執事 マーク シュタール
悔い改めに相応しい実を結べ
信仰の成長は、健やかな根の上にこそ成し得るものです。ルカによる福音書3章8節の中でバプテスマのヨハネは、自分を見に群集が集まってくるのを見てこう言われました。「悔い改めに相応しい実を結べ」と。私たちは信仰が悔い改めに根ざしていなければ、どうしてイエス・キリストの恵みと知識において成長できましょう(ペトロの手紙U3章18節)。私たちは、自分たちが本質的に不完全であり、神様の許しと慈しみなくしては生きられないと自覚してこそ、信仰の成長を果たすことができるのです。
もう少しこのことを理解するために、ルカによる福音書の7章36〜50節を見てみましょう。ここでイエスはファリサイ派のシモンの家を訪ねます。シモンはイエスが来ても人並みのもてなしすらしませんでした。ファリサイ派たちが好奇心を満たすためだけにバプテスマのヨハネを見に行った時のように、シモンもイエスが何者なのかを知りたい一心だったのでしょう。そこに娼婦が訪ねて来て、イエスの足を涙で洗い、香油を塗り、さらに自分の髪でイエスの足を拭いました。それを見てシモンは、何故イエスがそんな振る舞いを許したのか、納得が行きませんでした。そこでイエスは、二人の負債者の喩え話を持ち出します。一人は小額の借金を帳消しにしてもらい、もう一人は多額の借金を帳消しにしてもらいました。問題はどちらの負債者がより金貸しを愛したかということです。答えはシモンも分かっていたはずです。ポイントは、人は自分がどれほど許しを必要としているかを認識していてこそ、許しを下さる方を愛することができるということです。イエスはその女の罪を許し、安心して行きなさいと言われました。
信仰の成長は悔い改めに根ざしています。何故なら、キリスト者の信仰は許しに根ざしているからです。このことを理解してのみ、イエスの恵みと知識において成長できるのです。主の教えを喜び、日夜主の教えに学ぶものこそが、小川のほとりに根を下ろした木のように豊かな実を結ぶのです(詩篇1篇1〜3節)。