執事 エッサイ 矢萩新一
今週の福音書(ヨハネ2:1−11)は、有名なカナの婚礼の物語です。ガリラヤのカナで行われたある結婚式に、イエスとその弟子たちが招かれていました。この華やかな宴の時に、お酒がなってしまいましたが、イエスが言った通りにすると、6つの水がめの水がぶどう酒に変わっていたという出来事です。宴会の席で飲み物が無くなるという事は主催者である花婿の大失態となってしまいます。この事にいち早く気づいた母は、「ぶどう酒がなくなりました」とだけイエスに告げます。直接的に奇跡を求めてはいませんが、この緊急事態を何とかして欲しいという切実な願いが込められた言葉でありました。それに対してイエスは、「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。」と、一見冷たく拒絶したような返答をします。そして更に、「わたしの時はまだ来ていません」と付け加え、イエスの力が現されるのは、父なる神がそう望まれた時だということを母に伝えます。
ところで、なぜ自らの母のことを「婦人よ」と呼んだのでしょうか。この言葉は、血の繋がりのない人に向かっての呼びかけですが、マリアはイエスに拒絶されたとは受け取っていません。召使たちに自信を持って「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った事からも分かるように、母と子という血縁を超えたところで自らを理解し、自分に重要な役割を与えようとしている事に気付きます。
また、「わたしの時」とイエスが言うその「時」とは、「十字架の死と復活の時」です。その「時」が来るまでは、イエスは神の望みなしには何事も行いません。そのことを明らかにして、母の心を神に向けようとしたのです。母とその召使たちはひたすらに信じ、イエスの言葉に従って奇跡を目の当たりにします。この奇跡は、神に信頼するイエスと母、そして人々に対する神の応答です。
ヨハネによる福音書では、奇跡の事を「しるし」と呼んでいます。奇跡が、ただ不思議な出来事なのではなく、神がどのような方なのかを指し示す出来事、神の栄光を現す「しるし」である事を意味します。神の力は人間がそれに相応しく振舞った時に豊かに現されて行くものである事を、カナの婚礼の物語から学びたいと思います。直接水がめを運んだ召使たち以外には、この奇跡の事を知りません。同じように、私達の身の回りにも様々な奇跡は起こっていますが、気付かない事が多いのだろうと思います。私達が心からイエスの言葉に信頼し、従って行こうとする時、神の栄光である「しるし」をこの世の中で発見して行けるのではないでしょうか。イエスはたくさんの「しるし」・奇跡を現しました。その場面は、どのような時であったのかを常に思い起こしながら生活できればいいなぁと思います。