司祭 バルトロマイ 三浦恒久
仕える者になりなさい
イエス様は3回に亘って、弟子たちに、御自身の受難を予告しています(マルコ8:31、9:31、10:33)。そして、受難予告のたびごとに、同じ一つの戒めを弟子たちに与えました。その戒めとは、「すべての人に仕える者になりなさい」ということです。
「仕える者」と訳されているギリシャ語ディアコノスは、食卓の給仕人、教会の職としての奉仕者の意味でも使われていますが、その内実は一体どのようなものなのでしょうか。これを解くカギが、第2回目の受難予告と戒めに続く、以下の御言葉に隠されています。
『そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「私の名のためにこのような子供の一人を受け入れるものは、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなく、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」』(マルコ9:36、37)。
幼稚園で次のひとこまを想像してみて下さい。今まで一身に親の愛を受けていた子供が、弟が妹が生まれて、親の愛がそちらの方に傾いた時、疎外感を感じて、気持ちが落ち着かず、不安を感じます。そのような時、教師はどうするでしょうか。しっかりと、その子供を抱き締めるのではないでしょうか。その子供を受け入れ、その子供の不安をそのまま受け止めるのではないでしょうか。これが「仕える者」の内実です。すなわち、「仕える者」とは「受け入れる者」のことなのです。上記の御言葉は、そのことを教えています。
また、結婚準備の際、よく口にする常套句は、「幸せは仕合わせだ」という言葉です。広辞苑を引くと、「幸せ」の項目に「仕合わせ」を見よという指示があり、「仕合わせ」も項目を見ると「幸せ」について説明が書かれています。このことから、「幸せ」は「仕え合うことだ」ということが分かります。お互いがお互いを認め合うこと、受け入れること、これが「幸せ」なのだということです。
すべての人に仕える者になりなさい」とは、「すべての人を受け入れる者になりなさい」ということなのです。
※説教者の都合により、次主日のを載せております。