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説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2024年6月2日(聖霊降臨後第2主日 ) 

イエスのまわりに座る

マルコによる福音書3章20-35

 

 イエスの宣教の始まりはカファルナウムから始まりましたが、ここガリラヤでの活動の内容は、3章7-12節で、さまざまな地方からの群衆が病気をいやしてもらおうとイエスに集まってきました。汚れた霊どもはイエスを見るとひれ伏して「あなたは神の子だ」と叫びました。

 313-19節では、イエスがこれと思う人を呼び寄せて十二人を使徒として任命しました。彼らに「宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせる」ためでありました。こうして、イエスの福音と働きを継承する人々を育て上げていきます。

 ところが、これらの人々とは違って、イエスをまったく否定する人たちもいました。きょうのそれに続く320節以下ではそのような人たちが登場します。ご一緒にみていきましょう。

 320-35節は内容的に二つの部分に分けることができます。一つは20-2131-35節であります。もうひとつは22-30節です。21節の冒頭に「身内の人たち」がイエスを取り押さえに来た、という話があり、結びにも「母と兄弟たち」がイエスを呼びに来る話があります。2つの話はこの箇所全体の枠組みのようになっています。この二つの間に、エルサレムから来た律法学者たちのイエスに対する批判とそれに対するイエスの答えが伝えられています。このようにサンドウィッチのような構造になっている場合、二つの話には内容に関連があります。身内の人たちは「気が変になっている」という風評に動かされて、イエスを取り押さえに来ました。都であるエルサレムから来たという権威を持つ律法学者は、人気とりのために悪霊の手下となった愚かな男だ、とイエスを中傷します。

 ここでは、身内の人についての話と律法学者たちの話、どちらの話もイエスに対して無理解な人々の姿が描かれているという点で共通していると言えるでしょう。また、ここでいう「聖霊に対する冒とく」とは何を指すのでしょうか。イエスの業は聖霊の働きによって悪霊を追い出しています。それなのにその行為を非難する律法学者たちのことを聖霊に対する冒とくであるとイエスは言います。 「聖霊を冒瀆する罪は永遠に赦されない。」と厳しくイエスは反論します。イエスはサタンの力を借りて悪霊を追い出しているのではなく、イエスには聖霊が働いて聖霊によってしるしをおこなっているのです。

 聖霊が働いているということは、イエスと共に神の国が到来しているのです。神の支配が始まっています。権威のある律法学者は、そして、「イエスは汚れた霊に取りつかれている」と見ている身近にいる人々もそれを見落としているのです。

 イエスは、彼のまわりに座っている者たちに「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と語りますが、捜しに来た身内の者に向けられた言葉でもあります。イエスが連れてくる、イエスが持ってくる神の国(支配)は、血脈を中心とする親、兄弟の人間関係に終止符を打ち、それを終わらせ、まったく新たらしい人間関係を作り出しているからです。そして、それは神に召し出された、あるいは呼ばれたという「内なる人」としての人間関係であります。

 彼らもイエスの教えや行いの意味を完全に理解していたわけではないのです。

 「神の御心を行う人」と言えば、何か特別に優れた人を指すのでしょうか。しかし、イエスはご自分の周りに集まって来た人々を指して、「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」と宣言されたのです。この人々はほとんどがイドマヤ、ティルスの各地方から集まってきた病人やしょうがい者、貧しい、小さくされた人々でした。当時の律法の基準からすれば、立派ではない人々、罪人同然の、神から比較的遠いと思われる人々でした。彼らはイエスのことを理解していません。教えをまだ受けていません。ただ彼らは「イエスのまわり」にいて、イエスの言葉を聞き続ける人たちです。イエスが語る「神の思い」とは、彼らの取っている行動そのものなのです。神の力である聖霊が働くのですから、身内の者や権威ある律法学者のように自分の理解や経験に留まるならイエスの行動は常軌を逸していると思うのも当然です。

 しかし、神が人に望んでいることは、「イエスが正気を失った」と心配して自分たちのいる場所へと引き戻すことではなく、神が示している救いと、イエスが与える喜びに生きることです。神のみこころを行なうとは、イエスの周りに座ること、イエスのことを十分理解できないけれどイエスの言葉を聞き続けることです。イエスのそばに居続けることです。今週もイエスのそばにいて、イエスの言葉をききつづけましょう。



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