司祭 ヨシュア 文屋善明
対 話【マルコ12:28−34】
マルコ福音書には主イエスと律法学者たちとの論争が繰り返されている。しかし、本日のテキストはそれらの論争とはかなり趣を異にしている。ここでの律法学者は、先ずイエスの態度を見て、またその答えの内容を聞いて、一定の評価をしている。その上で、ユダヤ人ならば誰でも分かりきったことを質問する。「あらゆる掟の内で、どれが第1でしょうか。」この質問に対する答えは、明白である。ユダヤ人の家に行くと、入口や、壁や、そこら中にこの言葉を書いた色紙のようなものが貼られている(申命記6:6−9)。こんなことを質問すること自体が失礼である。まるで、イエスを異邦人扱いしている、と腹を立てても当然である。しかし、主イエスは従順に、まじめに答えられた。わたしたちは、先ず主イエスのこの態度を注目すべきである。
そのまじめさに打たれたのか、律法学者も、きわどい答えをする。この律法学者の答えは実にきわどい。要するに「愛は犠牲に勝る」と言う。普通の律法学者ならこういうことは触れない。ここには非常に難しい問題がひそんでいる。しかし、主イエスのまじめな答えに彼自身もまじめに応答せざるを得なくなったのだろう。ここから、本当の対話が始まる。
本当の対話が始まる方程式とは何か。結論を先に言おう。対話する両者の間に確固たる共通点がなければ対話は成り立たない。逆に言うと、真の対話は、対話する両者を結ぶ共通の基盤の上に成り立つものである。
そこで、この律法学者と主イエスとの対話が成り立つものとは何か。そこからこの対話が始まっている。「分かり切ったもの」というが、それは本当に「分かり切ったものなのか」。この律法学者の質問は、現代的に翻訳するならば「あなたが本当に大切にしているものは何か。」「そのために自分の命をかけることができるもの」とは何か、ということであろう。どっかの教科書に書いてあるような「模範回答」ではなく、本当にその人が最も大切にしているものは何か。もし、それが対話する両者の間で共有するものであれば、対話は成り立つ。夫婦、親子、あるいは国際関係で対立する二つの国、職場、それぞれ具体的な内容は異なるにせよ、両者の間で最も大切なものが同じであるならば、対話は成り立つ。もし、この点でズレがある場合には「不本意な妥協」という形でしか共存できない。この対話の中から、教会が最も大切にしていることが明確に述べられている。「わたしたちの主である神は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを付くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」「隣人を自分のように愛しなさい。」もっと短く「誠心誠意神を愛し、隣人を自分のように愛す」。ここに教会の命があり、わたしたちの生きがいがある。