2003年11月23日  降臨節前主日 (B年)

 

司祭 ダビデ 佐保靖幸

王なるキリストの主日【ヨハネ18:31−37】

 昔おられ、今おられ、やがて来られる全能のお方のみ名によって、アーメン。
 教会暦最後の主日になりました。それぞれの過ぎた一年の生活を、神のみ恵みのうちにふりかえり、来る一年への希望をみ恵みとともに祈る日でもあります。
 我々キリスト者は、万物の創造者でありイエスが『父よ』と呼ばれた全能の神が、そのイエスと共に与えて下さった約束を信じて生き、且つその約束に希望をおいて生きる者であります。その約束の証言と保証の書が「旧約と新約」聖書であります。
 我々が今、存在し生活している世界は、現代の科学が証明し明示するとおりの現象が観られる世界である。がしかし、我々キリスト者は、この世界だけを信じ、これに希望を置いて生きているわけではない。もちろん、現代科学が証明する事実を否定するものではない(しかし科学が証明する事実は、ある特定の条件のもとで生起している現象であり、今の科学が知りうる仮設でしかない事を知っておくことは大切であり、深い知恵である)。
 さて、イエスは弟子たちに、そして私たちに、最も根本的な祈りを与えてくださり、絶えずこの祈りを『祈る』ようにと教えられました。それが「主の祈り」です。
 「主の祈り」の中でイエスは『み国が来ますように』と祈ることを教えています。『み国』と言うのは、『天におられる私たちの父』の国、つまり『神の国』のことです。人々が漠然と「天国」と言っているのは、この『神の国』について語り教えられる場合、『神の国』は神の御独り子であるイエス・キリストの国、つまりイエス・キリストが主人であり、イエス・キリストの愛で全てが動いている国のことです。
 今日の福音書はイエスが十字架にかかられる直前の裁判での、ローマ帝国の代官ピラトとの門答の場面です。その36節以下の所で次のように言っておられます。「わたしの国は、この世に属していない。・・・しかし、実際、わたしの国はこの世に属していない」。そして最後に言われます(37節の後半)。「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」
 「この世」では私たちは全てのことについて、全ての意味で終わりの来る世界・国を生きています。富も名誉も位も、人間関係も親しさも愛も喜びも恐れ・怒り・悲しみも、必ず終わりがきます。その様な諸行無常の響きに満ちた「この世」にあって、「わたしの国はこの世には属していない。」と言うイエス・キリストのみ声を、私たちは今聞くのです。そして、このみ声を聞いて信じる者が「真理に属する者である」とイエスはいわれます。つまり、「真理の国・神の国に属する者である」と。
 私たちは今日、一年の最後の主日に立っています。そして「この世に属していない」王であるお方・救い主を礼拝しています。このお方こそ「ご自身の十字架と復活によって」、全てのものに新しい命を与え、「み国を来らせる力のあるお方」であります。
 「ご自身の十字架と復活によって、み国を来たらせる力あるお方」への信仰を固くし、希望を高く掲げて、新しい年へと進み行く私たちに、勇気と力と祝福がありますように。アーメン


 

過去のメッセージ