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説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2023年12月31日(降誕後第1主日 ) 

父の懐にいる方

ヨハネによる福音書1章1-18

 

 降誕日の後、一年の最後の主日です。今日は、降誕日と同じヨハネ1118が選ばれています。厳密にいうと降誕日の日課は14節迄でしたが。

 14節では、言が肉となった、ホ・ロゴスであるキリストが、肉となったのです。栄光は神のみに帰せられます。天地創造のときに言葉が神の共にいて、栄光をも共有していたことが語られています。

 今日の特祷でも祈られましたが、「驚くべきみ形に似せて、造られたことです」、その特祷の根拠になる出典は、「神は言われた『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう』神は自分にかたどって人を創造された。男と女に創造された」と創世記126-7節に記されています。人間は神の似姿によって、神の似姿として創造されました。この言であるキリストが肉となったのです。これがクリスマスの出来事です。

 今日は、天地創造の初めから存在し、受肉したイエス様について学んでいきたいと思います。天地万物を創造された神であるお方が、人間と同じ肉体をとるということはこの世の人びとには、考えられないことです。どうして聖なるお方が、こんな弱い人間の肉の形をとって、この世に来られたのか、そこが世の人には理解出来ないことでした。でもヨハネの114節には、はっきりと「言は肉となってわしたちのうちに宿られた」とあります。ニケヤ信経で毎週唱えられるように「造られず生まれ父と一体です。イエス・キリストは真の人にして、真の神であります。」私たちと同じような肉体を持ち、時には痛みを覚え、病いも苦しみも、悩みも悲しみもご存じのお方なのです。これが肉体をとられたということなのです。

 もう少し「肉」という言葉に注目して考えてみますと、肉というのは、この肉体の他に、肉の思いと使徒パウロが言われるように、人間の欲望や自己中心という人間の罪をも表しています。弱肉強食という言葉が示すように、特に現代社会は、強い者が勝つという競争の世界です。相手と自分を比較して、落ち込んだり、コンプレックスを持ったり、妬んだりする社会です。また逆に、自分を誇り、高慢になり自分の力で何でも支配したいという権力志向です。これらを称してパウロは、肉の世界と言っています。人間は弱肉強食の肉の世界に迷い込んでしまっているのです。そしてその肉の世界の根源、根っこはどこから来ているのでしょうか、私たち人間のこの肉体から来ているのです。使徒パウロは、ローマ書7章でこう言っています。「そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。わたしは自分のうちに、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。」(ロマ7:17-18)これが肉の本性で、この中には、罪が宿っているのです。そして私たちが生きている限り、肉体をもっていますからこの肉の中に存在する罪の法則の中に置かれているのです。これは、わたしも皆さんも例外ではありません。その罪のある人間の肉の只中に、キリストは生まれたのです。それがこの「(言=キリスト」が肉となって」ということの真の意味ではないでしょうか。なぜキリストが、神そのものであり、世界を創造され方であり、命であり、光でもある方が、この卑しい肉をとってこの世に来られたのでしょうか。イエス・キリストの受肉の使命は、ご自身の肉において全世界の人々の肉の中にある罪をすべて贖うためでした。

 17節に、律法はモーセを通して与えられたが、恵と真理はイエス・キリストを通して与えられました」、とあります。ここに示されるように、わたしたちは、罪を自覚し、罪から自由になることができませんでした。罪の奴隷となってしまいまいた。神はイエス・キリストを通して私たちに恵みと真理を与えてくださいました。ガラテヤ書に律法は、私たちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。私たちを信仰によって義とされるためです。ローマ8:3に、「肉の弱さのゆえに律法がなしえなかったことを、神はして下さったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。」とあります。この世の罪を取り除くために、キリストは肉を取ってこの世に来て下さいました。神の御独り子が、肉体を取って来て下さらなければ、わたしたちの肉の内に宿っている罪を取り除くことはできません。イエス・キリストを信じて受け入れた者は、肉の中にある罪と死の法則から解放されて、もはや人と競争したり争ったり、よく見せようとしたりする必要はないのです。「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死の法則からあなたを解放したからです。」(ローマ8:1)と使徒パウロは言っております。キリストが肉体をもって来て下さったのは、肉に宿っている罪と死の法則によってがんじがらめに縛られているわたしたちを御自分の肉の苦しみによって贖い出すためだったのです。肉の世界に、肉の只中に来て下さったのです。今、肉の苦しみにうめき悩んでいる人いませんか。人を赦すことができないで呻いている人。自分の肉の中にある悪い罪の習慣に苦しんでいる人。そういう私たちの肉の世界に、そして私たちの肉の思いの只中に、主イエスは来て下さったのです。そしてその肉を、御自分の十字架の苦しみを通して贖って下さり、わたしたちを肉の中の罪の苦しみから解放して下さるために来て下さったのです。これが言が肉となって、わたし達のうちに宿った、ということす。

 感謝と喜びをもって、降誕節を歩んで行きたいと思います。父と子と聖霊のみ名によって、アーメン。



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