3月24日  復活前主日(A年)



司祭 ペテロ 浜屋憲夫

棕櫚と十字架の主日

 日本聖公会の祈祷書では、復活日の一週前の主日の名称は、復活日の前の主日ということで、そっけなく、「復活前主日」となっていますが、アメリカ聖公会の祈祷書では、「The Sunday of the Passion:Palm Sunday(受難主日:棕櫚の主日)」となっていて、この主日が、主のエルサレム入場と、主の受難という二つのテーマを持つことをとても具体的に表現しています。アメリカ聖公会の祈祷書にはこの主日に行われるべき礼拝として、「The Liturgy of the Palms (棕櫚の礼拝)」が正式の式文として採用されていて、その式文の中では、主のエルサレム入場の箇所が読まれ、また当日の聖餐式の福音書では、主の受難の箇所が福音書として読まれるからです。日本聖公会でも、祈祷書の式文としては採用されていませんが、「大斎節中の礼拝」として別冊で用意された式文の中に、「復活前主日の礼拝」として、「棕櫚の礼拝」を行うことが出来るようになっていて、実際に日本聖公会の多くの教会でこの主日は、「棕櫚の礼拝」が行われていますし、聖餐式の日課はやはり主の受難の箇所が読まれますから、礼拝の内容としては、アメリカ聖公会も日本聖公会も殆ど同じ内容の礼拝をこの主日に行ってはいるのですが、私はアメリカ聖公会が、この主日に、「The Sunday of the Passion(受難主日)」という名前と「Palm Sunday(棕櫚の主日)」という名前を重ねて、一つの主日に二つのテーマがあることをハッキリと示しているのはとてもこの日の礼拝のための黙想の助けになるように思われます。森紀旦主教も、著書「主の御言葉」の中で、現行祈祷書の特徴の一つとして、受難週としての聖週の重要性が強調されていることと、歴史的な経過からこの主日に「棕櫚の礼拝」が行われてきたことから、この主日には、「二つの内容が記念される」ことになると書いておられます。
 そして、この「棕櫚」と「受難」という二つの内容は、決して無関係な二つの内容ではありません。弟子たちに伴われ、人々が棕櫚の枝を振りながら、「ホサナ」と歓呼する声に迎えられてエルサレムに入城されたその主イエスさまが、他ならぬ十字架につけられたその主イエスさまであるということこそ、この主日の黙想の中で私たちがその意味の深さを了解しなければならないことです。
 二十年以上前、神学生の頃に写真で見た一つの十字架を忘れることが出来ません。それは、一つの大きな十字架の両面に違うイエス像を彫りこんで一つの十字架にしたものでした。一方の面には、頭に茨の冠を被り手足に釘を刺され、脇から血と水を流しておられる受難のイエスさまの像、もう一方の面には、頭には王冠を被り、全身が光り輝き、両手を大きく広げて私たちを迎え入れてくださる栄光のイエスさまの像が彫られていました。
 どのようにして人々の「ホサナ」の歓声は、「十字架につけろ」との怒号に変ったのでしょう。そして、主の十字架の前に恐れおののき、絶望の淵にまで至った弟子たちは、どのようにして、再び「ホサナ」と聖餐式の中で唱えることができるようになったのでしょう。

 

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