説教要旨 |
2024年4月21日(復活節第4主日 ) |
イエスは良い羊飼い
ヨハネによる福音書10章11-16
復活節第4〜第6主日の礼拝では、ヨハネによる福音書が読まれます。これらの箇所は、復活して今も生きておられるイエスと今のわたしたちとのつながりを示している箇所です。とりわけ第4主日には毎年、ヨハネ10章の「羊と羊飼い」のたとえが読まれます。
ヨハネ10章のイエスの言葉は、文脈からたどりますと、9章1-34節では「生まれながらの盲人を癒す」物語でした。「先生、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したのですか、本人ですか,両親ですか」と問いかけます。イエスは「誰が罪を犯したのでもない。神の業がこの人に現われるためである。」
と答えました。
イエスによって癒された人は、「イエスは預言者であり、神のもとから来たのでなければ、何もできなかったはずだ」と答えますと、ユダヤ人たちは癒された人を外に追い出しました。
35-41節でイエスは外に追い出された人のことを聞きます。イエスは、「あなたは人の子を信じるか」と言われました。彼は「その方を信じたいのですが」と答えると、イエスは「あなたはもうその人を見ている」という。彼は「主よ、信じます」と言って、膝まずくと、イエスは「わたしが世に来たのは、裁くためである。」と言います。「こうして見えない者が見えるようになり、見える者は見えないようになる。」ファリサイ派の人々に、イエスは、「今、『見える』とあなたたちは言っている、だからあなたたちの罪は残る」と言いました。
このイエスの行動が背景にあって、羊と羊飼いの譬えがかたられました。「わたしは良い羊飼いである」と宣言し、羊の囲いの話に入っていきます。
パレスチナでは、牧畜は、生活のために必要であり、羊飼いは重要な存在でありました。旧約聖書の、詩編23編やイザヤ書では、主が羊飼いであり、イスラエルの民が羊の群れとして描かれています。美しい詩編です。
パレスチナの羊飼いは半遊牧生活をしていたと言われています。羊飼いは、草のあるところを探し求めて旅をしていたからです。
夜になると羊は各地に設けられた囲いに入れられました。この囲いは羊飼いたちが何世代もかけて作り上げたもので、いろいろな羊飼いの羊が混じって夜を過ごします。朝になって囲いを出るとき、羊たちは自分の羊飼いを知っていて、自分の羊飼いについていくそうです。羊飼いのほうも一匹一匹を見分けることができたと言われます。
両者の間に単なる知り合いではなく、信頼と愛によるつながり、心の交流があるということです。こういう当時の羊飼いの生活が背景にあって、きょうのたとえが語られています。
「良い羊飼い」の「良い」はギリシア語では「カロス」という言葉が使ってありますが、この言葉は、「外見的に良い」ことや「目的にかなっていて良い」ことを表す言葉と言われています。
ここでは、ぶどう、魚、果実、事物のなどの役に立つもの、という意味で用いられているようです。狼が来ると逃げ出す羊飼いは役に立たない羊飼いであるのに対して、羊のために命を差し出す羊飼いが「役に立つ良い羊飼い」なのです。
12節、まことの羊飼いと雇い人とが対照的に描かれていますが、このヨハネ福音書が書かれた時代が反映していると推測することができます。この時期にはユダヤ教の会堂からユダヤ教の一派であるナザレ派は追放されたり、あるいは殉教の死を遂げるというように身が危険にさらされていました。だから、羊を飼うべきはずの教会の指導者たちの中にも脱落者が出てきたことを反映しているのかも知れません。
つまり生活の手段として羊を飼う雇人となっているだけで羊の生死を自分の生死よりも軽いのではないか、ということを指摘されています。
11節の「命を捨てる」は17-18節でもくわしく語られています。「命」はギリシア語で、「プシュケー」です。ここでは肉体的な命と、神からの永遠の命の両方の意味で使われています。ヨハネ福音書ではイエスは積極的に、愛のゆえに命を差し出すのです。16節の「この囲い」とは何でしょうか。教会の中のある一つのグループを想定していて、他のキリスト信者が「この囲いに入っていない他の羊」なのでしょうか。しかし、もっと広く、キリスト信者ではない人も「他の羊」だと考えられます。
ここで言う「すべての人」はキリストを信じるすべての人のことです。ヨハネ福音書が書かれた時代、キリストを信じる人と信じない人、特にユダヤ人との対立は決定的になっていたので、この福音書では「イエスを信じる人々」と「信じない世」を対立させるような雰囲気があります。16節の「声を聞き分ける」は声を聞き分けて従っていくのです。イエスの声は「互いに愛し合いなさい」とわたしたちに呼びかける声でもあります。その声に聞き従う人とは誰のことでしょうか。彼にとってイエスを知るとは、イエスについての知識の問題ではなく、イエスによって自分が変えられたという体験そのものでした。イエスは良い羊飼いとしてわたしたち一人ひとりを知っていてくださいます。良い羊飼いは、自分の羊を自分のものとして命をすてるのです。知ることから人格的な交わりを通して愛にまでつながるのです。 一方で対比されている雇われた羊飼いは、羊のことが気にかからないのです。雇われた羊飼いは、羊はただの羊だけなのです。
イエスはまた羊のために言われます。今はここにいないが、まだ「囲いの中に入っていない人のためにも命を捨てる」のです。イエスは囲いに入っていない人々を呼び求めています。