2003年9月14日  聖霊降臨後第14主日 (B年)

 

司祭 ヨハネ 黒田 裕

十字架を背負い・・・【マルコ8:27−38】

 今日の福音書では、弟子たちとイエスさまとの間に大きなズレが生じています。それは、メシア(救い主)についての理解のズレです。一般の人々と同様弟子たちにとってメシアとは、非常に強い民族主義的な色彩を帯び、破壊者・征服者ですらありました。ところが、そういうメシアになる方だと思っていた人が、どういう訳か自分は苦しみを受け殺される(31節)というのです。そこでペトロはイエスさまをいさめ始めるのですが、ここでイエスさまと弟子たちとのズレは最高潮に達し、イエスさまはついにペトロを叱りつけます(33節)。
 そして、イエスさまは「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(34節)と言われます。「自分を捨て」−それは自分の力、物質的な力に全面的に頼ることを止めなさい、という意味ではないでしょうか。そして「自分の十字架を背負え」とも言われます。自分の十字架−それは自分の罪や弱さ、あまり人には見せたくないような自分の姿といえます。しかも、それはただ他人に要求するだけではなく、イエスさま自身が実際なされたことでもありました。また、別のところでは「わたしとわたしの言葉を恥じる者は・・・」(38節)ともあります。これは文字通り「恥じる」ということも含むのでしょうが、むしろ、私たち人間の中にある「十字架でイエスさまははりつけになった、敗北した。そんな弱々しい人がどうしてメシアなのか。どうして人を救えるのか。やはり強くなければ他人を救えないのではないか―。」との疑念に関係しているように思われます。そこには限りない人間の力への楽観性があります。さらには、これは、イエスさまが受けた荒野の誘惑と同一線上にあるのではないでしょうか。また、イエスさまの十字架を見て「十字架から降りて自分を救ってみろ」(15:30)とののしった人の姿にも重なります。
 もう一度、十字架を思い返してみたいのです。それを自分の十字架として見つめてみたいと思います。そこには私(たち)の限界が露わになっています。自分の十字架を背負って従う人生。それは、当時のイスラエルにとっては、全く思いもかけない、新しい人生のあり方でした。そればかりか、そこで示された人間の生のあり方は、現代ですら到達できていない新しい人間性が示された出来事でした。

 

 

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