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説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2024年2月4日(顕現後第5主日 ) 

神の声に従うイエス

マルコによる福音書1章29-39

 イエスは安息日に会堂で教え、悪霊に取りつかれていた人を癒しました。先週の124節でも汚れた霊に取りつかれていた人がイエスに向かって「ナザレのイエスかまわないでくれ、われわれを滅ばしに来たのか、正体は分かっている。「神の聖者だ」といいました。なぜ、悪霊はイエスの正体を知っていたのでしょうか。それは「人間の力をはるかに超えた霊的な力によって」というしかないことでした。それは、神から遣わされたイエスを通しての権威を示すことでもありました。きょうの箇所もイエスが発した言葉が、行為になるという出来事が起こりました。これによって、イエスは与えられた権威を示されました。イエスの教えと行為の結びつきを強調しています。

 30節に、シモンの姑についての話があります。「手をとって起こされる」というイエスの行為は、病気の人に触れて、その人を癒すという行動でした。イエスに触れていただくことは、病人にとっては、その励ましと慰めはいかばかりだったでしょうか。

 悪霊を追い出すことは「人を神から引き離す力、人と人との間を引き裂いている力を追い払うことだと考えれば良いでしょう。その人を苦しめている悪の力が追い出され、神につながり、人の繋がりを取り戻すことができたのです。それがイエスの行なっていたわざでした。

 シモンの姑は、癒され、癒されたものの姿として、キリスト者の姿が描かれています。癒された人は、仕える人になりました。ペトロの姑は仕えることによって、イエスと同じように「愛と奉仕に生きる者」になっていった、と言ってもいいでしょう。これが今日のキリスト者の生き方の基本的な姿勢の原型になっているでしょう。ここでは、ただ単に肉体的な癒しだけが問題ではないのです。イエスの癒しを体験することによって、その人の生き方が変わることです。変わらないのは、イエスの十字架に出会っていないからです。

 しかし、イエスが誰であるかを知っていても悪霊は、イエスの係りを拒否するので、悪霊にとってイエスを知っていても救いに至らないのです。わたしたちはイエスが神の子であることは知っています。しかし、知っている、頭で理解していてもそれだけでは何の役にも立たないのです。わたしたちに問われているのは、そのイエスという方とどのような関係をもっているか、どのような関係を築こうとしているのかということです。イエスの宣教活動は「宣教し、悪霊を追い出すというものでした。もう一つのイエスの宣教は、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」ということです。神の国の到来は、神の支配がはじまっているということです。イエスの周りに集まった人々は、悪霊にとりつかれていた人が正気になり、病人が立ち上がるのをみて、確かにここに神の国が始まっている、と感じたことでしょう。

 35節のイエスの祈りはどのようなものだったのでしょうか。主イエスが離れたところへよく出かけられました。それは神の声を聴くためだったのでしょう。マルコは祈りの内容を伝えませんが、祈りの後でイエスは「近くのほかの町や村へ行こう」と弟子たちに呼びかけます。これはイエスが祈りの中で受け取った「神の望み」だったのではないでしょうか。イエスは祈りの中で、人間の思いとは違う「神の御心」を見いだしました。イエスの「近くのほかの町や村へ行こう」という命令は、マルコ1615節で「全世界に行ってすべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」とわたしたちにミッションを与えられています。



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