司祭 ヨハネ 古賀久幸
夢の中で【マタイによる福音書2章19節から】
夢と言えば、日本の風習では「初夢」がその1年の吉凶を占うと大切にされてきた。古来より夢は未知の力からの示唆と言われている。京都、神護寺の明恵上人は自らの夢を書き綴りそれに深い洞察を加えている。大脳生理学の世界は科学的な見地から夢を見るメカニズムを徐々に明らかにしている。心理学ではフロイト、ユングが夢を大切に取り扱っている。現代人は夢についてもう少し注意を払っても良いと思う。
聖書の世界にも神は夢を使って人間に大切な示唆をされている。ヤコブは人生の大きな曲り角に立った時、天にかかった梯子を神の使いが昇り降りしている夢を見て神の臨在を感じた。この夢はその後数十年続く流浪の旅の間も彼を支え続ける核となった。その息子ヨセフも特殊な能力を持っていたが過激な内容の夢をそのまま語ってしまったばっかりに、兄弟の反感を買い命の危険にさらされる。夢はそれ自体独立したものであるから直接人に語ってしまうと危険であると言う警告だろうか。
さて、マリアの夫ヨセフは前述のヨセフとは時代も違う全くの別人である。しかし、「夢」が二人を結び付ける。
マリアの夫ヨセフには天使は夢の中で大切なことを告げている。最初はマリアと婚約中であった。マリアの妊娠と言う事態を前に大きなショックを受けた彼は密かに離縁しようと決心した。夢の中で天使が現れ、「おそれず妻マリアを迎え入れなさい。」とのお告げを聞いた。彼は眠りからさめると決心を翻してマリアを迎えに行く。2回目は幼子の誕生の直後、ヘロデが刺客をさしむけて幼子を殺そうとしたとき、やはり天使が夢で現れてエジプトに逃げろと告げる。このとき、ヨセフは起きて、夜の内に逃亡し間一髪で難を逃れている。さらに、ユダヤへの帰還にさいしてもやはり天使が夢に現れている。また、居住の場所も夢の中で天使に告げられたとおりにナザレへと定めている。ナザレのイエスとして育たれた救い主。ヨセフはこの子を神に差し出すまで、幾たびかの危険を乗り越えている。天使の御告げに従ったまでと言えばそうだろう。しかし、彼は自分自身にできることを必死に生きた。マリアの妊娠、そしてこれからの結婚生活をどうとらえたら良いのか、彼は正しい人であったが故にその悩みも深刻だったにちがいない。生れてくる子が特別な子なら、やがて権力争いの渦に巻き込まれる危険も心に含んでいたに違いない。それなら、どうすれば安全を確保できるか。彼は一生懸命人間として情報集め決断をしようとした。祈って生きる姿がある。それはそのまま、先の見えない世界に生きる私たちの姿。しかし、神は悩むものに必ず決断の道を与えてくださる。ヨセフの見た夢に直接天使が現れたかどうか分からない。象徴に満ちたものだったかもしれない。しかし、ヨセフは目覚めた意識で現実とそれを切り結んだ。そして、結果的に神の御心の成就の大きな計画の中に正しく組み込まれたのである。私は「人間の祈りに対する神様の答えの与え方」のケースとしてこの物語を読む。夢は複雑すぎて一概に言えることではないが、神は祈りにお答えになる時、夢をも使われる。ただし、聞き逃していることもたくさんあるだろう。私たちは目覚めた意識でそれを受け取っていきたい。