2003年4月27日  復活節第2主日(B年)

 

執事 マーク シュタール

【ヨハネによる福音書20:19−31】


  今日は、福音書の御言葉に目を向けてみたいと思います。トマスの話を読むと、なんだかトマスが愚か者かのような印象を受けます。われわれは、イエスの復活を知っているが、トマスだけが疑っている。われわれの方がトマスよりちょっとましだと。トマスは、信じないなんて、なんて情けない。
  しかし、トマスは、他のみんなが既に見たことがらを自分も信じるために、証拠を十分に検証したかっただけのことです。もし証拠があるのなら、彼がそれを見たいと思うことは、ごく自然の欲求だったでしょう。他の弟子たちが体験したイエスとの直接の対面を、自分も果たしたいと願っただけのことでした。そして、トマスは、自らもそれを見るや信じると告白したのです。このトマスの様子は、私たちみんなにとって、大切なことを教えてくれています。私達も、証拠が必要です。それは、聖書であったり、教会であったり。しかし、生きているイエスに出会うこともまた必要なのです。もし、私たちが、神様によって用いられ、クリスチャンでない隣人にも良き知らせを伝えていくためには、自分も確たる証拠を得ること、そして、復活のイエスに出会うことが必要なのです。自分にそれがなくして、人に伝えることはできません。
  誰も神様を見た人はいません。しかし、神様によって人生が変わった人々を知っています。誰も、復活したイエスを見た人はいません。しかし、イエスの力と存在によって、新しく生まれ変わって人生を歩むようになった人を数多く知っています。神様の存在を証明する証拠などはないのです。もし、そんな証拠があるとするのなら、神様よりはるかに劣った存在の立証にしかなりません。なぜなら、神様は、いかなる定義をも説明をも超えた存在だからです。
  信仰もまた、証明できるものではありません。信仰は、神様とキリストが自分の人生の中に存在することに対して、自らが応えていくことなのです。私達は、自分の信仰を伝えることはできます。自分の信仰について語ることもできます。しかし、同じものを人の中に築くことはできません。それでも、他の人の信仰を感じたり、共感したりして、時に私達は、強められ、高められ、勇気づけられ、自分もまた復活のイエスの存在に応えて行くのです。主に感謝。


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