の角で作られた楽器を意味する。イスラエルにおいて50年目ごとに守られたとされる「自由解放の喜びの年」(「ヨベルの年」という)の贖罪日(ユダヤ暦7月10日)にヨベルのラッパを吹き鳴らし、その瞬間、すべての負債は帳消しになり、すべての奴隷は自由にされた。実際にこの制度が実行されたかは明白ではないが、社会の一つの理想を目指している。しかし、現実的には「ヨベルの年」が近づくと、「貸し渋り」や高金利などがおこり、貧しい人々は苦労したようである。理想社会の実現というものは難しいものである。(2000.6.11)
(6) のがれの町
時間系列での「ヨベルの年」(自由解放の年)を空間的に作り出しているのが「逃れの町」である。過失で人を殺してしまった人を復讐から守るために指定された町で、パレスチナのどこからでもあまり遠くないように定められていた。(1日路で到着できる距離)そこに逃げこめば正しい裁判を待つことが出来た。大祭司が死ぬまで、つまり一つの時代の終わりまでそこに住むことが出来た、というような規定もある。(民35:25以下)
実際にはどの程度まで機能していたのかは、明かではないが、元来は「祭壇」つまり聖所がその働きをしていたが、それが町まで拡大して考えられたとする。日本での「駆け込み寺」を老若男女にまで広げたものを想像すれば良い。
人間が決めた法規やルールには必ず欠点がある。古代イスラエル社会に、その欠点を補い、社会的弱者を救済する制度として、「ヨベルの年」や「逃れの町」などがあったことは注目に値する。しかし、そのための制度さえも、「法の抜け目」を見つけ出して我欲を貫く人間の業にもあきれる。(2000.6.18)
(7) 堅信、別称「信徒按手」
英語ではconfirmation。信仰を確かめる(コンファーム)という意味で、本来は「幼児洗礼」との組み合わせで意味を持つ。洗礼とは本来本人自身の「信じる」という決断に基づく典礼であるが、幼児の場合にはそれがないままに両親と教父母が本人に代わって決断し、将来その子どもを信仰へと導くという約束において行われる。そこで、将来その子どもが成長し自分自身で判断できるようになった時点で、幼いときに受けた幼児洗礼を受け入れるのか、否かという決断が本人に要求される。従って、幼児洗礼を受けたものが留保されていた信仰の決断をすること、それによって洗礼という典礼が完成する。(2000.6.25)
(8) 堅信、別称「信徒按手」
先週に引き続いて「堅信」についての続編。堅信式は本来洗礼式に含まれるべきもので、洗礼を受けた人を教会の交わりの中に迎え、本人は教会の一員となって責任を分担することを表明する式である。
この場合の「教会」とは一つの「地方教会」ではなく、「キリストの身体」の枝としての教会を意味し、聖公会ではその具体的な現われを「教区」に置く。つまり「教区教会制」である。従って、信徒の頭に手を置く権威を教区主教に限定している。その結果、洗礼式と堅信式とが分離することとなった。
現行の祈祷書では二つの式は「入信の式」として組み合わされ、「水と聖霊の洗礼によってキリストの死と復活にあずかり、祈りと按手により聖霊によって強められ、神の民として教会の交わりに迎え入れられる」と説明されている。(2000.7.2)
(9) 教名、別称「洗礼名」
キリスト者の中には、通常の姓名の他にヨハネとかペテロとかマリアというような「名前」を持っている人たちがいる。これが「教名」または「洗礼名」と呼ばれるもので、その人が洗礼を受けた時に主に「教父母」から付けられる。この習慣は、中世の教会で幼児洗礼が一般的になってきた頃、広がった、とされる。当時、幼児の死亡率が高く、生まれた乳幼児を少しでも早く「キリストに繋ぎ」、天国に行けるようにという親の願いの現われであった。これが洗礼と信徒按手とが分離する理由でもあったが、それよりも洗礼を受け教会に登録されることが、その人を人間として認知することでもあり、洗礼を受けるまではその子供の生命与奪の権を父親が持っていたとされる。欧米では洗礼名と通常名との区別は明確ではない。日本ではカトリック教会や聖公会等伝統的教会以外では、この習慣は受け入れられていない。(2000.7.9)
(10) ミッション
かつて、キリスト教主義の諸学校は「ミッションスクール」と呼ばれていた。意味は、欧米諸国に本部をもつの「ミッション」と呼ばれていたキリスト教諸団体によって経営されている、という意味である。外国人の教師たちが日常的に歩き回って何かハイカラな雰囲気をもつ諸学校で、新しい時代を生み出す魅力を持っていた。この「ミッション」という団体は外国にキリスト教の教えを広めることを使命とする「宣教師を派遣する団体」である。この派遣という言葉が「ミッション」という言葉の原意である。(2000.7.16)
(11) 信施
日本聖公会の諸教会は信徒の献金によって維持・運営されている。献金には普通、月ごとに収める「月約献金」、誕生日や受洗日、結婚記念日など特別な日を覚えて神に感謝をささげる「特別献金」、その他何か特別な目的のために募金される「〜献金」などがある。そして、もっとも普通の献金、つまり礼拝に参加したときに捧げる「信施」がある。本来はこの「信施」はその教会の維持のためというよりも、「他者」のために用いられるものであるが、実際には教会の活動維持のために用いられている。
この「信施」には、礼拝における参加者の「神へのレスポンス(応答)」という重要な意味がこめられている。礼拝はただ受身で参加するのではなく、主体的に参加するということに意味がある。(2000.7.23)
(12) 管区・教区・教会@
日本聖公会の組織は、管区・教区・教会の三つの行政的レベルによって運営されている。それぞれ英語の、Province、Diocese、Parishの訳語であるが、ただ単なる地域の包括関係以上の意味が込められている。世界の聖公会の組織においては、これら3つのレベルの中で教区Dioceseが中心的な意味をも持っている。教区は一人の(教区)主教によって司牧されており、教区に属するすべての教役者はその教区主教の管轄下にある。
日本聖公会においてはそういう教区が11あり、それら11教区を統括しているのが管区である。11人の現任教区主教の中から総会において1人の主教を選出して首座主教とするが、特別な場合を除いて、首座主教は特別な権限を持っているわけではなく、あくまでも one of themである。(2000.7.30)
(13) 管区・教区・教会A
聖公会では、各個教会のことを「パリッシュ」という言い方をする。他のプロテスタント教会ではこういう言い方をしないが、パリッシュという言葉は、区域を示す概念で、国家行政でいうと、市町村に当たる概念で、国全体がどこかの行政区に属しているように、日本全国隅々までどこかのパリッシュに属しているという言葉である。プロテスタント諸教会では教会は「信徒の集団」であるのに対して、教会をパリッシュという言い方をする場合には「地域的広がり」を意味し、牧師は当然、信徒のための牧師というより、その地域に住むすべての人々に対して牧会する責任をもつ。具体的には、奈良県全域を大和伝道区の7つの教会が牧会領域をカバーしていることになる。(あぁ、なんと観念的なことであろう。)しかし、これを「宣教的」に「再―理解」することは重要であろう。(2000.8.6)
(14) 管区・教区・教会B
聖公会という教会は基本的には民族単位というか、国家単位である。ローマカトリック教会のように世界でたった一人の指導者(教皇)によって統括されているということはない。(教皇の裁治権)つまり、日本聖公会という組織に対して「上位の組織」は存在しない。
宗教改革期を経て、英国に聖公会が成立したとき、当時の国王ヘンリー8世を「教会の首長(the only supreme head)と位置付けた。(1534)その意味は、「英国教会のこの世における至上の頭」である。これは明かにローマカトリック教会の普遍主義に対する「National Church」の表現であった。
The Church of Englandが国教会なので、このNational Churchを「国教会」と訳す場合もあるが、正確には二つの言葉は区別されるべきである。
いかなる国の聖公会も英国教会に従属するものではない。カンタベリーの大主教といえども、すべての主教たちと同格の「現任教区主教」である。その意味でも one of them である。その点が、聖公会とカトリック教会との決定的な相違点である。そのNational Churchとしての行政的な単位が管区Province」である。(2000.8.13)
(15) アングリカン・コミュニオン
各国の聖公会をつなぐ世界的規模の組織を「アングリカン・コミュニオン」という。各国の聖公会はそれぞれNational Churchであり、独立している。だからと言って、それぞれが無関係なのではなく、親密ではあるがそれぞれの主体性を認め合う組織である。明かに、この言葉には「英国の」という意味が含まれる。英国教会を母胎とし、具体的にはカンタベリー大主教の指導的地位(裁治権ではない)を認め、相互に人事交流や陪餐など認め合っている。(38団体加盟)
アングリカン・コミュニンオンを支えるものが「聖公会綱憲」であり、4ヶ条からできている。
「日本聖公会は全世界の聖公会と共に次の聖公会綱憲を遵奉する。第1 旧約及び新約の聖書を受け、之を神の啓示にして救いを得る要道を悉く載せたるものと信ずる。第2 ニケヤ信経及び使徒信経に示されたる信仰の道を公認する。第3 主イエス・キリストの命じ給うた教理を説き、其の自ら立て給うた洗礼及び聖餐の2聖奠を行い、且つその訓戒を遵奉する。第4 使徒時代より継紹したる主教、司祭、執事の3聖職位を確守する。」
現在、アングリカン・コミュニオンに属している信徒数は約2000万人から2500万人と言われている。(2000.8.20)
(16) 礼拝堂
日本聖公会の最高法規「日本聖公会法憲」によると、教会についての定義として次のように述べられている。「教会は一定の礼拝所を所有し、主教の派遣した司祭が信徒と共に定時の公祷、聖奠および諸式を執行する」。ここで述べられている「一定の礼拝所」は必ずしも「礼拝堂」を意味しない。礼拝堂については「教区主教により聖別されなければならない」(法規第168条)と規定され、「教区主教の許可がなければ」「他の目的のために使用することはできない」(同169条)と使用目的について限定されている。
この聖別された礼拝堂のことを通称で「聖堂」と呼ぶ。聖堂の内部の構造については伝統的にいろいろな約束事があるが、それらは法規で規定されているわけではなく、また礼拝する心を準備する雰囲気作りでもない。むしろ、礼拝そのものが神に対する「感謝・賛美」の奉げ物であるという考えに立って、より美しいものを奉げようとする努力である。これは単に、礼拝堂の構造や備品に限らず、聖書朗読、交唱、聖歌、説教等すべての行為も含まれる。(200.8.27)
(17) 身廊(会衆席)
礼拝堂の内部は大きく分けて、会衆席と聖所(チャンセル)とから成り立っている。会衆席のことを「身廊」あるいはと英語で「ネイヴ(nave)」と呼ぶ。古く大きな礼拝堂であれ、また地方の小さな礼拝堂であれ、礼拝堂で最も重要な部分は会衆が礼拝に参加する場所である。これが無ければ礼拝堂とは呼ばれない。
ネイヴという言葉はもともとラテン語で舟(navis)を意味する。いつの頃か不明であるが、礼拝堂の本体部分が船を逆さまにした形に似ていることと、礼拝堂そのものが「この世から救出された者たちの集う場所」という理解からか(ノアの箱船を想起させる)ネイヴと呼ばれるようになったものと想像される。
ネイヴの中心を通り祭壇に向かう通路を「巡礼者の歩道」と呼ぶ人々もいる。この通路は主イエスの死によって神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂け、祭壇への道がすべての人々に解放されたことにちなみ、一直線であることが望ましい。信徒は人生の節目節目でこの道を通る。(2000.9.3)
(18) ピュウ(信徒席)
会衆席に置かれている椅子には「ピュウ(pew)」という特別言葉が用いられる。元々は「高座」とかバルコニーを意味していた言葉のようであるが、転じて信徒たちが座るための囲まれた席や固定されたベンチを意味するようになった。日本でいうと「桟敷」のようなものであろう。後にピュウの両側の側面に色々な彫刻がなされるようになった。教会のために貢献した信徒の名前を彫り込み、その家族のための指定席になったりした。
アジアの植民地の教会でかつての総督のピュウを見たことがあるが、それこそ小屋根まで付き、豪華なカーテンが吊るされていたが、現在では使うものもなく、薄汚れ惨めな姿をさらしていたのが印象に残る。
現在では、礼拝堂の多目的化ということで、ベンチスタイルに代わって折りたためたり、積み重ねたりすることができる一人用の椅子が見られるが、やはり礼拝堂には固定されたベンチが似合う。
ギリシャ正教会の礼拝堂では信徒は立ったままで礼拝するので椅子類は見られないのが普通である。(2000.9.10)
(19) 内陣(チャンセル)
礼拝堂の正面に一段と高くなっている部分がある。これがいわゆる内陣(chancel)で、さらにその奥に至聖所(sanctuary、サンクチュアリー)がある。ネイヴとチャンセルとを区別する階段(普通は1、2段ある)をチャンセル・ステップと呼ぶ。チャンセルは元々司祭の謙遜をあらわすためにネイヴより低く作られたこともあるとのことであるが、13世紀以後は高く作られるようになった。(2000.9.17)
(20) 至聖所(sanctuary)
普通、サンクチュアリーはチャンセルより一段と高く作られ、さらにその奥の一段高くなっている部分にオールター(祭壇)が置かれている。司祭はここで聖餐式の司式をする。従って、伝統的な礼拝堂では会衆席から見ると、祭壇は5、6段高いところにあり、非常に権威的・威圧的な感じがする。現代的な礼拝堂では、段差が取り除かれる傾向がある。これは単なるバリアフリーという考えではなく、信仰そのものについての思想の変化によるものである。当教会ではサンクチュアリーとチャンセルの段差は絨毯一枚の厚さである。
伝統的には、司祭は祭壇(Altar)に向かって(会衆に背を向けて)聖餐式を執行していたが、現代では聖卓(Holy Table)を挟んで会衆に顔を向けておこなうのが一般的になってきた。ここにも信仰理解の変化が見られる。祭壇と聖卓とは同じ物の別称であるが、祭壇と呼ぶ場合と聖卓と呼ぶ場合とでは考え方が異なる。(2000.9.24)
(21) 説教台(pulpit)
普通、ネイヴの前方左のチャンセルの上にある。プルピットという言葉は一段と高いところに置かれた囲まれた席という意味で、捕鯨船の銛打ち台とか工場の司令室などを意味する。ヨーロッパの古い礼拝堂などでは、螺旋階段で昇り、中2階ぐらいの位置に置かれている。いかにも、説教は高いところから低いところにいる人々に向かって垂訓するのだということを主張しているかのように見える。プルピットを囲む囲いには美しい彫刻がほどこされ、いかにも有難い言葉が発せられる場所に相応しく装飾されている。
しかし、現代ではできるだけ簡素に、できるだけ聴衆に近づき、話しやすく、聞きやすいことが求められる。説教は会衆に向かって語られるものであり、土の器にもられた神の言葉である。(2000.10.1)
(22) 東面
礼拝堂の正面は実際にそれがどこの方向を指していたとしても、「東面」という言い方をする。礼拝堂を建てる時に正面をエルサレムの方向に向けたことに由来する。つまり、西の方向に向かって発展したキリスト教の習慣だと思われる。従って、入口は「西」で、正面に向かってチャンセルの左側(北)に説教台があり、そこを福音書側と呼び、右側(南)を使徒書側と言う。
聖公会等伝統的様式を重んじる礼拝堂では説教台は福音書側に置かれ会衆は祭壇と対面するが、説教を重んじるプロテスタント諸教会(とくにカルヴァン系の教会)では説教台を中心に置くことが多い。そこでは礼拝とは「神の言葉を聞く」ことであると考えられている。もちろん、礼拝における説教は重要であるが、説教はサクラメントにおいて「神の言葉」となる。(2000.10.8)
(23) 聖卓
ごく初期の教会では聖餐式を行うための特別な聖卓はなく、普通の木製の食卓を囲んでいたと思われる。歴史の進展の中で、殉教者こそ神の信実の証し者だということで、その墓石の上で聖餐式を行うようになり、4世紀頃からは石造りの棺の形をした聖卓が用いられるようになった。現在でも、聖卓の上板は一枚の石版が定番である。中には実際に殉教者の聖遺物が納められたという。さらに、歴史が進むと「聖卓こそキリストの体そのも」ということになり、キリストが裸では申し訳ないということから美しい絹織物等で覆われるようになった。(2000.10.29)
(24) 祭壇用白麻布
聖卓を覆う白い麻布は主イエスの葬りの時の身体を包んだ布を象徴している。中心と四隅に十字架の刺繍をし、両端にレースなどを付けることもある。聖餐式のときはこの上で聖別をはじめ全てのことが行われる。
聖餐式が行われないときは、白麻布の上に埃や塵がかからないように、「ダストカバー」と呼ばれる布を覆う。この布はどんな生地でもよいが、通常その中央に十字架を刺繍することもある。(2000.11.5)
(25) フロンタル
祭壇(聖卓)に掛ける布(フロンタル)は前面に教会暦に応じて白、緑、紫、赤等の色が施されている。特に、前面の布が床まで達しているものをスーパーフロンタルと呼ぶ。普通は(日本では)祭壇の上面から約30センチほど垂れており、縁にはふさが付けられている。どこの教会でもこれにはかなりお金をかけているようであるが、これはあくまでも祭壇の飾りである。(2000.11.19)
(26) 祭色
祭壇や説教台などに付けられる布や聖職者のつけるストールには教会暦の季節や祝祭日に合わせて異なった色が用いられる。祭色は基本的には、白、紫、赤、緑の四色で、それらは次のことを表している。
白は、純潔、喜び、真理の光りを表しており、主イエスと関係した季節や日のために用いられる。降誕日、復活日、顕現日、昇天日、三位一体主日、変容貌日、殉教者でない聖徒の日、洗礼・堅信・聖職按手式、結婚式、埋葬式、収穫感謝・記念・聖堂聖別式などに用いられる。
紫は、懺悔と待望の色であり、大斎節や降臨節に用いられ、聖職按手節や昇天前祈祷日、葬送式、洗礼式の際の「水の聖別」などに用いられる。
赤は血のシンボルで、殉教者の日を示す。また、聖霊を表し、聖霊降臨日に用いられ、最近では聖職按手式などに用いられるようになってきている。
緑は希望、生命、自然を表し、顕現節や聖霊降臨後の平常の期節に用いられる。(2000.12.3)
(27) キャンドル
本来は手許を照らすための燈火であったが、11世紀頃から祭具として用いられるようになり、「すべての人を照らす光り(ヨハネ1:9)、としてまた「世の光」(ヨハネ8:12)であるキリストを象徴するものとされた。中世においては2本のキャンドルはキリストの神性と人性を示すものとされた。
従来は、祭壇の上に置かれたが、今日では燭台を床に置くか、祭壇の場合は背の低いものを置くようになった。(2000.12.10)
(28) 十字架(クロス)
十字架は祭壇上になくてならないものではない。カトリック教会でさえ、十字架を祭壇上に置くことが正式に決定されたのは比較的遅く、1746年のことである。十字架のうち「磔刑像」(磔にされたキリストの姿)が付いているのを特に「クルスィフィックス」と呼ぶ。聖公会では復活を表す意味で磔刑像がないものを用いるのが普通である。今日では十字架を祭壇の上に置かず、正面の壁に取り付けたり、天上から吊り下げることが勧められている。(2000.12.17)
(29) イヴ(前夕)
祈祷書の特祷のルブリックを見ていると、「ほかの指定がない限り、前夕からその週の間用いる」という規定が書かれている。また、個別の特祷においては「〜の朝まで用いる」と規定されたりしている。どうやら、教会の暦においては1日の切れ目が特殊であるようである。
教会では、ユダヤ教の習慣を受け継ぎ、1日の切れ目を「日没」におき、暗闇の中で1日が始まるとした。創世記の1章では「夕べがあり、朝があった。第1日である」(1:5)とされる。クリスマスも、前日の夕方から始まる。ただ、受苦日と復活日だけ例外で、その日の朝から一日が始まる。これら二つの記念日だけはユダヤ教の伝統と無関係であることは非常に興味深い。(2000.12.24)
(30) アヴェ・マリア
「アヴェ・マリア」という言葉は、グノーやヴェルディの作曲した名曲で知られているが、それらは聖母マリアへの賛歌で「天使祝詞」と呼ばれているカトリック教会の祈祷文の一つである。天使ガブリエルが乙女マリアに受胎を告知したときの挨拶の言葉(ルカ第1章)とバプテスマのヨハネの母エリザベトがマリアに対して述べた祝いの言葉とが組み合わされている。この祈祷文の出だしの言葉「ようこそ、マリア」のラテン語が「アヴェ・マリア」である。この祈祷文は以下のとおりである。
「めでたし、聖寵満ち満てるマリア、主御身とともにいます。御身は女のうちにて祝せられ、御胎内の御子イエズスも祝せられたもう。天主の御母マリア、罪びとなるわれらのために、今も臨終のときも祈りたまえ。アーメン」
少し古すぎる訳ではあるが、この翻訳はカトリックの信徒たちの間では、定着している。聖公会ではカトリック教会ほどマリア崇拝は強くないが、「最も尊敬すべき女性の一人」として、根強い人気はある。(2000.12.25)
(31) 千年
2000年の終わりにあたり、新約聖書に出てくる「千年」という言葉を拾ってみました。
愛する人たち、このことだけは忘れないで欲しい。主のもとでは一日は千年のようで、千年は一日のようです。(ペトロ第2 3:8)
わたしはまた、一人の天使が、底無しの淵の鍵と大きな鎖とを手にして、天から降ってくるのを見た。この天使は、悪魔でもサタンでもある。年を経たあの蛇、つまり竜を取り押さえ、千年の間縛っておき、底無しの淵に投げ入れ、鍵をかけ、その上に封印を施して、千年が終わるまで、もうそれ以上、諸国の民を惑わさないようにした。その後で竜はしばらくの間、解放されるはずである。(黙示録20:1-3)
彼らは生き返って、キリストと共に千年の間統治した。その他の死者は、千年たつまで生き返らなかった。(黙示録20:4,5)
彼らは神とキリストの祭司となって、千年の間キリストと共に統治した。(黙示録20:6) (2000.12.31)
(32) 千年王国
ヨハネ黙示禄には「千年王国」の思想が述べられている。この王国はキリストが再臨し、この地上に存在するあらゆる「悪」を「封印」する、とする。この終末に先立つ千年間キリスト者はキリストと共に地上を支配するという、思想として、特に中世ヨーロッパでは大きな影響を与えた。
「千年王国」という表象は、元来ユダヤ教の終末論の一部に組み入れられていたと推測されるが明確ではない。
キリスト教(?)の一部には、「千年王国説」を信じている一派もあるが、この思想はキリスト教信徒以外の者を排除する思想と結びつき、熱狂主義化する傾向があり、非常に危険である。(2001.2.4)
(33) 教派
英語ではdenominationという。教派についての考え方は、欧米でも国ごとに異なり、ドイツ語圏ではデノミネイション(教派)という発送はなく、「教会と分派(Kirche und Sekte)」という考え方である。デノミネイションという概念は、ローマカトリック教会からプロテスタント諸派のすべてを一律に一組織として相対化する発想である。民主的といえば確かに民主的ではあるが、いかにも乱暴な捉え方で、「各教会」の成り立ちや、歴史、教会観の違いを無視している。カトリック教会では自分たちの教会こそ「唯一の教会」として、プロテスタント諸派を「真の教会」に属する諸教派とは認めない。従って、教派という発想そのものも認めない。ここでも聖公会はカトリックとプロテスタント諸派の中間に立つ。(2001.2.11)
(34) 国教会
この概念は本来、世俗の政治的用語で、国家がある特定の宗教を国家の公的宗教として世俗的権力が承認する制度である。それに該当する教会を「国教会」と称する。古代、中世においては392年以後のカトリック教会、東ローマ皇帝権に従属する東方教会などが該当する。
また、ヘンリー八世以後エリザベス一世に至って確立した英国教会は国教会そのものである。この場合、教会全体が国家の一公営機関となり、聖職は公務員としての制限を受ける。しかし、アメリカ合衆国が近代国家としてはじめて政教分離の原則を明記して以来、英国においてもその精神にできるだけ沿うように、国家と教会の活動領域を明瞭にして、相互の独立性を保つように運営されている。(2001.2.18)
(35) 分派
地上における教会という組織は「一つである」という立場に立つと、その組織に属さない、あるいはその管轄権を拒否するときその組織は「分派」と呼ばれる。いわゆる「セクト」である。しかし、地上における教会組織が必ずしも「一つ」ではないという立場に立つとき、それらの諸教会は対等な関係にあるという意味で「教派」(デノミネイション)と呼ぶ。
しかし、現実的には教会が「一つの組織」であったことはなく、いわゆる「正統派」の取り合いという論争において、正統派に破れた、正統派から排除されたセクトは「異端」と呼ばれた。(2001.2.25)
(36) 異端
「異端」とは常に「正統派」が成立したときに誕生する。逆に言うと、「正統派」という意識は「異端」として異なる思想や解釈を排除する時に成立する。
現在では、自己の考え方を絶対化できないという柔軟な考え方あるいは自己の組織の中に多様な思想や解釈が存在することがかえって組織を活性化するという考え方によって「正統:異端」という短絡的な発想を排除するようになった。しかし、いずれに時代でも組織をはみ出す人々は存在するもので、そのような人々とどのように関わるのかということが問題である。(2001.3.4)
(37) オーソドキシー
キリスト教の歴史の中で「オーソドキシー(正統性)を主張しているのが東方教会である。2世紀以後「キリスト論」や「三位一体論」等の論争を経て、意見を異にするセクトを異端として排除して「正統性」を維持してきた教会も、11世紀に至って、とうとう東の「ギリシャ正教会」と西の「ローマ・カトリック教会の対立を回避することができず、相互に破門をするということで分裂してしまった。議論の論点はいろいろあるが、ギリシャ正教会はアレキサンドリアに端を発する教会の伝統を重んじる「正統性」を主張し、新興勢力であったローマ・カトリック教会は使徒ペテロによる創設ということを論拠に「世界性」と「使徒性」とを主張した。(「カトリック」とは「普遍的」という意味)(2001.3.11)
(38) 日本ハリストス正教会
ハリストスとは「キリスト」という言葉のギリシャ語読みである。正式には「神聖正統使徒伝承東方教会」という。教会が東西に分裂する以前の7つの公会議において定められた使徒信経、ニケヤ信経を承認する。この教会の特徴は「聖像(イコン)」を用いる点で、このことが「画像論争」として激しく論議され、東西分裂の直接の原因となった。(2001.3.18)
(39) ローマ・カトリック教会
とうとう11世紀に東西に分裂した教会の東側がギリシャ正教会、それに対して西側の教会がローマ・カトリック教会である。それぞれの教会が地盤とする社会(地域)のその後の政治的・経済的発展の相違によって、それぞれ教会の形態に大きな相違を生んできた。わたしたちには西側の教会に近親感があり、キリスト教といえば何となくローマ・カトリック教会とその後にここから分裂した教会のみを想像しがちであるが、信仰者の人口としてそれ程大きな相違があるわけではない。ロシアの文豪ドストエブスキーにとってのキリスト教はギリシャ正教会である。
その後、西側の教会は宗教改革という大きな歴史的事件を経て、プロテスタント諸教会や聖公会諸教会等を成立させ、現在に至っている。(2001.3.25)
(40) プロテスタント諸教会
修道僧マルチン・ルターが、1917年10月31日(諸聖徒日の前日)「免罪符の効力について」95ヶ条のテーゼをウイッテンベルグ城教会の扉に張り出したことが口火となって、「宗教改革」と呼ばれる運動(論争)が始まった。この論争の結果、ローマ・カトリック教会に抵抗する(プロテスト)人々が組織化された諸教会がプロテスタント諸教会である。ヨーロッパ各地における政治的・経済的・宗教的状況の相違によって、ローマ教会とのスタンスが異なり、多様な形に発展し、諸教派を生み出している。(2001.4.1)
(41) ルター派
カトリック教会から破門されたマルチン・ルターは、普通ならば社会からも見捨てられ、生活破綻者となるところ、ルターを支持する人々が少なからず出てきた。その筆頭が、ザクセン選挙候で彼の世話により、ヴァルトブルグ城内にかくまわれ、ここから幾多の宗教改革文書を発し、ルターのカトリック教会に対するプロテスト(抵抗)は宗教改革運動として発展する。ルターの「福音主義」の影響は、ヨーロッパ各地に広がり、ルターを支持する教会が生まれる。これがプロテスタント諸教会の始まりである。(2001.4.29)
(42) ルター派A
宗教改革運動はヨーロッパ各地へと波及し、それぞれの民族や国家の中にルター派の諸教会を形成した。現在、ルター派の諸教会は、それが置かれた民族文化の影響のもとに多様性をもち、日本にも色々な伝統を保持したルター派が存在する。キリスト教年鑑によると、「日本福音ルーテル教会」以下7つの教派が存在する。奈良県に存在しているルーテル教会は主に「近畿福音ルーテル教会」に属しており、これはノールウェー・ルーテル自由教会の伝道活動によって形成された教会である。ルーテル教会はプロテスタント諸教派の中でも比較的伝統を重んじる傾向があり、その点では聖公会の教会と似かよっている点が多い。(2001.5.6)
(43) 長老派
ドイツを中心に活躍したルターに対して、約20年遅れてフランスを中心に活躍した宗教改革者がジャン・カルヴァンである。修道僧出身のルターに対して、元々法律を勉強したカルヴァンは非常に論理的であり、また政治的関心も高く、教会形成において信仰論というよりも、教会の組織論に興味をもち、ルターのプロテスタント主義をその方向で発展完成させた。彼の教会論は主教よりも長老(聖公会でいうと司祭)を中心に形成された。その点から、彼の思想的影響を受けたプロテスタント教会は「長老派」と呼ばれる。(2001.5.13)
(44) 長老派A
「長老派」の「長老」という意味は、年長者という意味ではなく、「主教、司祭、執事」の三聖職位の「司祭」という意味である。聖公会の法憲での用語法では「エピスコポ、プレスプテロ、デアコノ」の「プレスプテロ」に当てはまる。エピスコポという言葉には聖書では「監督」という言葉が当てはめられており、監督つまり主教職を中心とする教会制度を「監督制」とよび、カトリックや聖公会等伝統的諸教会がこれに属し、司祭制を中心にして教会制度を整える教会を「長老制」と呼び、主にプロテスタント諸教会がここに属する。(2001.5.20)
(45) 長老派B
日本における長老派の伝統は古く、また強い影響力がある。第2次世界大戦以前(日本キリスト教団成立以前)は、「日本基督教会」と称し、植村正久、高倉徳太郎等有力なリーダーを輩出し、日本における教会形成、特に神学形成に大きな影響力を与えた。日本基督教団成立の一翼を担ったが、戦後旧日本基督教会系の諸教会が教団から分離し、「日本基督教会」を組織した。従って、「教団」以前の組織を「旧日基」、現在の組織を「新日基」と俗称する。長老系教会の一つの特徴として「信仰告白」の厳密な解釈ということがあり、一寸した言葉の解釈上の論争により、組織が分裂する傾向が強い。従って、長老系の教派は、いろいろに分かれており、外部からは、何がどう違うのか理解しにくい。(2001.5.27)
(46) 長老派C
長老派系の教派の中で、宗教改革者カルヴァンの主張を最も厳密に継承する最も保守的で固い教会が、「改革派(リフォームド)」と呼ばれ、その代表的団体が「日本基督改革派教会」で、全国で教会の数は77、伝道所が50箇所ほどある。長老派系の中でも、割合穏やかで影響力のある教会が「日本基督教会(新日基)」で、教会の数は107、伝道所が35ほどある。これよりももっと穏やかな長老派系の諸教会は「日本基督教団」に含まれている。
長老派系の教会では、全国組織を「大会」とよび、聖公会でいう教区を「中会」と呼ぶ。「主教」の存在は認めず、教会組織の運営は教職者である「長老」によって行われる。聖職制度としては、「長老」は信徒の中の一人で、原則として「終身」である。その点が、他のプロテスタント諸教会と異なる点である。(2001.6.3)
(48) メソジスト派
メソジスト派と呼ばれる教会がある。「メソジスト」とは「真面目」という意味で、ジョン・ウエスレーという英国国教会の司祭によって始められた運動が米国において一つの教団として成立したものである。ジョン・ウエスレーは真面目な神学生で学生時代から指導性を発揮し、学友たちと共に英国国教会内部でメソジスト運動を起こした。彼は、あまりにも「真面目」過ぎて、当時の教会の状態に(これは現在でもあまり変わりない)我慢ができなくなって、仲間たちを集めたのである。祈祷会や聖書研究会を開いたり、伝道集会を開催したりということで、かなり活発に運動を展開し、かなりの人々に注目されていたようである。大学を卒業後、英国国教会の司祭となり、米国に伝道旅行に出かけたりするが、この運動の中で、モラヴィア兄弟団(ドイツ敬虔派)と出会い、深い宗教経験を体験する。これがメソジスト運動の出発点であり、ウエスレーがモラヴィア兄弟団で経験した敬虔が、「第2の回心」と呼ばれる。(2001.6.10)
(49) メソジスト派A
メソジスト派はもともと英国教会(アングリカン)から生まれたものであるが、一つの独立教派として成立したのアメリカにおいてである。創立者と呼ばれるべきジョン・ウエスレー自身は生涯、聖公会の司祭であることに固執した。彼の死後、英国にもメソジスト教会は成立した。メソジスト教会の組織や礼拝式や教会建築には聖公会の影響がかなり見られる。例えば、歴史的伝承としての主教制はないけれども教団運営上では監督制(ビショップ)をとり、牧師の任免も監督のもとにある。
日本におけるメソジスト教会は、日本キリスト教団の成立と共に解消したが、その伝統は青山学院系、関西学院系の諸教会の中に今でも生きている。もっとも、日本キリスト教団に含まれない、あるいは後に脱退したメソジスト系の諸教派はかなりある。日本ホーリネス教団、日本ナザレン教団、日本フリーメソジスト教団、ウエスレアン・ホーリネス教会連合会など。これらの諸教団では、特にウエスレーが体験した「第2の回心」と呼ばれる経験が強調される。(2001.6.17)
(50) バプテスト派
幼児洗礼を認めず、自覚的な信仰告白に基づき、浸礼によるバプテスマにこだわる。歴史的には、もともと英国国教会(聖公会)の司祭であったJ.スミスによって始められたとする。彼はピューリタン運動に同調し、英国教会を去り、亡命者たちを引き連れて、アムステルダムに移住し、そこでバプテスト教会を組織した。(1609)彼が組織した教会はいわゆるアルミニウス的な立場に立っていたが(ジェネラルバプテスト派)、後に英国においてカルビニズム的な立場に立つバプテスト教会が組織された。(1633 パティキュラーバプテスト派)
バプテスト派が世界的な規模で発展したのはアメリカ大陸においてであり、現在ではアメリカで最大の教派にまで発展した。保守的な傾向の強い「南部バプテスト派」、自由主義的な傾向の強い「アメリカ・バプテスト派」の2つの連合体に分かれている。(2001.6.24)
(51) バプテスト派A
米国における「南部バプテスト派」の流れを日本において受け継いでいるのが西南学院を中心に発展した「日本バプテスト連盟」で、全国で233の教会がある。それに対して、関東学院を中心に組織化されているのが「日本パブテスト同盟」で、全国で57教会がある。神学的には「同盟」の方が自由主義的であるのに対して、「連盟」の方はかなり保守的な傾向を持っているとされるが、いずれにせよ、バプテスト派の教会は各個教会がそれ自体として独立しており、全体組織は「連合体」として認識されている。基本的には、聖職制度は否定され、各個教会が「牧師と認める」れば、牧師となる。しかし、現実的には神学校を卒業して「同盟」ないしは「連盟」において試験等がなされて牧師と認められる。
2つの組織の外にもバプテスト派の教会は多数ある。(2001.7.1)
(52) 組合派(会衆派)
諸プロテスタント教会の中で、大きな影響力をもち、神学的にも無視できない大きな流れがある。一般的には「会衆派」(コングリゲイショナリズム)と呼ばれるが、日本では同志社を中心として発展した「組合教会」である。
この流れの源流は、英国における宗教改革の「不徹底さ」に対する批判、不満から英国国教会を離れ、分離して組織化されたものであるとされる。その主張は「真の教会は自覚的に悔改めてキリスト者の生活を実践する人々によって構成される群れであり、その群れの中に生けるキリストは現臨する。」従って、各個教会が独立した教会であり、またそれぞれ各個教会が相互に教会であることを認め合うことによって教会間の交わりは成立する。
特に重視される点は、教会は国家から独立していること、ということである。この流れの中から、ピルグリム・ファーザーズ(ピユリタン)が生まれ、新大陸におけるアメリカの国家建設の中心となった。日本におけるプロテスタント教会は大なり小なり、このピユリタニズムの影響を大きく受けている。(禁酒禁煙の習慣など)(2001.7.8)
(53) 救世軍
プロテスタント諸教派を紹介する際に、忘れてはならないユニークな「教派」が存在する。年末になると、大都市の繁華街で「鍋」をぶら下げ、軍服をきてラッパを鳴らし義捐金を集めているキリスト教の団体である。この団体もれっきとしたキリスト教の「教会」である。
1860年代に、ロンドンの貧しい人々に対して伝道活動が始まった。指導者はウイリアムス・ブース夫妻、彼はもともとメソジスト教会の牧師であったが、彼らは教会から独立して独自の伝道活動をはじめ、回心者が出ると他の教会に紹介していたが、運動が大きくなり同調者が増えるに従って「キリスト教伝道会」として組織化された。
この団体の特徴は「軍隊組織」をとり、「軍律」を定め、各個教会を「小隊」と呼び、教区を「連隊」と呼ぶなど、聖職制度も軍隊式に「司令官」「中将」「少佐」などとする。
日本でも1895年に、活動を開始し、山室軍平という偉大な指導者により、一般社会においても、大きな支持を受けている。(2001.7.15)
(54) 修道会、修道院
聖公会の中に修道院が存在するということは、プロテスタントの教会から移ってきたものには驚きであった。確か,宗教改革の際にヘンリー8世は全修道院を解散させ、その莫大な財産を没収したはずである。(1535-39)
しかし、19世紀になってオックスフォード運動(カトリックへの回帰運動)の結果、英国における修道会は復興したのであった。日本聖公会に関係するいくつかの修道会が存在する。その一つが和歌山県にある神愛修女会聖マリア院である。
「修道院」という場合、具体的な場所であるが、それを形成する組織を「修道会」と呼ぶ。一つ一つの修道会は独立した組織であり、それぞれ特有の規則があり、その規則に従って、規則正しい生活を送っている。
従って、修道会は、日本聖公会と密接な関係にあるといっても、聖公会の組織の一部ではなく、むしろ、カトリックに関係する修道会などとも密接な関係があるようだ。(2001.7.23)
(55) 按手
按手とは、手を人の頭に置き、祝福したり、聖霊が与えられることを祈る宗教的な行為である。行為そのものは古今東西の宗教においておおく見られるものである。
旧約聖書においては、父祖ヤコブが息子ヨセフの2人の子どもの頭に手を置いて子孫の繁栄を祈る祝福の場面がある。(創世記48:14)新約聖書には、「頭に手を置く」という行為は見られないが、祝福するという行為の最も一般的な形であったことを否定する根拠はない。むしろ、主イエスが洗礼を受けられた時に、授洗者ヨハネの「わたしは『霊』が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た」という証言の中に、「按手」ということの原点を見る。
キリスト教会において按手という行為は、信徒として、執事として、司祭として、主教としての職位の付与という意味をもつ。英語のordinationというorder(順序、秩序)の派生語で、「叙階」、東方教会では「叙品」と訳されている。(2001.7.29)
(56) 祝福 blessing
権威の授与とか、権力の継承という特別な意味を示す祝福を按手とすると、もっと広い意味の祝福もある。
普通、英語で「God bless you(神の祝福があなたにあるように)」という場合などがそれにあたる。天地創造の場面で、神は第4日目の被造物に対して「神はこれを見て、良し(トーブ)とされた」ということが述べられている。トーフとは「見て美しい」とか、満足する意味の言葉であるが,第5日目の被造物(鳥、魚、獣)に対しては「良しとする」だけではなく、「祝福(バラク)」しておられる。特に、人間の創造においては神の祝福の言葉が付け加えられている。
「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上に這う生き物をすべて支配せよ。」(創世記第1章)
人間はこの神の祝福の言葉を受けて「祝福される」存在となる。果たして、現在の人間の営みは、神の祝福を受けるに値するものだろうか。(2001.8.5)
(57) 祝福の基
祝福という言葉と関連して、信仰の父アブラハムに注目すべきである。神はアブラハムの信仰に対して次のような契約を結ぶ。「わたしはあなたを大いなる民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族すべて、あなたによって祝福に入る。」(創世記12:2、3)ここに「祝福」という言葉が5回も繰り返される。ここでの鍵の言葉は「祝福の源」であろう。以前の訳では「祝福の基」であった。つまり、神の祝福と呪いとがアブラハムという一人の人間を軸にして分岐するという。旧約聖書におけるその後の展開は、この契約の継承ということに鍵がある。
新約聖書において、教会の権威について「あなたが地上でつなぐことは天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」という主イエスの言葉は、明かにこれを受けている。(と思われる。)(2001.8.12)
(58) 呪い
祝福の反対語が呪いである。旧約聖書においては「祝福と呪い」は多くの場合対比的に用いられている。ところが、新約聖書においては呪うことは原則的に否定されている。「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。」(ロマ12:14など)
コリントT16:22において、使徒パウロがわざわざ直筆で「主を愛さないものは、神から見捨てられるがいい」という言葉はかなり強烈である。文語訳聖書では「主を愛せずば詛(のろ)はるべし」と訳されている。この「アナテマ」という言葉は、もともと「(神殿に)安置され、呪いによって保護された奉納物」を意味し、これに触れると呪われるということから派生している。日本語で言うと「罰当たり」という意味であろう。
ロマ9:3では、使徒パウロは同胞のためならば「罰が当たってもいい」と言う。
呪ってはならないという原則のもとで、「呪われよ」と言い、「自分が呪われても」本望だ、という使徒パウロ。このダイナミクスの中に信仰者としての生きざまが伺える。(2001.8.19)
(59) ゴスペル
いまや「ゴスペル」という言葉は教会用語というより音楽用語のようになっている。この言葉は新約聖書における「福音」(エウアンゲリオン)の英語訳で、もともとの意味は「よい知らせ」である。マタイ,マルコ、ルカ、ヨハネが編纂したといわれる4つの「福音書」がある。
19世紀の後半、アメリカにおいてムーディーたちの霊的刷新運動(リヴァイヴァル運動)の中で、集会のとき歌われた聖歌をとくに「ゴスペル・ソング」と呼んだのが始まりである。その特徴は歌詞も旋律も平易、通俗的で単調な和声の上に楽しいリズムをもったものが多い。日本ではホーリネス運動の中で「リヴァイヴァル聖歌」として編集され、多くのキリスト者に受けいれられた。
最近流行っている「ゴスペル」は一応その流れの中にあるが、日本においては教会から外へ出ていったというよりも、「新しい音楽」として映画などを通してなだれ込んできた。そこから逆に一部の教会でも関心をもち、「ゴスペル」のコンサート(?)などが開かれたりしている。(2001.8.26)
(60) ニグロ・スピリチュアル
黒人霊歌とも称せられる。ゴスペル・ソングの源流の一つ。17〜19世紀にアメリカに奴隷として送られてきたアフリカ人による聖歌。彼らは牛馬のように酷使されつつも、これに抵抗するすべもなく、結局その救いを宗教的なものに求め、そこから生まれてきた歌。不条理な怒りを哀愁に包み、霊的解放にのみ希望を託する歌詞とリズムは聞く者の心を打つ。彼らが、支配者である白人の宗教を受けいれ、そこにしか希望を見出せないで、こんなに美しく、深い音楽を生み出したことは、感動しつつも、何か複雑な気持ちになる。福音は支配被支配の関係を乗り越えて、支配者から被支配者へ伝えられ、さらに深い宗教性を生み出した。奇跡としか言いようがない。
その宗教性は「ゴスペル」という形で、閉塞的な状況に置かれている現代人の心を癒しているのかもしれない。その癒しが諦め、逃避へと向かうのではなく、解放・連帯へのエネルギーとなることを期待する。(2001.9.2)
(61) グレゴリアン・チャント
一般的には、カトリック教会の礼拝において用いられる伝統的な単音旋律を意味する。
初代教会以来、各地の教会における礼拝音楽は、それぞれの民族的文化的影響により多様であった。教皇グレゴリウス一世(在位590-604)は、彼以前に用いられていた礼拝における多様な音楽を整理し、「教会旋法」をまとめた。いわば礼拝音楽における「普遍性」の追究であった。しかし、この試みも彼以後、北ヨーロッパの諸民族の影響を受け、古伝承の旋律も崩されて行った。
その楽譜は4線によって表記される特殊なものであったが、その読み方にも諸説あり、とくに音符の長短については、ソーレムの修道院に集った研究者たちの協議の結果、音符の形に関わらず同じ長さに歌うこととされている。(2001.9.9)
(62) アングリカン・チャント
カトリック教会のグレゴリアン・チャントに対して聖公会におけるの礼拝において詩編その他散文の聖句を音楽的に朗詠するための音楽を「アングリカン・チャント」と呼ぶ。
原則として、無伴奏4部合唱を基本とする。初期のものではテノールの部分に主旋律が置かれていたが、今日ではソプラノによってメロディーが歌われる。
音階は、グレゴリアン・チャントと異なり、西洋音楽一般の長音階、短音階が用いられる。その意味では、音楽においても「教会」という特集領域を否定する聖公会の立場が表明されている。(2001.9.16)
(63) コラール
ドイツの音楽用語としては、グレゴリアン・チャントのような教会音楽一般を意味するが、宗教改革以後、ルター派教会においては、教会の礼拝においても、一般に歌われるいわゆる流行歌の旋律を借用し、信仰的な歌詞をつけた「替え歌」が歌われるようになり、徐々に当時の宗教民謡などの影響を受けて創作曲も歌われるようになった。これが今日プロテスタント諸教会によって用いられている讃美歌の原型である。
現在では、コラールという言葉はルター以後の約100年間につくられたドイツのルター派教会の讃美歌を意味する。聖歌389番はルター自身の作曲と言われ、宗教改革の行進曲とも言われるが、これがコラールの典型でもある。(2001.9.23)
(64) アンセム
英国の教会における礼拝で用いられる英語歌詞(通常、聖書の言葉、あるいは宗教的なテキスト)による合唱曲。オルガンによる伴奏をともない、独唱付きのものをヴァース・アンセム、合唱だけのものをフル・アンセムという。
今日、日本では日本語に翻訳されたものも、アンセムと呼ぶ。要するに、礼拝中に聖歌隊のみによって歌われる合唱曲を意味する。従って、アンセムは礼拝の奉仕するものであり、時には神の言葉を語るメッセージとなり、時には参加者全体の祈りの心を代表して表現するものである。聖歌隊の技量を誇ったり、礼拝の場をあたかもコンサート会場のように支配してはならない。当然、祈る心を破壊してしまうような拙い演奏は論外である。これはオルガン伴奏についても言えることである。(2001.9.30)
(65) 詩篇歌
旧約聖書の詩篇にメロディーを付けて歌いたいという願望は誰にでもある。カトリックではカトリックでそのような曲集もある。その中で、特にプロテスタント諸教会で作られた歌曲を「詩篇歌」と呼ぶ。各教派、各国にそれぞれ「詩篇歌集」があるが、その中でも「ジュネーブ詩篇歌集」は有名である。(2001.10.7)
(66) 一粒の麦
イエスが死の1週間前にエルサレムに入って述べられた言葉。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネ12:24)に由来する。自分を犠牲にして他者を生かす思想を述べたものである、とされる。しかし、この言葉には、単なる「自己犠牲」以上のものがある。自己を犠牲にしなければ新しい時代が来ない。(2001.10.14)
(67) からし種
イエスはたとえ話の中で、最も小さな一粒の実例として「からし種」をあげておられる。からし種一粒程の信仰があれば、山をも動かすことができる。(マタイ17:20)「天国はからし種に似ている。畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長すればどの野菜よりも大きくなり、空の鳥がきて枝に巣を作るほどの木になる。」(マタイ13:32)
先日、からし種を友人から貰った。確かに小さい。さっそく、植えた。野菜(草)なのか、木なのか。はっきりしない。まだ小さいが元気に育っている。鳥が巣を作るほどに大きく育ってもらいたいと願っている。(2001.10.28)
(68) 毒麦
本当に毒麦というものがあるらしい。収穫期には穂先に細い毛のようなものが見られるので、子どもでも区別できるらしいが、穂ができるまでは普通の小麦と区別することは難しいとのこと。
マタイ13章には、農夫が小麦の種を播いた後、夜中に「敵」がきて毒麦を播いた譬えがある。僕たちが早急に毒麦を抜こうと提案いたしますが、主人は「毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈入れまで待とう」と言います。
テロ撲滅のために空爆を強行している。テロリストは退治しなければならないが、そのために一般市民まで巻き添えを食わされるのは、問題である。(2001.11.4)
(69) 地の塩
「塩」というとわたしたちは普通「海」から取り出すものと思いこんでいるが、パレスチナでは普通の塩は岩塩であったと思われる。「地の塩」という場合岩塩を意味している。岩塩といわれるものの中には「しょっぱく」ない塩もあったらしい。塩がしょっぱくなかったら、無用の長物であろう。せいぜい、地面に播き捨てるしかないだろう。
塩の効力については今更説明の必要がないであろうが、主イエスが譬えで話された意味は、塩は調理になくてはならないものであるが、塩が自己主張しすぎると、その料理は不味い。塩は自らの存在を露わにしないことによって、料理を美味しくする。そのように、キリスト者もこの世において「旗をひるがえして」存在を明かにするのではなく、料理そのものが美味しくなるということで存在を示すことが肝要である、ということを教えておられる。
同時多発テロ事件で、日本は「旗を見せる」ことに躍起になっているが、「日の丸」が見えなくてもいい。世界に平和が来ますように。(2001.11.18)
(70) 東の博士たち
クリスマスに登場する「東の博士たち」は、子どもたちにとって魅力である。(マタイ2:1-12)
ところで、この「東の博士たち」という言い方は古い文語訳聖書の表現で、口語訳では「東からきた博士たち」となり、新共同訳では「占星術の学者たちが東の方から」となる。ついでに、カトリック教会で用いられているフランシスコ会訳とプ保守系プロテスタント諸教派で用いられている新改訳では「東方の博士たち」となっている。いずれにせよ現在考えられている「学者」でも「博士」でもないので、占星術というような言葉を持ち出すより、「東の博士たち」のほうがはるかに夢があり、メルヘンティックでクリスマス物語にふさわしい。(2001.12.9)
(71) 黄金、没薬、乳香
こんなに難しい言葉を、園児たちは覚える。なぜなら、これはクリスマス物語の必須アイテムだからである。例の東の博士たちが「赤ちゃんイエス」に捧げる宝物である。これは古代中近東地方で王(の即位、あるいは誕生のとき)に献ずる貢物であるらしい。
イザヤ書60:6では「シェバの人々は皆、黄金と乳香を携えて来る」という言葉が見られるが、ここには「没薬」が欠けている。要するに主イエスはそれ以上だということであろうか。
12月に誕生された「敬宮愛子さま」には「東の博士たちから」何が贈られるのだろうか。(2001.12.16)
(72) 馬小屋
聖書では、主イエスは「(荒)布に包まれ飼葉桶に寝かされていた」(ルカ2:7,12)、とされる。しかし、どこにも「馬小屋」という言葉はない。ただ、マタイによると東の博士たちは星に導かれ、「幼子のいる場所」にたどりつき、「家に入ってみると」(マタイ2:11)とあるので、これら二つをつなぎ合わせると「馬小屋」というイメージが形成される。(2001.12.23)
(73) マドンナ
「マドンナ」という表現はかなり日常語化している。「わたしのクラスのマドンナ」とか、国会議員選挙で女性進出が目立ったときなど「マドンナ旋風」などとい言う。この言葉はイタリア語で「わたしたちの婦人」、英語でいうと「our lady」という意味であるが、これを大文字で「Madonna」とすると、「聖母マリア」の意味となる。
たとえ処女降誕を認めるとしても、主イエスを産んだ母胎が穢れているはずがない、という信仰から「原罪」とも無関係であるとする「聖母無罪説」や「聖母昇天説」などが生まれた。(2001.12.25)
(74) 月名
年頭にちなみ、旧約聖書に見られるユダヤの暦、1年の月名を紹介しましょう。
ニサンの月 |
3〜4月 |
イヤルの月 |
4〜5月 |
シワンの月 |
5〜6月 |
タンムズの月 |
6〜7月 |
アブの月 |
7〜8月 |
エルルの月 |
8〜9月 |
ティシュリの月 |
9〜10月 |
マルベシュワンの月 |
10〜11月 |
キスレウの月 |
11〜12月 |
テベテの月 |
12〜1月 |
セバテの月 |
1〜2月 |
アダルの月 |
2〜3月 |
ウエアダルの月(第2のアダル) |
うるう月 |
(2002.1.6)
(75) 税金
「世界で最も理解が難しいのは、所得税というものだ」と、かのアインシュタインが述べたという。(天声人語 02.1.12)確かに、なぜ税金を納めなければならないのか、税金とは何か、ということは難しい。
古代社会(旧約聖書)では、税金と貢(みつぎ)との区別は曖昧である。特に、遊牧民にとって税金ということを理解するのは難しいと思う。ただ、明白なことは権力構造と税金とは密接な関係があるということである。
主イエスの時代のユダヤでは、ローマ帝国による政治権力とユダヤ教による宗教的権力の二重構造があり、税金も人頭税(ローマへ)と神殿税(ユダヤ教)とがあり、民衆の生活は圧迫されていた。
主イエスの生涯においても税金問題は重要なテーマであった。マタイによる福音書17:24以下の「神殿税として収めるべき銀貨」を魚の口から取り出したエピソードは興味深い。(2002.1.13)
(75) 器(うつわ)
クリスチャン独特の言い回し。神の目的のために用いるものという特別な意味が込められている。
「神の器」とか「平和の器にしてください」という表現をとる。使徒パウロについて、「(彼は異邦人にわたしの名を伝えるために、)わたしが選んだ器である」(使徒言行録9:15)と言われている。(2002.2.17)
(76) 兄弟(きょうだい)
教会員の間で用いられる男性教会員に対する敬称。カトリック教会では用いられないとのこと。文章で書く場合には「小池兄」と書いて、「小池きょうだい」と呼ぶ。「小池けい」とか「小池あに」という呼び方は間違い。但し、正教会では「小池けい」という読み方が普通とのこと。本人に直接呼びかける場合にはほとんど用いられないが、公式な場で公に呼ぶ場合にはしばしば用いられる。(2002.2.24)
(77) 姉妹(しまい)
教会員の間で用いられる女性教会員に対する敬称。カトリック教会では用いられないとのこと。文章で書く場合には「小池姉」と書いて、「小池しまい」と呼ぶ。
たとえ、相手がどんなに若くても、たとえ孫であっても「小池貴子姉」と書いて「小池貴子しまい」と呼ぶ。(2002.3.3)
(78) 協働
「共同」「共生」「協力」「共働」「協働」など、それぞれ異なったニュアンスで用いられる。特に、日本聖公会では「協働」という言葉が愛好される。意味は「パートナーズ イン ミッション」を翻訳する際に生まれた言葉で、「仲間として協力して働く」という意味のようである。(2002.3.17)
(79) 七聖言
十字架上で「死に至る」苦しみの中で、発せられたとされる七つの言葉。当然ながら発音も、意味も明瞭ではなく、これを聞いた人間の「思い入れ」がかなり大きく影響している。それだからこそ、この七つの言葉は聖週(受難週)の黙想になる。
(1) 父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。(ルカ23:34)
(2) はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。(ルカ23:43)
(3) 婦人よ、御覧なさい。あなたの子です。見なさい、あなたの母です。(ヨハネ19:26,27)
(4) エリ、エリ、レマ、サバクタニ(マタイ27:46)
(5) 渇く。(ヨハネ19:28)
(6) 成し遂げられた。(ヨハネ19:30)
(7) 父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。(ルカ23:46)
(2002.3.24)
(80) イースター(復活日)
「イースター」という言い方は、ゲルマンの春の女神「エアストロ(Oustro)」に由来すると言われるが、確かではない。初期においては、ユダヤ暦の過越しの祭りにならって「ニサンの月」の14日(曜日は移動)に復活を祝う教会とその次の日曜日に祝うところがあったとされる。
復活日の制定については、何世紀にもわたる論争が繰り返された。ニケヤ会議(325年)において一応「春分の後の最初の満月の後に来る最初の日曜日」という風に決定されたが、そう簡単に問題が解決したわけではない。そもそも暦そのものが「ユリウス暦」あり、「グレゴリウス暦」ありで、統一した日を定めることは難しい。今日でも、日本ハリストス教会では、だいたい1週間遅れで復活祭を迎える。
イースターが毎年移動するということは、現代の社会生活上いろいろ不都合があるという理由で、これをクリスマスと同じように固定しようという動きがあるが、この運動は不調に終わるであろう。(2002.3.31)