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説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2024年2月11日(大斎前主日 ) 

姿が変わるイエス

マルコによる福音書9章2-9

 きょうの日課の少し前から遡ってみていきますと、

 827節で、イエスはフィリポ・カイサリヤの村々へ出かけられました。そしてイエスは「人々はわたしのことを何者だと言っているか」と尋ねました。弟子たちは「洗礼者ヨハネだ、エリヤだ、他には預言者のひとりと言っている人々がいます。」と答えると、「それでは、あなたがたはわたしを何者というのか」と問いました。ペトロが「あなたは、メシアです」と信仰告白をすると、イエスは自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒めました(8:27- 30)。その後、イエスは最初の死と復活の予告を行いました(8:31-9:1)。

 イエスから受難と復活の予告を聞いた弟子たちは、イエスの死を受け止めることができませんでした。そして、ペトロは、イエスをわきへ連れ出し、いさめています(マコ8:32)。十字架の受難へと向かうイエスに、弟子たちは悲しみを覚えたのでしょう。イエスは振り返って弟子たちに言いました。「サタンよ、さがれ、あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。私のあとに従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従いなさい。自分の命を救おうとする者はそれを失うが、私のため、また福音のために自分の命を失う者は、それを救うのである。人が全世界を手に入れても、自分の命を失うならなんの得があろうか、人がどんな代価を払ってもそれを買い戻すことができようか」と語られました。神に背いた罪深いこの時代を嘆かれました。

 91節には「神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる」と記されています。神に背いたこの罪深いこの時代を嘆かれました。

 きょうの福音は、イエスは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブの三人だけを連れて山に登りました。

 92-13節には「イエスの変容とエリヤに関する問い」が述べられています。2-8節が「イエスの変容」物語と言われているところです。その意味するところは、そこで、イエスは自分が受けることになる神の愛する子としての栄光を弟子たちに垣間見させると共に、神の栄光のために受難は避けられないことを教えます。

 「弟子たちの前で」イエスの姿は変わり、どんなさらし職人の腕前をもってしてもこの世の者には作り出すことのできない白さをまとうのです。「弟子たちの前で」とあるように、イエスの変容は弟子にイエスが受ける栄光の意味を教えるためのものであります。神の栄光をまとったイエスがエリヤとモーセと共に語り合う光景を弟子たちは目の当たりにします。

 ペトロは目の前に繰り広げられた天上の至福をこの地上に留めておきたいととっさに思いつき、いいました。ペトロが「三つの仮小屋を造りましょう」と提案しました。彼らがイエスの死を恐れ、しかもイエスが神から受ける栄光の意味を理解できないからでした。

 受難を経ずに神の栄光は与えられない。目の前の至福を今ここに留めようとするペトロの提案は神から退けられました。神が弟子たちに命じたのは、「私の愛する子に聞け」ということでした。雲からの声が聞こえた後、弟子たちが周囲を見回しましたが、誰も見えませんでした。イエスだけが自分たちと共にいるのを実感しました。まさに弟子たちと共にいるイエスこそは、十字架の道を歩むイエスであります。弟子たちはイエスと共に十字架を担うことを主なる神は求めています。十字架の道こそが栄光への道であります。

 「平地」は人の思いに留まる場であるとするならば、「山」は神の声を聞く場であります。

 それを教えるために、神が山の上で天からの栄光を弟子に指示したのです。イエスに聞き従がって受難の道を歩むようにと呼びかけています。

 ペトロのように受難を恐れて天上の栄光を地につなぎ留めようとするのではなく、イエスと共に十字架を担い、朽ちる地上のものではなく、朽ちない永遠の栄光を目指して歩むべきである、と教えています。なぜなら、信じるものには、十字架の苦しみは背負うにたる価値ある苦しみだからであります。



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