司祭 ヨシュア 文屋善明
奴隷になる【コリントT9:16-23】
使徒パウロは「福音のためなら、わたしはどんなことでもします」(23節)と宣言する。これは非常に強い宣言である。福音のためなら、どんなにいやな仕事でも、つらい労働でも、またどんなに恥ずかしいことでも、あるいはそのことによって自分がどんなに悪口を言われようと、自分の評判がどんなに悪くなろうとも、損な役回りでも、喜んでする。この福音のためということの具体的な内容は、「人を得るため」「その人が福音によって救われるため」であって、「福音の真理のため」というような神学とか、真理とか、思想のためにではない。
「どんなことでも」という具体的な内容として、「わたしは、誰に対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました」と宣言する。ここで注目すべき言葉は「なりました」という言葉である。「ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。」「律法に支配されている人に対しては、律法に支配されている人のようになりました。」「律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。」「弱い人に対しては、弱い人のようになりました。」そして、最後には「すべての人に対してすべてのものになりました」。これは言うのはやさしいが、具体的にそのように生きるということになると大変なことである。
使徒パウロは、それを一つの覚悟とか、目標であるというのではなく、「なりました」という一種の過去形(エオリスト)で語る。新約聖書においてこの「なりました」という言葉は、一つの注目すべき「事件」が起こったときに用いられる言葉で、たとえばマタイによる福音書において主イエスがマタイの家で食事をしておられたときに、「一つの事件が起こった」(マタイ9:10)というような用い方をする言葉である。「小泉さんが首相になった」というのは一つの事件であるが、どこかの俳優が「首相の役をした」というのは事件ではない。いろいろなケースを考えることができるが、キリスト教では「最大の事件」は神のみ子が「人間になった」ということであろう。本当に人間になったのである。人間の真似をしたのではない。とことん人間になられたのである。しかも格好のいい人間になられたのではなく「奴隷の姿」になられた、ということにキリスト教のメッセージのすべてがある。しかも、「なりっぱなし」である。
水戸黄門は「ちりめん問屋の隠居爺さん」(庶民)になりすまして、諸国を旅し、いろいろな事件を解決する。しかし、黄門さんは決して庶民になったのではない。もし、そうなら誰も黄門さんを格好いいとは思わない。最後に、格好よく「あおいの印籠」をかざして、水戸黄門に戻って、締めくくるのである。主イエスの場合は「格好悪く」人間のまま、十字架で罪人として処刑されてしまうのである。使徒パウロは、「奴隷になりました」というとき、主イエスが人間になりました、という出来事を無視できるはずがない。
実は、使徒パウロがここでこのようなことを論じるのには一つの背景がある。どうやら使徒パウロが他の聖職たちと違って「聖職の報酬」を受け取らないということが問題になったようである。このことから、使徒パウロの「聖職性」が疑われたと推測される。つまり、パウロはアマチュアである、というような批判である。
むかし、わたしが未だ聖公会では「信徒であった頃」、京都伝道区の担当で信徒の集いが比叡山で開催され、数人の信徒たちが聖書研究を受け持つことになった。わたしもパネラーの一人として選ばれた。その時、ある教役者がわたしの話を聴いて、「文屋さんはセミプロだから」というような言い方をしたことがある。その時、わたしはいささか「むっと」した。なぜかというと、聖書研究ということではわたしはプロである。決してアマチュアでもセミプロでもない。ただ、聖公会では信徒という立場に立っただけで、そのことと神学や聖書学においてプロであるということとは関係ない。
報酬を受けるとか、受けないということで、聖職か聖職でないかということを判断してもらっては困る、というのが使徒パウロの主張である。もちろん、使徒パウロが報酬を得ることは「当然の権利」であると述べているのであり、聖職が報酬を受けることを批判しているのではない。ただ、自分自身の生き方の問題として「そうしない」というだけのことである。
17節は非常に曖昧であり、昔からいろいろと論議されているところであるが、ここでは「ゆだねられている務め」、とくに「務め」と訳されている「オイコノメノー」という言葉は非常に興味深い。もともとの意味は「家政」、家の中を管理すること、という意味である。ここから、この言葉は神が神の家である「世界」を計画・管理する、という意味で「世界経綸」というような意味で用いられるようになり、教会用語としては「エキュメニズム」という言葉として有名であり、一般的には「経済」(エコノミー)という言葉の語源ともなっている。「ゆだねられている」という言葉は「オイコノメノー」をどう訳すのかということにも関わるが、「配分されている」と訳すのが最も妥当だと思われる。わたしは、ここはもっと単純に「わたしに配分されている役割」とでも訳しておくほうがよいように思う。つまり、無報酬で、ということは自分の食い扶持は自分で働いて稼ぎ、伝道するという生き方が「自分に配分されている役どころ」「わたしのオイコノメノー」なのだ、ということであろう。
実は、わたしの父も「自分で自分の生活費を稼ぐ牧師」でした。こういう聖職の生き方の根本に使徒パウロのいう「なる」という体験がある。普通に生きている信徒たちと同じように「日毎の糧」を自分自身の労働によって稼ぐことによって、福音を日常化するということである。
使徒パウロは福音宣教のためならば、どんな「オイコノメノー」でも喜んで引き受けた。そのために投獄されることもいとわなかった。むしろ、獄中から「わたしの身に起こったことが福音の前進に役立ったと知ってほしい」(フィリピ1:12)と信徒たちに書簡を送っている。ここに真の福音宣教者の姿を見る。