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説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2024年3月24日(復活前主日 ) 

神に叫ぶイエスの最期

マルコによる福音書15章1-39

 

 教会の暦では、今週から聖週に入ります。さらに聖木曜日の洗足日・主の晩さんの夕べ礼拝から復活の主日までを「聖なる過越の三日間」と呼び、年に一度3日間かけて、イエスの「受難・死から復活」という「過越」をおぼえます。キリスト教にとって、最も大切な期節です。毎年、この中日の聖金曜日には、ヨハネ福音書19章の受難朗読が行われます。わたしたちは正午から十字架の道行きによって、イエスのご受難を辿りながら苦難の追体験をします。

 また、復活日前の主日、本日ですがイエスの受難を記念します。今年はB年ですのでマルコによる福音書141節〜1547節を省略なしで読むこともできます。

 きょうの福音書の箇所は、ローマ総督ピラトのもとでの裁判の場面から始まり、十字架の死に至るまで描かれています。また、ここに登場する人物についてもご一緒にみていきたいと思います。裁判における罪状は「ユダヤ人の王」というものでした。

 ユダヤは当時、ローマ帝国の直轄領になっていました。紀元2636年、ユダヤ、サマリアなどの地方を五代目のローマ総督として治めたのがピラトです。彼はローマの古いポンティオ家の出身でしたが気弱で決断を下すことに戸惑ったようですが、群衆の声に押されて判決を下しました。彼は、就任以来、ユダヤ人の激怒を買うような政策をとってきました。

 例えば、偶像を嫌うユダヤ人たちにわざわざ皇帝の肖像の付いた旗を掲げさせて、エルサレムに入城させました。

 ユダヤの民衆はピラトに完全に抑え込まれていました。この当時の社会は反権力闘争を行なう人たちがいました。熱心党と呼ばれるグループもありました。既にバラバという政治犯も投獄されていました。ユダヤ人にはローマの属国ですので、誰かが「ユダヤ人の王」を名乗れば、それは、ローマの支配に対する反逆者ということになります。

 祭司長たちがイエスを引き渡したのは、妬みのためだったので、祭司長たちは、バラバの方を釈放してもらうように群衆を扇動しました」(1510-11)。マルコ福音書によれば群集はいつもイエスに好意的でした。それは逆に、イエスのこれまでの活動が当時祭司長や律法学者たちは、危険人物であると烙印を押しました。その結果、イエスは死に追いやられることになりました。

 そこで裁判の尋問です。訴えられた罪状に対する問いですが、「お前はユダヤ人の王なのか」というピラトの問いに対するイエスの答えは「それは、あなたが言っていることです」と切り返し、弁明はしませんでした。きょうの長い箇所の中で、イエスはたった2回しか話していません。ピラトへの言葉以外にイエスが声を発するのは、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)(34)だけです。この絶望の叫びのように聞こえる言葉は、詩編22編の一節の言葉です。この受難物語の背景には詩編22編があることを知ることができます。詩編 22編は嘆きに始まり賛美に終わるので、イエスは神を賛美するために、この詩編の冒頭句を口にしたと説明することもあるようです。

 しかし、聖書の嘆きは絶望ではありません。それを教えるのは、エレミヤ 12章であります。沈黙する神に「私の神」と呼びかけるイエスは、なぜと問いながら、沈黙の底にあるはずの神の声が聞こえてくるのを待ちます。

 この叫びはもはや絶望ではなく、神の応答を求める祈りなのであす。弟子たちは去り、たった一人十字架にはりつけにされたイエスは恐ろしいほどの孤独の中にあります。しかし、イエスはその死の苦しみの意味を聞かせてほしいと神に叫ぶことができるのです。「私の神よ、なぜ」と祈り求めるとき、イエスは確かに神へと目を上げています。この時、イエスはひとりではなく、問いかける神と共にいます。

 だからこそイエスは最期まで神に聞き従った「神の子」であります。「ほんとうに、この人は神の子だった」という告白は、苦しむイエスを見つめ、イエスの言葉に耳を傾ける者だけが語ることのできる言葉なのです。

 また、このマルコ福音書の受難物語では、3人の人が象徴的な役割を果たしています。暴力革命家の政治犯「バラバ」。イエスはある意味で彼の身代わりになって死にました。バラバは、イエスの死によって救われたすべての人の象徴ではないでしょうか。もう1人は通りすがりの「シモンというキレネ人」がいます。彼はイエスの代わりに十字架を担ぎました。これは「自分の十字架を背負って」(マルコ834)イエスに従う弟子の象徴ではないでしょうか。さらに「百人隊長」はイエスの死を見て、「本当にこの人は神の子であった」と告白します。これは信仰告白するキリスト信者の象徴だと言えるでしょう。この3人の姿は、わたしたちを十字架のイエスに近づけるための類型になるとも言えるでしょう。

 マルコの描く「神の子」は力強く雄々しい方ではなく、「仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」(1045)方なのです。マルコの教会がおそらく迫害の中にあったこともこの受難の物語に影響を与えているようです。

 わたしたちが打ちひしがれ、悲しみのどんどこでただ苦しみに耐え、人からも神からも見捨てられたように思うとき、十字架のイエスもまた、それ以上に苦しまれたのだ、と感じることはどれほど大きな励ましになるでしょうか。十字架のイエスの姿は今のわたしたちひとり一人に何を語りかけているのでしょうか。決して強い人ではなく、十字架に果てる弱いイエスは、わたしたちの悲しみや苦しみと同じ目の高さで受け止めてくださいます。そして、わたしのそばにいなさい、わたしがあなたと共にいる、と、招いてくださっています。この聖週の一週間の歩みをイエス様とともに歩んで行きたいと思います。



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