司祭 ヨシュア 文屋善明
義務【ロマ8:12−17】
1) 義務
使徒パウロは、「兄弟たち、わたしたちには一つの義務があります」(12節)という。何か、いきなりかたぐるしそうなことであるが、要は「おい兄弟、お互いにキリスト者として生きていくのはしんどいことだな」という意味である。「義務」なんていうから難しくなるので、要するに「しんどいこと」である。死んでしまえば楽なんだが、生き続けるということはしんどいことである。もちろん、ここでは人生一般の「しんどさ」ではなく、キリスト者として生きることのしんどさを問題にしている。
2) キリスト者としてのしんどさ
しんどいと思わない人は、それはそれでいいが、キリスト者として生きることのしんどさを感じている人にとっては、使徒パウロもしんどかったのか、と思うだけでもずいぶん慰めになる。それではいったい、キリスト者として生きることのしんどさとは何か。使徒パウロはきっぱりと、わたしたちのしんどさは、この世の中でほとんどすべての人が味わっているような「人生の苦労」ではない、という。キリスト者になったからといって、この世の中の普通の人が経験するような様々な苦労から逃れているのではない。不景気になれば、収入が減り、経済的に苦労するし、歳をとれば体が弱り、ボケることもある。キリスト者になったからといってその種の苦労から解放されるわけではない。ただ、言えることはその種類の苦労に耐える力と祈るすべを知っているということである。
キリスト者として生きることの苦労とは何か。使徒パウロは一口で言ってのける。「わたしたちは神の子だからだ」。もう少し丁寧な言い方をすると、「神の子とする霊を受けた」からである。これもややこしい表現である。もっと端的に「(遺産の)相続人になったからだ」と言えばわかるだろう。本当は息子ではなかったのに、たまたま何かの理由で「跡取り息子になってしまった」。「ぎゃく玉」かも知れないし、理由はどんな理由でもいい。つまり、キリスト者とは、自分の努力とか、策略の結果ではなく、何となく、幸運にも資産家の跡取り息子になってしまったのである。だから、キリスト者として生きることのしんどさとは、「神の子」として生きることのしんどさである。
3) 後継者の義務
ある平凡なサラリーマンの息子が、ある日突然、資産家の養子になり、跡取り息子人されたらどうなるのか。平凡なサラリーマンの息子であったときは、金には不自由したが、それなりに気ままに生きることができた。確かに、資産家の養子になったことはうれしいし、一生かかっても手に入れることができないような莫大な資産が自分のものになるし、黙っていても社長になれるだろう。いろいろな可能性が広がり、将来は明るい。今までとはまったく異なった生活環境が整っている。
しかし、同時に後継者には後継者としての義務がある。それなりの教養も身につけなければならないし、親類縁者との様々な付き合いもある。とくに、格式のある家の後継者ともなれば、それは平凡なサラリーマンの付き合いとはかなり異なる。今までの気ままなライフスタイルを変えなければならない。先祖の墓参りや老父母の世話だという面倒な努めも引き受けなければならない、こともある。
4) 神の子としてのしんどさ
キリスト者として生きることのしんどさとは、神の子として生きることのしんどさである。確かに、それはしんどい。しかし、そのしんどさは同時に喜びである。神の子として生きることは厳しい、しかしそれは同時に神の子としての自由がある。使徒パウロはいう。「キリストともに苦しむなら、共にその栄光をも受ける」(17節)。