司祭 バルナバ 小林 聡
「生身のイエス」【ヨハネ6:53−59】
ヨハネによる福音書を読んでいて、生身のイエスを強く感じることがある。そんなことを今日の個所を味わいながら思い出した。
6章53節「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない」。とても生々しい表現で、聞き手は一体どうすればいいのかと戸惑う。何ゆえこのような言い方をイエスはされるのだろうか。
イエスはご自身の生身の体に食らいつけと言っておられる。そしてイエスの生き様に徹底してならえと、心底叫んでおられる。「食らいつく」、「生き様に徹底してならう」。聖書のことばがこのように私の耳に聞こえてきたのは実はイエスが「心底叫んで」おられると感じたからだ。
ヨハネによる福音書から伝わってくる、生身のイエスとは、この生身のイエスの叫びに他ならない、と感じた。直前の51節には「わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」とある。イエスが差し出される生身(肉)は、この世の命となるためのものだ。イエスを食らい、心底イエスに従う者は世の命となるために生きる者とされる。しかしイエスが自分を食らえと叫ばれた人々は、イエスの生身を自分の生身の生き方としていなかった。
人々はつまずく。52節「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることが出来るのか」と。人々はイエスの叫びに気づかない。生身のイエスの痛み、悲しみ、貧しく打ちのめされた者との連帯の生き様に、食らいつき、命を受けよというイエスの叫びが届かない。人々の耳には響かない。イエスは世の命となるために生身を差し出された。この命に生きるためにはイエスの生身に心底食らいつき、徹底してその生き様に倣う他はない。
生身のイエスの叫びは、頑なな石の心となっている私たちの心の耳にも届くだろうか。イエスの思いと力が私たちを満たし、歩ませてくださいますように祈ります。