司祭 テモテ 宮嶋 眞
「天に富を積む」(マルコ福音書10章17〜27節)
私たちは、実際に天国に貯金ができるのでしょうか。では、どうすればいいのでしょうか。イエスの答えは、その前の部分に書かれています。イエスは「行って持っている物を売り払い、貧しい人に施しなさい。」と言われました。それが天に宝を積むということそのものであると言うのです。イエスのこの言葉は衝撃です。果たして、そんなことができる人がいるのでしょうか。ごく少数の修道者はそれを成し遂げてきたでしょう。しかし、一般のわれわれには、、、、、
はたして、イエスに出会い、この言葉を聴いた人は、「この言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去ったと。」とあります。私たちの多くもそのような反応をせざるを得ないのでしょうか。
自然界に目を向けてみましょう。今は秋です。
「実りの秋」
伸ばしに伸ばし
茂りに茂らせ
秋風おもむろに来たるとき
棄つべきを棄て
留むべきを留む
すでに実りの営みに入る
精力をただこの一時に集む
秋の働きは厳粛なり (後藤静香著「天よりの声」から)
自然界のあらゆるものは、自らの種の保存のために生きているように思えます。そして、実りの秋を迎え、自身のいのちを次の世代へと引き継ぐというその一時に、全精力を注いでいるように見えます。
しかし、同時に、そのために棄てたはずの、花や、葉、自分の身体そのものも含めて、あらゆるものが、次のいのちを生むために用いられています。あらゆるものが、いのちの循環のサイクルの中に組み入れられています。あらゆるものが、次の命の誕生のために施しをしているといえないでしょうか。秋になると、よく見かける、そしてあまり役にたっていないように見える、一片のキノコでさえ、私たちには想像もできない、不思議な生命のサイクルの中に組み入れられているのでしょう。
さきほど、多くの人間にとって、自分の財産を施し、天に宝を積むことは、たやすいことではないと示唆しました。しかし、私はできると信じます。人が、もし死に直面したとき、自分の人生で積み上げた財産があったとして、それを天国であろうと地獄であろうと持っていくことができないということに気づきます。そのとき、人は遺言状を書くのかもしれません。持って行けない財産をどのように使うのか? 誰にゆだねるのか? どこに蓄えるのか?
その決断を、死を意識する直前にするのか、あるいはもっと早い時期にするのか。
実りの秋を迎え、自然界と対面すると、この詩のように「伸ばし、茂らせ」てきたものを「棄てること、留めること」へと意識を切り替えざるを得ません。
「天に宝を積むとは」、そのような営みを意識することでもあると思います。