司祭 ヨシュア 文屋善明
感謝の心【ルカ7:36−50】
1.ナルドの香油
今週から教会暦は「緑の季節」に入る。緑の季節は信仰の成長ということを考え、願い、求める季節である。その最初の主日の福音書に取り上げられているのが、いわゆる「ナルドの香油事件」のルカ版である。
一人の女性が非常に高価な香油「ナルドの香油」の入った石膏の壺を割って、主イエスの体に塗ったという物語は、4つの福音書全部に出てくる。おそらく、初代教会において美しい物語としてかなり広く流布していたものと思われる。ところが、それぞれの福音書の叙述の仕方を比べてみると、細部について多少の変化が見られる。マルコの記事によると、場所は「ベタニヤのシモンの家」での食事中の出来事である。そこに一人の女性が「純粋で非常に高価なナルドの香油」を「イエスの頭に注いだ」とされる。その香油の値段は「300デナリオン以上」、つまり普通の労働者約1年分の給料である。それを見ていた「そこにいた人の何人か」が、「それを売って、貧しい人々に施せば、もっと有効である」香油の無駄づかいをとがめた。ところが、主イエスはこの批判に対して、「この女性を困らせるな、したいようにしておきなさい」と言う。主イエスがそう言った理由は、「貧しい人々はいつもあなた方と一緒にいるが、わたしはいつまでも一緒にいるわけではない。あなたたちは気がついていないかも知れないが、これはわたし自身の埋葬の準備なのだ」と言い、さらにそれに付け加えて「はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるであろう」と語られた。おそらく、この最後の部分は後代のキリスト者たちによって付加されたものと思われる。
マタイは、「そこにいた人の何人か」という言葉を「弟子たち」に変えたり、「埋葬」を「葬式」に変えたぐらいで、マルコの記事をほとんどそのままに引用している。ヨハネもほぼ同様で、場所を「シモンの家」から「イエスが死者の名からよみがえらせられたラザロ」の家に移し、「一人の女性」をラザロの姉「マリア」に変え、「弟子たち」というのを「後にイエスを裏切るイスカリオテのユダ」にしているだけである。いかにもユダを勘定高い欲張りな人物像にしている。しかし、登場人物は異なるが、話の筋は大筋同じである。
要するに、これら3人の記事は、一人の女性が高価な香油を惜しげもなく主イエスのために捧げた行為を「貧しい人々への施し」と対比して、無駄づかいであるとする批判に対して主イエスの批判が主題となっている。主イエスの批判の根拠は、この無駄づかいと思われる行為も、いわば一種の非常事態、つまり主イエスご自身の死ということと関連づけることによって、賞賛に値するものだということにある。つまり、主イエスに対して、あるいは教会に対して捧げられる献金を、福音宣教というある意味では「無駄なこと」のために用いることと、「貧しい人々の救済」のために用いることの比較である。わかりやすく言うならば、美しいステンドグラスで飾られた礼拝堂を建て、パイプオルガンを設置するだけの金があるならば、福祉施設でも建てた方がましだ、という議論に対して、宗教的な行為とはそれ以上のものだという反論である。
2.ルカの見解
それに対して、ルカはこの出来事をそういう風に理解していいものか、という疑問を出している。結論の一部を先に明らかにしておく。他の3人はこの出来事をキリストへの捧げものを何に使うかという使い方を問題にしているの対して、ルカは「一人の女」を「町の罪深い女」に変えることによって、主イエスへの捧げものの動機、捧げ方を問題にしている。主イエスに高価な香油を塗るといういわば美しいイメージが、その女性を「罪深い女」に変えることによって、生々しい男と女の光景に変えている。当然、それを見ていたファリサイ派の人々は「なんと、いかがわしいことか」と嘆き、それを黙って受け入れている主イエスの品性に疑問を出している。宗教家としてあるまじき態度だと言う。おそらく、弟子たちをはじめ、その家にいた人々はみんな、ファリサイ派の人々と同じように感じていたに違いない。この女性の行為はいかにも派手である。彼女が用いた香油の香りが家中に充満した。彼女の行為はいかにも「なまめかしい」。彼女の存在そのものが、この家を独占していた。誰も、彼女の行為を無視出来ない。何とかしなければと、皆感じていたに違いない。
もし、現在でも一見「いかがわしい女性」が教会の礼拝に出席し、多額の献金を捧げたら、敬虔な信徒たちはどうのような反応を示すだろうか。あの金はどうして稼いだのか。そんなお金を捧げられて、わたしたちの綺麗なお金と一緒にされたら困る、と思うのではなかろうか。だいだい、礼拝にあんな服装で来るものではない。などと、いろいろと噂したり、批判したりするのではなかろうか。彼女の言葉も、服装も、仕草も、すべてが「いかがわしい」と思うのではなかろうか。しかし、ルカの当時の教会にはいろいろな人々が出入りしていた。特に教会を形作った人々は社会の最下層の人々であったと思われる。当然、「罪深い女」と称せられる人々もいたことだろう。従って、この問題は切実な問題でもあった。
3. 赦しと恵み
この様な雰囲気の中で、主イエスは、ファリサイ派の人々を横目で見ながら、その家の主人シモンに問いかける。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は500デナリオン、もう一人は50デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」(41−42節)答えは明白である。主イエスはシモンに言う。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。」(44−46節)ここで述べられていることにはかなり誇張ないしは文学的常とう表現がある。しかし、重要なことは、次の言葉である。「だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」(47節)
4.「彼女流」の感謝
愛し方にもいろいろある。激しい愛もあれば、静かな愛もある。派手な愛し方もあれば、慎み深い愛もある。愛し方は人それぞれである。同じように、捧げ方もいろいろある。奉仕の仕方にもいろいろある。この女性は「彼女流」の愛し方、捧げ方、奉仕の仕方で、その最高の仕方で主イエスに仕え、教会のために働いている。これを誰も批判できない。確かに、彼女流の仕方は普通じゃないかも知れない。型破りである。しかし、これが彼女流であり、この仕方しか彼女には出来ない。主イエスは、彼女流の愛と奉仕だけではなく、彼女自身をも喜んで受け入れた。
教会は、このような人々によって支えられ、形成されている。