司祭 ステパノ 高地 敬
私たちに向かって開かれている
「人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。」(マルコによる福音書7:32)
この人は、どんな気持ちでそれまで過ごしてきたのでしょうか。人が何かを伝えようとしているけれども、それが何なのか分からない。人に伝えたいことがあるけれども、どうすることもできないことがある。他の人々や社会に対して、また、神様に対して腹立たしい思いになることがたくさんあり、また、あきらめて、どうにでもなれと思うことばかりだ。ただ、自分の回りの何人かの人達は、自分のことを可哀想だと思ってくれているみたいで、その気持ちだけはとてもよく伝わってくる。
身近にいる人達にとって、その人は本当に大切な人でした。耳が聞こえるようになってもならなくても、その大切さには変わりがなかったと思います。けれども、イエス様のうわさを聞いて、いても立ってもいられず、その人を連れてやって来て、人々をかき分けてイエス様のところに来ます。
「エッファタ(開けよ)。」その人は耳が聞こえるようになり、はっきり話し出しました。素晴らしい体験でした。だれもが驚き、お祭り騒ぎにもなりました。耳が聞こえるようになった人は、とても重い苦しみから解放されたのだとみんなが感じました。耳が開かれ、いろんなことが分かるようになり、自分の気持ちも言葉で伝えることができるようになって、今までの苦しみは何だったのだろうとさえ思えました。ただ、イエス様が開かれたのは耳だけだったのでしょうか。何か他にも開かれたものはなかったでしょうか。
耳が聞こえるようになり、話すことができるようになっても、もちろんそれですべての災いや苦しみがなくなってしまうわけではありません。あらゆることが平和のうちに過ぎていって、この人はそのまま一生を終えた訳では決してないでしょう。耳が聞こえるようになって、人との関わりかたが大きく変えられていきます。ひょっとすると、それまでとは全く違ったものとの関わりが始まったかも知れません。何か新しいものと出会うたびに、別の苦しみを味わったかも知れません。これは私たちにとっても全く同じことです。「エッファタ(開けよ)」とイエス様から繰り返し声をかけられ、そのたびに少しずつ開かれていきます。でも、それですべてが解決していくかというと、決してそうではありません。別のしんどい思いも次々とわいてきます。それでもイエス様は、「あなた自身をいつも開ききっていなさい」と私たちに言われるのでしょうか。
これとはあまり関係ないかもしれませんが、宇多田ヒカルの歌の一節に「すべてをうけいれるなんて、しなくていいよ」というのがあります。聖書が伝えているのは、「開ききれ」ということではなくて、むしろ「そんなことしなくていいんだ」ということではないかと思うのです。もちろんイエス様の「開けよ」という言葉とともに私たちの心は開かれていきます。それは、周囲の人々に対してばかりでなく、イエス様ご自身に対してでもありました。周りの人のありようを少しずつ受け入れ、また、イエス様が一緒にいてくださることを思う。けれどもそればかりではなく、「開けよ」という言葉とともに、イエス様は目の前にいる人に向かってご自分を開いていかれたのではないでしょうか。「開けよ」という言葉とともに、天を仰いで深く息をつき、「あなたのすべてを受け止めているぞ」と言ってくださっているのだと思うのです。私たちが心を開いていろんなものを受け止めるよりもさきに、イエス様はご自分を私たちに向かって開いてくださいます。苦しい思いを抱えた私たち、強くなろうとしてもなれない私たち、そして、人に向かって十分に心を開くことがとても難しい私たち。そんな私たちに向かってイエス様は、「私にとって大切なあなただ」と、ご自分のすべてを開いて、いつもいつも言ってくださっておりました。