2003年8月31日  聖霊降臨後第12主日 (B年)

 

司祭 ヨハネ 古賀久幸

「けがれ」は外から? いいえ、心の中から。【マルコ7:1−8,14−15,21−23】

 戒律に厳しいユダヤ教徒は市場や町の雑踏に出かけると家に入ってから念入り手を洗い、あるいは沐浴して身を清めたといいます。衛生上の理由もその中にはあるでしょうが、狭い路地や賑わう市場などで異教徒と接触したことにより「けがれ」が移ることを意識した行為です。また、「けがれた」食べ物リストに載せられているものは決して口にしません。最近ではアジアのイスラム国家で日本の某調味料に豚のエキスが含まれていると噂が立っただけで大変な問題になったことを記憶しておられるでしょう。日本の文化にはそんな排他的な考えはない、と思ってはおられませんか。違います。何故、喪中につき年賀状を欠礼するのでしょうか。それは死によるけがれが正月に舞い込んでくることを忌み嫌らう相手に配慮したものです。「けがれは外からやってくる」と思っていませんか。
 イエス様は言われます。「外から人の体に入るもので、人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出てくるものが、人を汚すのである。中から、つまり人間の心から悪いものが出てくるからである。」
 けがれも悪も実は自分の外ではなく、人間の中に潜んでいると大逆転のことばを発せられました。自分の外にしか「けがれ」や悪をみとめない、これほどの傲慢と過ちがあるでしょうか。イエス様が問題にされるのはこのことなのです。罪や「けがれ」は自覚があれば避けられるものではなく、まさしく人間の本性という部分に根を張り巡らせているものなのです。
 自分は正しく、悪と「けがれ」は自分の外にしかないのだと僭称する態度が世界を席巻しています。それを証明するのが力だという主張に暗澹たる気持ちにさせられることがあります。自分自身の本当の姿に向き合いなさいとイエス様言われますが、自分のうちにこそ「けがれと悪」を認めることはつらいことなのです。けがれや悪は自分の外からやってくるのではありません。ある手続きをすれば防げるという甘いものでもありません。自分の心を深く吟味し、自分の醜い姿を直視する、イエスがおっしゃる自分の十字架を負ってわたしに従え、という十字架の道はここから始まるのです。

 

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