「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げずもはや戦うことを学ばない。」(イザヤ二章四節) 

                           執事アンデレ 松山健作

 


 

 先月六月二三日(日)を挟んで沖縄週間・沖縄の旅に参加しました。現地フィールドワーク、主日礼拝、慰霊の日の礼拝、戦争証言を聞くなどなど、さまざまな学びの恵みがありました。どれも印象深く、新たに知ることの多い旅となりました。

 沖縄には、日本にある米軍基地の七四パーセントが集中すると言われます。一九七二年復帰後も沖縄は、戦争と隣り合わせの地であります。この問題は、しばしば沖縄の問題として理解されがちですが、実は日本全体の平和に関する問題です。

 キリスト教会において、この平和に関する問題を沖縄の人々の生活の問題、いのちの問題として、真摯に学び、検討しなければならないでしょう。

 しばしば、キリスト教会内では「政教分離」という言葉が一人歩きします。この言葉の意味は、国家と宗教とを分離することが真意です。教会から政治的関心を分離する原則ではありません。つまり国家が特定の宗教に関わりを持つことを否定する原則で、個々人の信教の自由を保障するものです。ゆえに個々のローカルな教会が政治的・社会的事柄について、発言をしないということには繋がらないのです。

 この「政教分離」の理解に誤解が生じると、私たち日本の教会の構成員は、政治や社会についての立場を示す必要がないということになります。しかし、政治や社会に対する教会の立場は、現場で聖書を読み、福音を証しする上で、ある程度明確にしなければならない事柄です。つまり、この日本において福音宣教する中で信仰的な立場を表明して歩む姿勢を示して生きることが問われています。

 私は、沖縄で普天間基地の横にある普天間第二小学校を訪問しました。この小学校は、しばしば米軍基地からのさまざまな影響を受けています。それは騒音被害をはじめ、二〇一八年一二月にも学校の運動場に七・七キロのヘリコプターの窓枠が落下しました。幸いに子どもたちに被害は及びませんでした。

 けれども、通常であればいのちを守るはずの軍隊です。しかし、沖縄の子どもたちのいのちは米軍によって脅かされている現状です。私たち京都の地で、空から降ってくるおよそ八キロの落下物を想像できるでしょうか。これがいかに恐ろしい日常であるかを想像してみてください。

 普天間第二小学校では、県庁の職員が常駐し、ヘリコプターが運動場の上空を通過するたびに避難しなければなりません。その数は、年間でおよそ九〇〇回にのぼります。一日に何回も避難を強いられます。四五分の体育の授業で何回も避難をしなければなりません。到底、授業にはなりません。

 このような基地のある日常は、私たちの住む京都において、想像もできない状況であり、子どもたちの尊いいのちを脅かす現状が沖縄にあるということを示しています。ここで思い浮かべる聖句は、イザヤ二章四節です。

 私たちは、聖書の学びを通して、「非武装」という選択肢を持つことはできないかと思います。先人たちが経験して記した知恵をこの現代において読み直すことで、私たちは主の福音に触れることができるのではないでしょうか。誰をものいのちが脅かされない平和な世界が訪れますようにとお祈りしています。