2003年4月13日  復活前主日(B年)



司祭 アンデレ 佐藤 徹

【マルコによる福音書15:1−39】

 復活日前週、所謂、聖週に近づくと、わたしは20年前にエルサレムでヴィア・ドロローサ、十字架の道行き、御自分が掛けられる十字架を背負って刑場まで辿られ、その道行きで起こった事柄、14留の一つ一つをイエスの御姿に思いを馳せながら、交替で等身大の十字架を背負ったことが思い出されるのである。わたしたちが背負った十字架は薄い板で、重くない物であったが、イエスが背負われた物はどのぐらいの重さであったかは分からないが、全人類の罪を背負っておられるのであるから、想像を絶する重さであることは確かであり、その中の一人がわたしであることは確かである。わたしたち19人が泣きながら祈りをし、聖歌を歌い、その道を辿ったことをいまだに鮮明に思い起こすことができる。
 この主日の福音書を見る時、わたしたちに衝撃的を与える事柄は、『「エロイ、エロイ、(マタイでは、エリ、エリ)レマ、サバクタニ」これは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。』ということである。
 イエスが十字架に掛けられたいきさつを読んでいくと、すべてのことが短時間に起こったことのように思えるが、実は6時間経過しているのである。マルコはこの時間の経過を最も正確に伝えている。イエスが十字架に付けられたのは午前9時、イエスの息が絶えたのは午後3時である。イエスは6時間、十字架にかかっておられたことになる。十字架に掛けられたある者は、数日間十字架上で苦悶した後にやっと息を引き取るというようなことがあったようである。いずれにせよ、その苦痛は想像に絶することである。この苦痛をわたしたちを、わたしを主なる神のもとに引き寄せるために、耐えられたのである。この苦痛の中で、七つの御言葉を言われているのである。その中の一つが、福音書の記録の中で最も衝撃を与える言葉が「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」である。
 さて、わたしたちはここで詩編の22編を一緒に読んでみたい。
イエスがサタンとの苦闘の最中、しかも死と直面しておられる時に、この言葉を発せられたということをどのように受け止めたら好いのでしょう。
 この詩編22編は、神に見捨てられた信仰者が敵対者に取り囲まれながら、なお、神に信頼の祈りを捧げる悲痛な声であり、最後は感謝の祈りとなっているのである。
 イエスは、この詩編のことを好くご存じで、まさに、御自分の十字架物語が語られていることをご存じであった。そして、父なる神への賛美と勝利の歌であることをもご存じであった。
 たとえ、冒頭の言葉を発しておられても、これはイエスが、人間的ないろいろな誘惑に打ち勝つため、父なる神に語りかけることにより、父なる神に祈られることにより、父なる神に助けを求めることにより、父なる神から離れることがないようにされているのではないでしょうか。すなわち、イエスを父なる神から引き離そうとするサタンの業に打ち勝つために、この詩編の冒頭に言葉を、大声で叫ぶように言われたのではなかろうか。たとえ、どんな苦しみであっても、孤独であっても、父なる神から離れるようなことはないという、サタンに対する勝利の宣言であると受け止めることはできないであろうか。そして、これがサタンに打ち破られない、たった一つの方法であることをわたしたちに示されているのではなかろうか。


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