「モーセのとりなし」 

                           執事 松山健作

 


  「主よ、どうして御自分の民に向かって怒りを燃やされるのですか。あなたが大いなる御力と強い御手をもってエジプトの国から導き出された民ではありませんか。 」(出エジプト三二・十一)

 モーセは、山に登って神さまと対話している間に、麓に残されたイスラエルの民は、金の仔牛の鋳像を造り、それにひれ伏し、戯れ、堕落してしまいます。  神との約束である十戒「あなたはいかなる像も作ってはならない」(出二〇・四)を犯すのです。民は、モーセという指導者の不在に不安を抱き、神との約束を忘れ、不忠実となってしまいます。

 ここに、わたしたちの人間の弱さが表れているのかもしれません。偉大で尊敬できる指導者が目に見える時は、安心して、かつ信頼してついていけます。何の不安も抱く必要がありません。けれど、その指導者の存在が、不在という状態になれば、どうでしょうか。

 最初は大丈夫かもしれません。けれども、長期化する内に不安が生じ、何かにあやかりたくなる気持ちが生じるかもしれません。本質からそれる可能性があるかもしれません。あらぬ方向へと迷い込んでしまうのです。

 わたしたちは生きる中でそんな経験を繰り返します。失敗を繰り返しますし、それは心の内に偶像を造ることなのかもしれません。さまざまな情欲に流されているということなのもしれません。それがどんどん大きくなって、その偶像にひれ伏す時に、神は激しい怒りを覚えられるのです。

 ここでモーセは、神と対話しながらとりなし主としての役割を果たします。罪を犯した民を何とかして、助けようと神を説得します。不忠実な民に対して、神は滅ぼし尽くすと怒りますが、何とか思いとどまるように説得するのです。

 このモーセのなだめに神は、きっちりと応えられます。怒りをおさめ、思い直されるのです。人間であるモーセのとりなしを聞いてくださり、変化してくださる神の姿がここにあります。

 わたしたちは、このようなとりなし主に救われて今ここに生きています。その救いに与った次は、そのとりなしを他者のために施す必要があるかもしれません。それは今もなお十字架にかかり続けているとりなし主に倣う生き方を、わたしたち自身がすることへの招きなのではないでしょうか。

 わたしたちはとりなされるだけではなく、他者をとりなすこともできるのです。それは自分を愛するように隣人を愛しなさい、ということの実践です。わたしたちは、日々の中での神への不忠実を告白し、悔い改め、そしてまた赦され生かされる中でとりなしを行うことができますようにと、お祈りしています。