ロバのような王

    執事  アントニオ出口 崇

 

       「主がお入り用なのです」(ルカ1931
 園長をしている下鴨幼稚園には、大きな三輪車があります。三人乗りで、運転席の後ろに座席があり、こども二人がお客さんとして乗ることができます。大きいと言っても、園児用ですので、大人の私か乗れるわけではありません。
 しかしたまに、子どもたちとの遊びの中で園長せんせいが運転することもあります。もちろん運転席に座ろうとすると長い足(こどもより)が邪魔になり座ることもできません。お客さんが座る後部座席にお尻を置いて、やっとのことで長い足(こどもより)が収まり、ペダルをこぐことができます。お客さんを乗せることはできません。周りの先生たちが三輪車の強度を心配するので、あまり長いことは乗りませんが、それでもとても疲れます。自分の体、身の丈に合わない乗り物をこぐと、お尻も腰も痛くなります。
 イエス様のエルサレム入場という晴れやかな描写がルカ福音書19章の後半に書かれていますが、何だかちぐはぐとして、晴れの舞台という感じがしません。
  「なぜロバ、しかも子ロバなんだろう」子ども用の三輪車と同様、機能的ではない、子ロバの体力を考えると、かわいそうな場面を想像してしまいます。
 
            しかし、イエス様は「子ロバ」に乗ることを望まれ、弟子たちに調達するように命じます。「子ロバ」でなければなりませんでした。
 旧約聖書の中には救い主の到来を予言している箇所がいくつかあり、ゼカリア書では預言者ゼカリアが「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ロバに乗って来る。」 (ゼカリア書9一9)と預言をしていました。
 王様がロバに乗って来る。私たちのイメージもそうですが、当時の人々にとっても王様の凱旋とは、戦いに勝ち、多くの兵士に囲まれ、威厳のある軍服を身に纏い立派な馬にまたがり、道路には美しい花がまかれ入城する。民衆はそれをシュロの小枝を振って歓迎する。というのが常識であり、民衆の期待でありました。まさか、王が子ロバに乗ってエルサレムに入城するとは、期待はずれであり、滑稽以外の何ものでもありません。
 しかしイエス様はあえて弟子たちに子ロバを用意させます。
 ロバはもともと背が低い動物ですし、だれも乗ったことのないロバということですので、人を乗せる仕事につく前のさらに小さなものだったので、おそらくまたがっても足がついてしまうような状態だったのではないでしょうか。歩いたほうがまだ進みやすかったような子ロバに跨って入城するイエス様と歓迎していた群衆。
 世界を支配する「王」に必要なのは、軍事力でも、経済力でも、政治力でもなく、ロバに乗る王である。言い換えればロバのような王である、と聖書を通して私たちにも伝えてくださっています。
 ロバの特徴は、長い耳と柔和さです。長い耳とは、「聴き従う」という神様との密接な関係を意味し、柔和さとは人々に対する働きを示す。ロバは本来
 「戦う」ための動物ではなく、また「乗る」ための動物でもない。ロバの主な役割は荷物を運ぶとりことにある。力は力でも、他人の苦労を自ら担い、仕えるための力である。イエス様はまさにロバのような王でありました。
 イエス様の地上でのご生涯、受難、十字架の死、復活はまさしくロバが象徴している、「神様に聴き従う」ことと、「互いに仕えあう」ことでありました。
 
 教会の暦では降臨節前主日をもって一年が終わり、新しい年、イエス様のご降誕を待ち望む、降臨節から新年が始まります。
 一年の最後の主日に、イエス様の弟子だちとの旅の終着、エルサレムに入城する場面が読まれます。
 ローマーカトリック教会では同じく一年の最後の主日を「王であるキリストの主日」と呼び、キリストが王としてあまねく支配していること、それが目に見えるかたちで実現し、全人類がその王国で平和の内に生きることを望むようにと、世界の歴史の最終的な目的の日の実現を、祝い願う日である。とされています。
 私たちキリスト者にとって唯一の支配者であり、王であるのはイエス・キリストである、ということを再確認し、そしてその王、救い主とは、神に聴き従い、人々の重荷を担う小さな弱々しい存在であったことを、思い起こしたいと思います。

 

 

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