司祭 エレミヤ 上松 興
「真理の霊と共に」【ヨハネによる福音書14:15―21】
今週の福音書は十字架直前に主イエスが弟子たちに言い残したヨハネによる福音書の告別の説教から採られています。告別という名が示すとおり教会暦もいよいよ主イエスが弟子たちの前から昇天される日が近いことを感じさせてくれます。
日課の冒頭に「あなたがたは私を愛しているならばわたしの掟を守る」とあります。この掟を守るという言葉は13:34に弟子たちと最後の食事をしている時に語られました。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなた方を愛したようにあなたがたも互いに愛し合いなさい」と言われたのでした。私たちが主日に教会に集い、主の食卓を囲むということはすでにわたしたちが互いに愛し合っている事実に基づいていることなのです。主の食卓に預かるというのはそもそも一人だけのことではなく、互いに愛し合いながら営まれるものなのです。その食卓の中心にはわたしたちが主を愛して止まない主イエスが臨在しておられます。集う者は皆主を愛し、互いに愛し合っているからこそ聖餐式が営まれることを覚えたいと思います。
主イエスは残される弟子たちに13:14にあるように「わたしの名によって」祈ることを教えられました。わたしたちは祈ることによって主によって養われ、強められるのです。そこで主イエスが(あなたがたのために)わたしは父にお願いしよう。「別の弁護者」を遣わしていただこうというのです。わたしたちの祈りはこの「弁護者」の派遣によって答えられることを示しています。ではこの「弁護者」とは何者か。元々の意味は「傍らに呼ばれた者」という意味で法廷用語としての弁護者を表す言葉でもありました。 現代で言えば弁護士のような存在ではないでしょうか。よくわたしたちの日常において衝撃的な悲惨な事件が発生して、犯人が捕まり、公判が始まります。犯人は世間から厳しい糾弾を受けて、だれも犯人に対してかばおうとしないとき、必ず犯人には弁護士が付きます。誰もが犯人の非道をなじっていても弁護士だけは味方となって傍らに寄り添い、本人のために弁護し、慰めを与え、支えています。
このことから主イエスはわたしたちが人々からいわれなき中傷や非難を受けたとき、また一人ではどうにもならない状況に陥ったとき共にいてくれる方を遣わしてあげるというのです。孤独ほどつらいものはありません。誰かわたしの側にいてほしい。共にいていてほしいと願います。傍らに寄り添い、共にいてくださる方が必要なのです。主イエスは「弁護者」を「真理の霊」であるといわれました。どんなに辛いときでも、苦しいときでもいつも真理の霊が傍らにいて慰め、寄り添ってくれます。孤独ではないのです。真理の霊が共にいることはどんなに心強いことでしょう。主に愛されているのです。主に愛されていることは何とすばらしいことでしょう。愛されていることを感じるとき自信がつき、勇気がわいてきます。わたしたちの人生は主によって愛され、共にいてくださる方がいることによって、大胆に何事も恐れずに歩むことができるのです。