header
説教要旨

(牧師) 司祭 モーセ  石垣 進

2023年12月17日(降臨節第3主日 ) 

後から来る方を証しする声として生きる

ヨハネによる福音書1章6-8、19-28

 

第3主日は伝統的に「喜びの主日」と呼ばれ、救い主が確かに来られる、もうそこまで来ておられるという喜びの雰囲気をもって祝われます。

福音は、先週のマルコ11-8節から洗礼者ヨハネは、イエスの先駆者であることが強調されていました。きょうの箇所は洗礼者ヨハネのイエスの前に遣わされた者としての証しが、ヨハネによる福音書の視点から描かれています。共観福音書と重ね合わせてみると立体的に見ることができるかも知れません。

 ヨハネ11-18節はこの福音書の「序文」と言われます。そのうちの1-14節は降誕日に読まれます。

きょうの箇所の6-8節はその中から採られています。6節では、ヨハネが神から派遣された目的について「彼は証しをするために来た」と記されています。」、また「光について証しをするために来た」「世に来て、すべての人を照らす光」であるイエスを証しし、イエスを信じるようになるために洗礼者ヨハネが来た、とヨハネの活動を伝えています。

聖公会の日課の選びかたでは、119節から福音書の物語として、洗礼者ヨハネについての証しが始まります。ヨハネ福音書は共観福音書と違って洗礼者ヨハネの生活や活動について述べていません。ヨハネは「わたしはメシアではない」と公言して、さらに「わたしは荒れ野で叫ぶ声である」と宣言します。共観福音書も「荒れ野に叫ぶ者の声」というイザヤ403節を引用してヨハネの登場の意味を語りますが、ヨハネ自身が「声」であると明言するのはヨハネ福音書だけです。ヨハネによる福音書にとって、洗礼者ヨハネはあくまでも「イエスを指し示す人」なのです。

先週に続き、きょうの福音でもイエスは「後から来られる方」として予告されているだけでまだイエスが姿を表していません。

22節の「あなたは自分を何者と言うのか」という問いに対して、洗礼者ヨハネは、「私は荒れ野で叫ぶ者の声である。主の道を真っ直ぐにせよ」と、告白し、自らが「声」にすぎないと言います。洗礼者ヨハネの任務は、主の到来に備えるようにと告げ知らせる「声」に徹することでありました。

ヨハネ福音書だけがこの 引用の前に「私は」と記しています。つまり、共観福音書では、福音書記者がイザヤ 403節 の「声」を洗礼者ヨハネと同一であると認めていますが、ヨハネ福音書では、洗礼者ヨハネ自身がいったことになります。こうすることによって、洗礼者ヨハネの「声」としての役割がよりいっそう強調されることになります。その結果、この「声」の「来たるべき方」に注意が向けられていきます。私の後に来る方と述べることは、洗礼者ヨハネに対する人々の期待を否定し、「荒れ野で叫ぶ者の声」にすぎないと答えました。では「なぜ、洗礼者ヨハネが特別な人でもないのに洗礼を授けるのか」と問いかけます。それに答えて、「私は水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる」と述べます。

ヨハネ福音書は、共観福音書と同様に、洗礼者ヨハネの洗礼は「水による洗礼」であると述べますが、「聖霊による洗礼」についてはいっさい記していません。ヨハネ福音書の興味は「水の洗礼」と「聖霊による洗礼」の対比することではありません。むしろ「私の後に来る方」の力強さと偉大さを力説することにあります。洗礼者ヨハネ以上の存在であることを示すことに関心があるからです。

その方は「あなたがたの知らない方」であり、人間の経験や知識を超えた方であるからです。その方を「証しする」ことが洗礼者ヨハネの使命なのです。

洗礼者ヨハネが自分ではないと否定し、声となって指し示した方は「私の後に来る方」であり、「あなたがたの間に」立っている方であり、洗礼者ヨハネが「彼の履物のひもを解くのにふさわしくない。」と続けますが、実際イエスが登場していません。しかし、アドベントの本当のテーマは「イエスご自身」です。

洗礼者ヨハネは「光について証しをするため」に来ました。そして「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らす」のです。降臨節は「わたしたちの闇に覆われて部分を映し出します。そして、「その闇の中に「光」である幼子を洗礼者ヨハネが証ししています。

しかし、クリスマスが来ても、わたしたちの闇が、苦しみが、悲しみが、なくなるわけではありません。それでも「光」は暗闇の中で輝いているのです。わたしたちはこの光に希望を見出します。ローマの祭りの義の太陽を取り込んで、降誕日が冬至の季節に祝われるのもこのことと関連があるようです。

寒い冬は確かに続いています。しかし、もう光の時が闇の時よりも長くなり始めている。という喜びと希望をわたしたちも感じとることができるでしょうか。

 洗礼者ヨハネは何らかの仕方で神から「後から来られる方」を示されたからこそ、その方について証言したのです。 

「キリストの証人となる」というとき、いくら言葉で語っても伝わらないと感じることは多いのです。もちろん、「わたしはこのような体験の中でイエスを知った、イエスの愛を感じた」というような言葉には力があります。

しかし、もっとも力強いのは、イエスと出会って私自身が変えられた、ということがその人の生き方の中に表れるときではないでしょうか。

キリスト教は、難しい神学ではなく、このような「証し」によって受け継がれてきた、と言っても過言ではありません。

わたしたちにとってイエスを証しするとはどういうことでしょうか。日々の生活の中で思いめぐらせていきたいと思います。



ページトップ」へ戻る