司祭 バルナバ 小林 聡
「平和ってなんだろう」【ヨハネ20:19-23】
「平和」という言葉、昨年からよく耳にします。モーニング娘。の歌にもピースとか平和という言葉が出てきます。平和が一番、なんてことをよく聞きます。最近特にこの平和という言葉の中身が、実はあまり分かち合われていないことに気づかされています。教会の中でも、生活の中でも。平和についてまじめに話すと何故かむさくるしい運動家のように見られてしまうのは何故でしょうか。
教会の中では聖餐式の中で交わされる挨拶が「主の平和」ですが、それは今日の福音書に出てくるイエスの言葉「あなたがたに平和があるように」と響き合う言葉です。イエスがこの言葉を語られた場面は、イエスを裏切り、またイエスを死に追いやったユダヤ人達への恐れに身を縮めながら、家の扉に鍵をかけ、自分たちの心にも鍵をかけていたその真ん中にイエスが現れた場面でした。弟子達はイエスを裏切ったこと、またイエスを死に追いやった人々への恐れから一歩も先へ進むことが出来ませんでした。立ち止まり、心を閉ざし、交わりを断つ集団。それが弟子たちの姿でした。復活のイエスはその真ん中に現れて言います。「あなたたちに平和があるように。父がわたしをつかわしたように、わたしもあなたたちを送り出す」。赦しと和解をもたらす使者として送り出すとイエスは弟子達に告げます。イエスから出る息吹、つまり聖霊の働きが弟子達を包み込み、押し出します。
平和の挨拶をかわす私たちは、この弟子達と同じように分裂や恐れ、争いの真っ只中で「平和」を語る者となるように、イエスから押し出されているようです。
先日韓国を訪れた際、出会った人達に京都聖ステパノ教会(私の派遣されている教会)から持っていったしおりをお土産にお渡ししました。そこには主の平和と書かれていました。すると韓国の方から平和という字は平等に皆が食事を口にするという意味があると言われました。主の平和は争いや分裂、疑いの只中に信頼と和解を回復する質を持っています。それはイエスがもたらした神様との和解であり人との和解です。平和を告げ知らせる世界とはこの不公正な世界であり、分かち合われず殺し合い、一日に3万人以上が飢えで死んでしまうそんな世界です。
イエスの息吹、聖霊は私達を癒し、この不公正な世界の只中に押し出しています。世界中で、私たちの暮らしの中で、平和を語ることは神様から命じられた教会の使命です。