2003年11月30日  降臨節第1主日 (C年)

 

司祭 アンデレ 佐藤 徹

 今日から降臨節に入りました。教会の暦では新年を迎えたわけである。私たちの新年は、クリスマスを迎える心の準備とイエスが再び来られ、永遠の命に入れられる者と永遠の滅亡に入れられる者とに分けられる、終わりの日が来るという日のために心の準備をする期節から始まる。
 それ故、今週の福音書(ルカによる福音書21:25−31)は、森羅万象に現れる異変の記事が記されている。天体には徴が現れ、地と海は荒れ狂い、人々は不安のため気絶すると表現されている。これは黙示的な表現で、後の方では、イチジクの木などの細かい変化を見ることの大切さにも触れている。要は心を神に向け、主が再び来られるときに全心を傾けて待ち望むことを示唆している。
 『このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。』
 頭を上げるのは希望の徴であり、解放の時は苦しみからの救いである。
 ここで横路に逸れるようであるが、霊魂の不滅と永遠の命について触れておきたいと思う。一見同じ様に思えるが、全く違うのである。霊魂の不滅というのは、霊魂は不滅で、その霊魂は、木とか動物とか他の人間とかに帰依するということである。永遠の命は、あくまでもその人の人格は死んでも失われず、肉体は滅んでも、その人の魂、人格は継がれる、救われている者の命である。
 イエス・キリストの再臨。イエスが最後の審判に来られるとき。それが秘めている偉大な真理がある。歴史は繰り返されるというけれども果たしてそうであろうか?キリスト教の歴史観は、歴史には一つの到達点があり、その到達点とは、イエス・キリストが万物の主となるときである。そのとき、わたしたちが主とともに居られるということに強く関心を持っている。
 この福音書の個所で、もう一つのことは、観ることの必要性が強調されている。クリスチャンは自分が永久不変な状況の中で生活しているように考えては成らない。そうではなく、絶えざる期待の中に生きる人でなければならない。わたしたちが好むと好まざるとにかかわらず、絶えず永遠の陰影の中に生きねばならない。そして、神のみ前に出るに相応しい者か否かは、 その道程で自ずと決まってくるのである。クリスチャン歩みほど、スリルに満ちたものはない。
 イエスは、神殿に集まった群衆の真中に一日を過ごし、星の下で神とともに一夜を過ごされた。このような静思の時をもたれたからこそ、彼は群衆に対してあのような力を発揮された。彼が人々に直面出来たのは神との交わりがあったからである。

 

 

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