2004年8月8日  聖霊降臨後第10主日 (C年)


司祭 ヨシュア 文屋善明

富を天に積む  ルカ12:32-40

1. 「天に富を積む」とはどういうことか
 先週の主日のメッセージは、遺産ということから始まって、財産を残すということの空しさが主題であった。そして結論として、「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」(ルカ12:21)という厳しい言葉が投げかけられている。本日の福音書は明らかにこの結論を受けている。「自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい」というのが本日のメッセージである。
 それでは、具体的に「天に富を積む」ということは、一体どういうことを意味し、何をすれば天に富を積むことになるのか、ということがわたしたちの課題である。そのことについてのルカの答えは非常に簡単である。「自分の持ち物を売り払って、施しなさい」ということに尽きる。貧しい人々への施しが、「天に富を積む」ことになるということは、初代教会の共通した理解であったようである。例の金持ちの青年が主イエスに「何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」という質問したときに、主イエスは「持っているものをすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる」(ルカ18:22)と答えておられる。この言葉は、ルカだけでなく、マルコ(10:21)もマタイ(19:21)も同じである。
2. 初代教会の信徒の経済状況
 ところで、わたしたちが知っている初代教会の信徒たちの経済状況を考えてみると、彼らのほとんどは貧しい人々であり、施しをできるような金持ちは例外的であった、と思われる。従って、「施しをせよ」と言われても、実際に施しをできるような人はまれであった。だからこそ、例の金持ちの青年が主イエスのもとを離れて行ったときに「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだやさしい」(ルカ18:25)、と言われている。
 この関連の中で、使徒言行録の第3章の出来事はわたしたちの注意を引く。使徒ペテロと使徒ヨハネという初代教会の2人のリーダーが午後3時の祈りのためにエルサレムの神殿の「美しい門」と呼ばれる所を通りかかったとき、足の不自由な男が施しを乞うていた。この男は使徒ペテロと使徒ヨハネにも施しを求めた。その時、使徒ペテロは「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」(使徒3:6)、と語った、という。この出来事が、教会が教会として外部の人々と関わりはじめるきっかけとなった。
 この出来事からわたしたちが学ぶ最も重要なことは、使徒ペテロも使徒ヨハネも貧しい人を見て素通り出来なかった、という点である。貧しい人、助けを求めている人を目の前にしたとき、素通りできない「心」を彼らはもっていた。「あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ」(34節)という本日のテキストに即していうならば、彼らの心はこのことに向けられていた。
 貧しい人々へ、助けを求めている人に何かを施すということには、「心」がなければならない。心の無い施しは、施す者と施される者との間に優越感と卑屈さを生みだし、本当の人間としての交わりを破壊する。施しという行為が「余っている金を貧しい人々に与える」ということで終わってしまう。施しをする場合、施す金よりも施したいという「心」が先ずなければならない。使徒ペテロや使徒ヨハネには施す金は持っていなかったが、施したいという「心」があった。この「心」が、彼らが持っていた唯一のもの、「主イエスのみ名」を与えることになった。ここに、教会における福祉と伝道との根本的な接点がある。
3.「天に富を積む」
 天に富を積むとは、財産の問題ではなく「心」の問題である。しかし、と言って単純な精神論ではない。具体的な生活の中で、わたしたちの「心」がどこにあり、どこを向いているのかという問題である。何を捨て、何を求めているのか。人の目を気にする生き方ではなく、神の目を基準にする生き方である。人間は表面的な行為を見るが、神はわたしたちの心を見ておられる

 

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