2003年3月2日   大斎節前主日(B年)


司祭 マタイ 西川征士

主の変容と励まし


 今週水曜日(3月5日)は「大斎始日」。いよいよ大斎節に入ります。主の十字架を偲び、その道に従い、主の御苦しみの一部を体験する形で、克己訓練の道を歩み出そうとしています。
 その大斎節に入る前に、今日の福音書(マルコによる福音書第9章2−9節)では、有名な主イエスの「山上の変容貌」の記事が読まれました。「六日の後」と冒頭に記されていますが、この「変容貌」の出来事の六日前には、主が弟子達に十字架・復活の予告をされています。従って、この出来事は、既に十字架がさし迫ったある日に起こった事柄であったのではないかと思われます。
 主イエスは、信頼するペトロ・ヤコブ・ヨハネの三人を連れて山に登られました。その時、主イエスの姿が輝くほど真っ白な姿に変わり、弟子達は、まるで幻を見ているような不思議な体験をしたのです。彼らは主イエスが昔の預言者エリヤ、モーセと語り合っておられる姿を見たようです。また、雲が現れ、その雲の中から「これはわたしの愛する子。これに聞け。」という神の言葉を聞きました。この言葉は、主イエスがヨルダン川でバプテスマのヨハネから洗礼を受けられた時に天から聞こえた言葉とそっくりです。この体験はほんの束の間のものであったと思われますが、いずれにしても、弟子達にとっては不思議千万、恐ろしささえ感じるものであったに違いありません。
 この山上の「変容貌」の出来事は何を意味し、どのような事件だったのでしょうか。弟子達にとってどういう体験だったのでしょうか。難解な記事です。
 六日前に十字架・復活の予告をされていますが、このことを考えると、この時期では、主の弟子達への教育は相当の段階に至っていたのではないかと私は思うのです。十字架の死、復活を予告しても、それを受け容れることが出来るとの信頼が主イエスにあったればこそ、この予告をされたのだと思います。その証拠に、この予告の前の聖書の記事では、主イエスが弟子達に「あなたがたはわたしを誰と思うか。」という質問をされ、ペトロが「あなたは神の子、メシヤです。」という信仰を引き出した記事が記されています。それでも、主の十字架の死を予告された弟子達にとっては、信じられない程、辛く、どんなにか悲しいことであったかと思わざるを得ません。
 それで私は思うのですが、この主イエスの死のことを考え、悲しみに暮れている弟子達を励ます必要があったのではないでしょうか。弟子達は確かに悲しい十字架の道を共に歩まねばなりませんでした。けれども、その厳しい主の十字架の道を歩むためには、主の死のことだけを考えていたら乗り越えて行けません。彼らには希望が必要でした。だからこそ、この時に、主は弟子達の前で、栄光の姿、復活の姿を見せられたのだと思うのです。
 それは、主の愛による弟子達への励ましなのです。栄光の姿を見せることによって、復活に目を置き、希望を持って主と共に厳しい十字架の道を歩んで行けるようにとの配慮をもって、主は彼らに希望を教え、「頑張れ」と励まされた。―「変容貌」の出来事は、弟子達にとっては、そういう意味をもった出来事だったと言えないでしょうか。
 私達日常生活の中でも、多くの世事の中で、暗い部分ばかりに目を止め、心を暗くしてしまいがちです。私達にも常に希望というものが無かったら生きて行けません。どんな苦しみの時も、必ず希望が無ければ、それを乗り越えて行くことが出来ません。
 これから大斎節ですが、私達も主の十字架を共に歩み、禁欲生活を保ち、克己訓練に励まねばなりません。しかし、主の十字架の後にある輝かしい主の御復活を大きな希望として胸に抱き、進んで行くべきことを知らされます。この「変容貌」の物語は、そのような私達にも、「頑張れ」という御言葉として聞こえてくるのです。
 主の御復活を希望として、主の栄光の姿を目標にして、大斎節という主の十字架の道、人生の道を共に歩んで参りましょう。

 

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